氷の表面における異常に高いプロトン活性の実証

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2020-03-30 分子科学研究所

概要

分子科学研究所の加藤史明大学院生(分子研特別共同利用研究員、京都大学大学院博士課程)、杉本敏樹准教授、豊田理化学研究所の松本吉泰フェローの共同研究グループは、結晶氷の表面と内部における水分子間のH/D同位体交換反応[1]の同時観測を通じ、氷表面のプロトン活性が氷内部に比べて3桁以上高い事を解明する事に成功しました。氷のプロトン活性における劇的な表面増大効果は、氷表面に特異的に発現する動的な水素結合[2]ネットワークにおいて「水分子の自己プロトリシス[3]頻度が劇的に高められている」事を示唆しています。本研究成果は、米国化学会の学会誌『Journal of Physical Chemistry Letters』の論文として2020年3月8日付(オンライン版)に掲載されました。

研究の背景

地球や宇宙に遍在する氷の表面は、様々な自然現象において重要な役割を担う事が知られています。近年の計測技術の発展に伴い、表面緩和や分子配向といった氷表面の構造に関する分子論的な理解が進んできました。その一方で、氷表面の化学的機能については十分な理解が得られているとは言い難いのが現状です。特に本研究で着目した氷表面のプロトンは、氷の電荷輸送、雷雲の帯電、極域成層圏や星間空間における不均一化学反応等に直接関係する重要な化学種です。プロトンは水分子(H2O)の自己プロトリシス(H2O ⇄ H+ +OH)で生じ、主にヒドロニウムイオン(H3O+)として水素結合ネットワーク中に存在して動き回ることができると考えられていますが、水素結合ネットワークの動的な揺らぎや構造の不均一性がプロトンのダイナミクスや機能にどのような影響を与えるのかコンセンサスが得られていませんでした。

酸や塩基など不純物を含まない純粋な水分子の凝集系においては、水分子間のH/D同位体交換反応(H2O+D2O⇄2HDO)は、水分子の自己プロトリシスによるプロトン(D2Oの場合はデュートロン,以下略)の生成、及び移動によって誘起されます(図1)。したがって、H/D交換反応の速度は水分子の自己プロトリシスで生じるプロトンの『濃度』と『移動度』に直接関係しています。本研究では、結晶氷の表面と内部で起こるH/D交換反応の速度を同時計測で詳細に調べることで、氷の表面と内部の水素結合の違いに起因してプロトン活性[4]に劇的な差異が生じている事を定量的に実証しました。

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図1. H2O分子に囲まれたD2O分子におけるH/D同位体交換反応のイメージ図。
①水分子の自己プロトリシスによりプロトン(ヒドロニウムイオン)が生じる。
②更にプロトン(ヒドロニウムイオン)がD2O分子を横切って移動することによって、結果としてD2O分子1個とH2O分子1個からHDO分子2個が生じるH/D交換反応が誘起される(H2O+D2O⇄2HDO)。

研究の成果と意義

本研究では、軽水(H2O)の結晶氷とその同位体である重水(D2O)の結晶氷を積層させた薄膜を作製し、熱脱離法(TDS)[5]と赤外反射吸収分光法(IRAS)[6]を同時に用いて氷試料の表面と内部の同位体組成の変化を観測しました(図2)。その結果、氷表面はH/D交換反応が十分に早く進行してほぼH/D交換平衡に達しているのに対して、氷内部ではH/D交換反応がほとんど進行していないことが明らかになりました(図3)。これらの結果は、氷表面と氷内部のプロトン活性に本質的な差異がある事を示唆しています。

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図2.H2O結晶氷とD2O結晶氷の積層試料の表面と内部で起きるH/D同位体交換反応(HDO分子の生成)を観測する実験のイメージ図。昇温中には、H/D交換反応だけでなく、分子の自己拡散[7]や脱離(氷の昇華)が誘起される。
図3.氷表面と氷内部の水分子の同位体組成比から導いたH/D交換の進行度QH/Dの経時変化。氷表面ではQH/Dの値が直ちにH/D交換平衡定数(~3.8)に達するのに対し、氷内部のQH/Dの値は非常に小さくH/D交換反応がほとんど進行していない。

この氷表面と内部の『プロトン活性』の差異をより定量的に議論するために、私たちは自己拡散[7]や脱離現象(昇華)を考慮してH/D交換反応の速度論モデルを構築し、種々の温度で観測された実験結果の解析を行いました。その結果、氷最表面層におけるH/D交換の速度定数が氷内部層に比べ3桁以上も大きい事が明らかになりました。プロトンの『移動度』については、結晶氷の表面は内部よりも3桁程度低いことから、私たちの実験結果は「氷表面層のプロトンの濃度が内部層に比べて6桁以上高くなっている」ことを示唆しています。

