ビックデータ収集に向けたIoTネットワークの普及を加速
2020-03-11 産業技術総合研究所
ポイント
- ライトシフトの揺らぎを制御することで非常に安定した小型原子時計を実現
- 新しい理論を構築してセシウム(Cs)原子の固有周波数が変動しない駆動条件を導出
- 途切れの無いIoTネットワークを介したデータ収集への貢献に期待
概要
国立研究開発法人 産業技術総合研究所【理事長 中鉢 良治】(以下「産総研」という)物理計測標準研究部門【研究部門長 藤間 一郎】高周波標準研究グループ 柳町 真也 主任研究員は、首都大学東京【学長 上野 淳】(以下「首都大」という)システムデザイン学部電子情報システム工学科 五箇 繁善 准教授、株式会社 リコー【代表取締役 山下 良則】(以下「リコー」という)原坂 和宏、鈴木 暢、鈴木 亮一郎と共同で長期的に非常に安定した小型原子時計を開発した。
小型原子時計では原子の固有周波数の情報を得るのに、コヒーレントポピュレーショントラッピング(CPT:Coherent Population Trapping)共鳴という光と原子の相互作用に由来する共鳴現象を利用するのが主流となっている。しかし、長期的な時間・周波数の安定性はライトシフトの揺らぎによる周波数変動によって制限されていた。今回、セシウム(Cs)小型原子時計の重要部品である面発光レーザー(VCSEL:Vertical Cavity Surface Emitting Laser)の経年変化に着目し、ライトシフトが揺らぐメカニズムを解明、揺らぎを抑制する技術を開発して、非常に安定した小型原子時計を実現した。高安定な原子時計は、IoTネットワークを通じたシームレスなデータ収集への貢献が期待される。今回の成果の詳細は、2020年3月10日に米国物理学協会の学術誌Applied Physics Lettersに掲載される予定である。
なお、この成果は国立研究開発法人新エネルギー・産業技術総合研究開発機構(以下「NEDO」という)の委託研究業務の結果得られた成果である。
モジュール実装された小型原子時計(左)と量子部内に配置されたVCSELとCsガスセル(右)
開発の社会的背景
膨大なデータの中から新たな知見を見出すビックデータの収集・分析・活用への取り組みが本格化しつつある。これまでは顧客の購入・検索履歴といったヒトから得られる情報の活用が主であった。最近は、省電力広域ネットワークなど低消費電力の通信技術の発展によりヒト以外のさまざまなモノから情報が発信される本格的なIoT時代へと向かっており、そこから得られるであろう新たな知見に期待がかかっている。しかし、情報に付随する時刻情報が不正確だとデータ分析でのノイズとなるため、正確な時刻情報の重要性が増している。これまで時刻情報は全地球航法衛星システムに頼ってきたが、電波妨害やなりすましによる時刻情報の改ざんがもたらす脆弱性が指摘されている。IoT端末に小型で安定した原子時計を搭載できるようになれば、IoT端末が利用する時刻の正確さを自律的に診断・補正可能となるため、全地球航法衛星システムで問題となっている安全性を確保することができる。
研究の経緯
産総研は、1970年からCs原子時計の研究開発に取り組んでいる。現在、「1秒」はCs原子の固有周波数に関連した持続時間で定義されており、産総研は時間の1次標準器を用いて国際原子時の高精度化に貢献している(産総研プレス発表2003年6月9日、産総研today2011年8月号)。近年は、実験室の外の環境で、全地球航法衛星システムに依存しないで容易かつ高精度に時刻情報を一致させる技術ニーズに対応するため、小型原子時計の開発を進めている。NEDOが推進する「インフラ維持管理・更新等の社会課題対応システム開発プロジェクト」で、2015年より無線センサー端末に搭載できる小型原子時計の開発を開始し、これまでに低消費電力化の技術を確立した(産総研プレス発表2019年2月19日)。
研究の内容
