2019-08-21 東京工業大学,青山学院大学,日本原子力研究開発機構 J-PARCセンター
【要点】
- 量子反強磁性体中で量子干渉効果により磁気準粒子が動けなくなることを中性子散乱実験で観測
- この磁性体の相互作用のフラストレーションが完全であることを確認
- 格子欠陥の作用によって形成される量子力学的励起状態を観測
- 量子磁性材料の開発に期待
概要
東京工業大学 理学院 物理学系の栗田伸之助教、田中秀数教授、青山学院大学 理工学部 物理・数理学科の山本大輔助教、古川信夫教授、理工学研究科 理工学専攻基礎科学コース博士前期課程の金坂拓哉大学院生(研究当時)、日本原子力研究開発機構 J-PARCセンターの河村聖子研究副主幹、中島健次研究主席の研究グループは、量子反強磁性体Ba2CoSi2O6Cl2の中性子散乱実験により、この磁性体中ではトリプロンと呼ばれる磁気準粒子(用語1)が、相互作用のフラストレーション(用語2、図1)による量子干渉効果(用語3)によって全く動けなくなることを確認した。また、格子欠陥による不対スピンとトリプロンが量子力学的励起状態を形成することを明らかにした。
通常の磁性体では、磁気準粒子は波のように結晶中を伝搬し、一般にその励起エネルギーは波の波長と進行方向によって異なる値をとる。しかし、磁気準粒子に働く相互作用のフラストレーションが完全な場合には、磁気準粒子は磁性体中を全く動けなくなり、その励起エネルギーが一定になることが理論的に示されていた。本研究では、この現象がBa2CoSi2O6Cl2で起こることを実証するとともに、通常は観測できない格子欠陥の効果が明確になることを示した。今回の結果は、今後の量子磁性材料の開発につながると期待される。
この成果は7月13日付けの米国の学術誌「Physical Review Letters」電子版に掲載された。
図1 スピンのフラストレーション
矢印の向きは電子スピンの向きを表す。スピン1を上向き、スピン2を下向きにすると、スピン3はどちらを向いて良いかわからなくなる。
背景
磁性体の磁気は磁性原子のもつ電子のスピン(用語4)が担っている。電子のスピン間にはスピンを平行(強磁性)、あるいは反平行(反強磁性)にする働きをもつ交換相互作用(用語5)が働いている。このためにほとんどの磁性体では、温度を下げると、スピンが平行に揃った強磁性状態や、反平行に揃った反強磁性状態への相転移が起こる。このような磁気秩序状態をもつ磁性体では一般に、スピンを古典的なベクトル(矢印)のように考えても、磁性を理解することができる。相転移は矢印の向きの秩序と考えることができるし、スピンの運動は矢印の変動として理解できる。これに対して、磁性体を量子力学的粒子の集団と考える方がより的確に磁性を理解できる場合がある。本研究の対象であるBa2CoSi2O6Cl2はこの場合に当たる。
Ba2CoSi2O6Cl2は、反強磁性的な強い交換相互作用で結ばれたスピンの対(ダイマー)が、他のダイマーと弱い交換相互作用を及ぼし合う磁性体である(図2(a))。スピンダイマーの量子力学的状態には、磁気が消えたシングレット状態と、磁気をもつトリプレット状態の2つがあり、磁場がない場合にはシングレット状態のエネルギーの方が低い。このため、スピンダイマーから構成される磁性体では、ゼロ磁場において磁気相転移は起きず、絶対零度では磁気が消えたシングレット状態になる。このような量子力学的効果を強く示す磁性体は、量子磁性体と呼ばれる。