私達の近年の研究から、結晶氷の表面では内部とは異なる特殊な低配位の水素結合ネットワーク構造や動的揺らぎが誘起されていることが分かってきています[T. Sugimoto et al., Phys. Rev. B. 99, 121402(R) (2019)]。また,液体水に関する近年の理論計算では、水素結合ネットワーク中の水分子間の協同的な構造揺らぎによって自己プロトリシス過程が引き起こされていることも明らかになってきました。こうした知見に基づくと、結晶氷表面の柔らかで動的な低配位の水素結合が、氷内部の硬く静的な4配位水素結合に比べて自己プロトリシス過程を速度論的に容易にしていると結論づけられます。また、柔らかで動的な性質を持つ表面の水分子は、内部の水分子に比べて熱力学的に安定なプロトンの水和構造を形成し、氷表面層における自己プロトリシスの平衡定数を内部層よりも大きくする役割も果たしていると考えられます。これらの成果は、界面水分子系の特異な水素結合の物理化学を開拓するだけでなく、極域成層圏や星間空間においてプロトンが本質的に関わる種々の氷表面の機能とそのメカニズムを微視的に理解するための重要な礎となることが期待されます。

用語解説

[1] 同位体交換反応
同位体元素を有する複数の分子の間で同位体元素が入れ替わる反応。H/D同位体交換反応では水分子のH(プロトン)と、Hの同位体であるD(デュートロン)が入れ替わる。

[2] 水素結合
酸素(O)のような電気陰性度(原子核が電子を引き寄せる力)の高い原子から成る分子が、水素原子(H)を介して結び付く化学結合。

[3] 自己プロトリシス
プロトンの供与と受容の両方が可能な水などの両性溶媒の中で起きる、溶媒分子同士のプロトンの授受によるイオン化。特に水分子の場合には、プロトンH+と水酸化物イオンOHが生じる反応(H2O ⇄ H+ +OH)、あるいはヒドロニウムイオンH3O+と水酸化物イオンOHが生じる反応(2H2O ⇄ H3O+ +OH)を指す。

[4]プロトン活性
水素結合ネットワーク中をプロトンが『移動』することによって発現する化学的な機能性の指標。プロトンの機能性が巨視的に発現するためにはその『濃度』が高いことも重要であることから、本研究ではプロトン活性を「プロトンの『濃度』と『移動度』に比例する量」と定義している。

[5] 熱脱離法(TDS)
試料を加熱し、物質の表面から脱離する原子や分子を観測する手法。原子や分子の脱離挙動を調べることで、吸着量、吸着状態、脱離メカニズムなどの微視的な情報を得ることができる。質量分析計を用いて脱離種を計測することにより、表面に吸着している原子・分子の種類を同位体種も含めて特定することも可能となる。

[6] 赤外反射吸収分光法(IRAS)
赤外光を反射する物質において吸収される光のエネルギーや強度を計測する手法。これらの情報から、同位体も含めた物質中の分子種の定量分析ができ、更に分子の構造や運動状態を解明することも可能である。

[7] 自己拡散
同じ種類の分子や原子が、熱運動によって互いに位置を入れかえながら移動・拡散する過程の総称。ここではプロトンの授受や移動を伴わない水分子単位の拡散現象を指す。

論文情報

掲載誌:Journal of Physical Chemistry Letters

論文タイトル:“Direct experimental evidence for markedly enhanced surface proton activity inherent to water ice”
(「氷に固有の表面プロトン活性の増大現象に関する直接的な実験証拠」)

著者:Fumiaki Kato, Toshiki Sugimoto, Yoshiyasu Matsumoto

掲載日(巻号):2020年3月8日(J. Phys. Chem. Lett. 2020, 11, 2524-2529)

DOI:https://doi.org/10.1021/acs.jpclett.0c00384

研究グループ

分子科学研究所
京都大学
豊田理化学研究所

研究サポート

文部科学省科学研究費補助金 新学術研究(公募研究) 16H00937 (杉本敏樹)
日本学術振興会科学研究費17H06087, 19H00865 (杉本敏樹)
日本学術振興会特別研究員奨励費 17J08362 (加藤史明)
日本学術振興会科学研究費補助金 19H02681 (松本吉泰)

研究に関するお問い合わせ先

杉本敏樹(すぎもととしき)
分子科学研究所 准教授

報道担当

自然科学研究機構 分子科学研究所 研究力強化戦略室 広報担当

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