一般的に、小型原子時計を駆動するには量子干渉効果の一種であるCPT共鳴を利用する。半導体レーザーであるVCSELに周波数変調を加え、出力される2周波数のレーザー光とCs原子の相互作用によりCPT共鳴が生成する。その過程で、ライトシフトも共に発生してしまい、Cs原子固有周波数の変動要因となり、小型原子時計の長期的な安定性を阻害してきた。
今回、VCSEL発振波長の経年変化がライトシフトの揺らぎに関与していることを定量的に解明した。しかし、ライトシフトの揺らぎを直接抑制することは消費電力の増加につながる。そこで、半導体レーザーの基礎方程式に基づき、VCSEL発振波長が経年変化してもCs原子の固有周波数が変動しない駆動方法としてゼロクロス法を考案し、小型原子時計に適用した(図1)。
図1 ライトシフト揺らぎ抑制技術概要
ゼロクロス法適用の効果は、150日以上の長期間の評価期間を経て、慎重に検証した。ゼロクロス法を適用した場合はCs原子の固有周波数の変動を十分に抑制することができ、その結果、平均時間を約50日間(4.3x106秒)とした場合、従来の小型原子時計と比べて100倍の安定性を得ることに成功した(図2)。
図2 従来品と、ゼロクロス法を適用した本開発品の性能比較
今後の予定
今後は小型原子時計のさらなる高安定化を目指した研究開発を進める予定である。
用語の説明
- ◆小型原子時計
- 原子時計は原子と電磁波の共鳴現象に現れる共鳴周波数と、一般的な時計に利用される水晶発振器の周波数を関連させている時計である。そのため、一般的な時計より安定な時計装置が実現できる。小型原子時計ではパッケージング技術により共鳴現象を得るために必要なデバイスを量子部へ集積化する。量子部内へはヒーターと測温素子からなる温度制御機構と、面発光レーザー素子(VCSEL)、Cs原子を封入したガスセル、検出器である受光素子などが配置される。
- ◆CPT共鳴
- CPT(Coherent Population Trapping)は量子干渉効果の一種であり、原子と電磁波の共鳴現象である。Cs原子に光を照射すると、通常であれば吸収が起きて透過光量は減少する。そこに2種類の周波数の光を照射する場合、それらの光の周波数差がCs原子の固有周波数と一致すると、Cs原子内に光を吸収しない量子的な重ね合わせ状態が発生し、光の吸収量が減少、すなわち透過光量が増加する。以前の原子時計はCs原子とマイクロ波(波長3 cm)の直接相互作用となる共鳴現象を利用していたため大型であったが、このCPT共鳴を利用すれば光の波長領域(1μm以下)でも共鳴現象が生じるので、小型原子時計では必須の手法となっている。
- ◆ライトシフト
- 量子力学に基づいて発生する原子のエネルギー準位の変化(シフト)に関連する現象である。CPT共鳴を生成するためにはCs原子にレーザー光を照射し、光の電場成分(光電場)と原子の相互作用を活用する。一般的に光電場中のCs原子は電荷分布の偏りを持つようになり、さらにその電荷分布の偏りに対して周期的な変化をもたらす。その結果、原子のエネルギー準位が変化し、Cs原子の固有周波数の変化となって観測される。このようにして現れるCPT共鳴の共鳴周波数の変化をライトシフトという。
- ◆VCSEL
- VCSEL(Vertical Surface Emitting Laser)は基板面に垂直にレーザー光を放射する面発光レーザーであり、半導体レーザーの一種である。このレーザーは光を閉じ込める半導体素子の体積が小さいため電流による変調帯域が広く、レーザー発振波長に、予測不能で意図しない不連続な変化がほとんど起こらないという特徴を持つ。さらに小型原子時計への搭載に対しては、閾値電流が低く、省電力動作が可能という優れた特徴をも併せ持つ。
- ◆全地球航法衛星システム
- GPS(米国)、GLONASS(ロシア)、Galileo(ヨーロッパ)、準天頂衛星(日本)などの衛星測位システムの総称。人工衛星からの電波を用いて、受信機の位置決めや時刻補正ができる。
- ◆Cs原子固有周波数
- Cs原子の基底状態には周波数約9.2GHzのマイクロ波に相当するエネルギー準位構造があり、原子時計の基準として用いられる。
- ◆ゼロクロス法