スピンダイマーから構成される量子磁性体での磁気励起は、シングレット状態からトリプレット状態への励起であり、これはトリプロンと呼ばれる準粒子で説明される。一般に、ダイマー上に生成されたトリプロンは、ダイマー間の弱い交換相互作用によって隣のダイマー上に移動することができるので(図2(b))、波として磁性体中を伝搬することができる。波のエネルギーは波長や進行方向によって異なるので、トリプロンの波は分散関係(用語6)をもち、励起のエネルギーは有限な幅をもつ。一方、ダイマー間に2種類の交換相互作用(赤い線と青い線)がある場合(図2(a))には、この交換相互作用を経由して隣のダイマー上に移動するトリプロンの波が逆位相になるため、干渉効果によって、トリプロンが移動する確率が減少する。この図2(a)の場合のように、逆の効果をもつ2種類の相互作用が競合している状況をフラストレーションと呼ぶ。2種類の相互作用エネルギーが全く同じ場合には、トリプロンが隣のダイマー上に移動する確率がゼロになり、トリプロンは全く動けなくなる。このような完全なフラストレーションが起こると、磁化曲線(用語7)は階段状になり、飽和磁化の半分の値のところで磁化が磁場によらず一定になる平坦領域(プラトー)が現れることが知られていた。この磁化プラトー領域では、トリプロンが互いの斥力を避けるように一つおきにダイマー上に配列する結晶化が起きている(図2(c))。Ba2CoSi2O6Cl2でも、実際にそのような磁化曲線が観測されたことから、完全なフラストレーションが起こっているのではないかと考えられていた [1]。
図2 Ba2CoSi2O6Cl2の磁気模型と準粒子トリプロンの模式図
(a)Ba2CoSi2O6Cl2の磁気模型。スピン(白丸)が反強磁性的交換相互作用(太い実線)で結ばれてスピン対(ダイマー)を形成し、隣りあうダイマーが反強磁性的交換相互作用(赤い線と青い線)で弱く結ばれている。(b)磁気準粒子トリプロンの運動の模式図。ダイマー間の交換相互作用によって、トリプロンは量子力学的粒子のようにダイマーを移動する。(c)磁化プラトー状態で予想されるトリプロンの配列(結晶化)。トリプロンは互いの斥力を避けるように一つおきに配置する。
研究の経緯
フラストレーションと量子力学の効果によって、磁気準粒子が磁性体中で動くことができなくなり、磁化曲線にプラトーが現れる巨視的量子現象の観測は、これまでほとんど例がなく、他の理論模型で表される量子磁性体での一例しかない[2]。したがって、このような顕著な量子効果が、図2(a)の理論模型で表される実際の物質で起こることを示すことは重要である。本研究グループは、Ba2CoSi2O6Cl2の磁気励起に着目した。中性子散乱(用語8)は、広い波長領域とエネルギー領域の磁気励起を調べる唯一の実験手段である。研究グループは、60個以上のBa2CoSi2O6Cl2の薄い結晶を結晶方位が揃うように並べ、中性子散乱実験を行なった。使用した装置は、大強度陽子加速器施設「J-PARC」(用語9)の物質・生命科学実験施設に設置された冷中性子ディスクチョッパー分光器AMATERAS(アマテラス)(図3)で、低エネルギーの励起を高精度に検出できる世界有数の装置である。本研究では東京工業大学と日本原子力研究開発機構 J-PARCセンターのグループが試料育成と中性子散乱実験を行い、青山学院大学のグループが理論解析を行った。
図3 J-PARC物質・生命科学実験施設に設置された冷中性子ディスクチョッパー分光器AMATERASの見取り図
2つのチョッパーの回転数を調整することによって、特定のエネルギーの中性子のみが試料に入射できるようになっている。
研究成果
この中性子散乱実験の結果、鮮明な3種類の励起スペクトルが得られた(図4(a))。これらはいずれも、励起エネルギーが波数に依存しないことから、波として伝搬する励起ではなく、結晶中の特定の位置に局在する励起である。特徴的なことは、図4(c)-(e)のように、実験で得られた3種類の励起について、結晶のab面に平行な波数空間に励起強度をマップすると、励起強度の波数依存性が全て異なることである。
まず、励起スペクトル(図4(a))で中間に位置する励起(E = 5.8 meV)は、強度が最大で、強度の波数依存性がない(図4(d))。これは結晶本来の励起である。この励起が1つしかないことから、全てのダイマーが等価であることがわかる。この結果と、以前観測された磁化プラトーのある階段状の磁化曲線から、Ba2CoSi2O6Cl2ではダイマー間交換相互作用のフラストレーションが完全で、トリプロンが全く動くことができなくなっていることが明らかになった。
次に問題になるのは、励起スペクトル(図4(a))の上と下に位置し(E = 6.6、4.8 meV)、励起強度に波数依存性がある励起(図4(c)と(e))の起源であるが、これは、格子欠陥による不対スピンとダイマーが結合して形成される、2種類の量子力学的励起状態である。これは、不対スピンとダイマーの結合模型(図4(b))に基づいて計算した励起強度のマップ(図4(f)と(h))が、実験結果(図4(c)と(e))の波数依存性を非常によく再現することからわかる。格子欠陥は多くの磁性体結晶に存在するが、その効果は、磁性体本来の波数依存性のある磁気励起に隠されて、ほとんど観測できない。一方、Ba2CoSi2O6Cl2では、励起エネルギーに波数依存性がないため、結晶本来の励起と格子欠陥が関与する励起がはっきりと分離しているので、格子欠陥の効果の観測が可能になったと言える。
図4 グラフ(a)はAMATERASで測定したBa2CoSi2O6Cl2の磁気励起スペクトル。(b)は格子欠陥(破線の丸)によって生じた不対スピンとダイマーの結合模型。(c)-(h)は、励起エネルギーがそれぞれE = 6.6、5.8、4.8 meVの磁気励起の強度マップ。このうち(c)(d)(e)は実験結果、(f)(g)(h)は理論計算結果の強度マップである。
QaとQbはそれぞれ結晶のa軸とb軸方向の波数。測定温度は4.0 Kである。
今後の展開
本研究は、フラストレーションが強い量子反強磁性体Ba2CoSi2O6Cl2がもつ新奇な磁気励起を明らかにし、磁場中で磁気をもったトリプロンの結晶化が起こることを裏付けた。今回のような純良単結晶を用いた精密な中性子散乱実験から、今後も多くの新しい現象が発見され、物性研究のフロンティアが拓かれていくものと考えられる。磁性体は、磁気記録、磁気ヘッド、永久磁石など様々な応用がなされているが、これまでは主に古典的磁性が用いられてきた。磁性体の量子効果を応用できれば、新しい磁気デバイスの開発につながる。本研究は、今後の量子磁性材料の開発につながると期待される。
【参考文献】
[1] H. Tanaka, N. Kurita, M. Okada, E. Kunihiro, Y. Shirata, K. Fujii, H. Uekusa, A. Matsuo, K. Kindo and H. Nojiri, J. Phys. Soc. Jpn. 83, 103701 (2014).
[2] H. Kageyama, K. Yoshimura, R. Stern, N. V. Mushnikov, K. Onizuka, M. Kato, K. Kosuge, C. P. Slichter, T. Goto, and Y. Ueda, Phys. Rev. Lett. 82, 3168 (1999).
本研究は、科学研究費補助金基盤研究(A)(26247058及び17H01142)、基盤研究(B)(17H02926)、基盤研究(C)(16K05414及び18K03525)の支援を受けている。また、中性子散乱実験はJ-PARC物質・生命科学実験施設でのユーザープログラム(課題番号2015A0161)の下で行った。
【用語説明】
(用語1)磁気準粒子:
磁気をもった仮想的粒子をいう。スピンの歳差運動の波であるスピン波(マグノン)やスピン対(ダイマー)からなる磁性体のシングレット状態からトリプレット状態への励起を表すトリプロンは、代表的な磁気準粒子である。
(用語2)フラストレーション:
幾何学的配置や逆の効果をもつ相互作用の競合によって、全ての相互作用エネルギーを最低にすることができない状況(どこかの相互作用に必ず不満が残る状況)。これを物理学では「フラストレーションがある」という。
(用語3)量子干渉効果:
量子力学的粒子は結晶中を波として伝わる。各場所での波の振幅が粒子の存在確率に対応する。粒子の波の山と山あるいは山と谷が重なり合って、波が強め合ったり弱め合ったりする現象が量子干渉効果である。
(用語4)スピン:
粒子の自転運動に対応する物理量で、電子は大きさが1/2のスピンをもっている。自転の向きに右ねじを回したとき、ねじの進む向きがスピンの向きである。電子は負の電荷をもつので、自身の自転によって小さな磁石の性質(磁気モーメント)をもつ。スピンは量子力学の法則(不確定性原理)に従うので、スピンの向きを完全に決定することはできない。
(用語5)交換相互作用:
電子のスピン間に働く量子力学的相互作用で、近接する磁性原子上の電子が互いに位置を交換し合うことによって生じる。交換相互作用は電子のスピンを平行、あるいは反平行にする働きをもつ。磁性原子のスピンを平行にする交換相互作用をもつ物質を強磁性体、反平行にする交換相互作用をもつ物質を反強磁性体という。
(用語6)分散関係:
一般に固体中の励起は波として結晶全体を伝搬する。トリプロンはその一つの形態である。励起に必要なエネルギーは波の波長と進む向きによって異なる値をもつ。波長の逆数を大きさにもち、波の進行方向を向きにもつベクトルを波数ベクトルといい、励起エネルギーと波数ベクトルの関係を分散関係という。
(用語7)磁化曲線:
磁気の強さを表す磁化と、加えた磁場の関係を表す関数をいう。通常の反強磁性体の磁化曲線では、磁化は飽和するまで磁場と共に増加し、飽和すると一定になる。
(用語8)中性子散乱:
中性子は粒子の性質と波動の性質をもっている。波動としての性質を利用した実験が中性子散乱である。中性子は磁気モーメントをもつので、固体に入射した中性子は原子を構成する原子核からの核力によって散乱されるだけでなく、磁性原子のもつ磁気モーメントによっても散乱される。入射中性子と散乱中性子のエネルギーに変化がない場合が弾性散乱で、ブラッグの法則に基づいて結晶構造の決定や磁性体中の磁気モーメント配列の決定に利用される。これに対して、入射中性子と散乱中性子のエネルギーに変化が生じる場合が非弾性散乱で、磁気励起をはじめとして固体中の励起現象の研究に用いられる。この場合、入射中性子と散乱中性子のエネルギーの差が励起エネルギーになる。
(用語9)J-PARC:
大強度陽子加速器施設(Japan Proton Accelerator Research Complex)。高エネルギー加速器研究機構と日本原子力研究開発機構が茨城県東海村で共同運営している大型研究施設で、素粒子物理学、原子核物理学、物性物理学、化学、材料科学、生物学などの学術的な研究から産業分野への応用研究まで、広範囲の分野での世界最先端の研究が行われている。J-PARC内の物質・生命科学実験施設では、世界最高強度の中性子およびミュオンビームを用いた研究が行われており、世界中から研究者が集まっている。
【発表論文】
掲載誌:Physical Review Letters 123 (2019) 027206
論文タイトル:Localized Magnetic Excitations in the Fully Frustrated Dimerized Magnet Ba2CoSi2O6Cl2
著者:N. Kurita, D. Yamamoto, T. Kanesaka, N. Furukawa, S. Ohira-Kawamura, K. Nakajima and H. Tanaka
DOI:10.1103/PhysRevLett.123.027206
参考部門・拠点:J-PARCセンター