2019-08-13 産業技術総合研究所
ポイント
- 新たに開発した電子顕微鏡を使って従来より2桁以上高い空間分解能で格子振動を計測
- 熱伝導などの材料の基礎的な性質をこれまで以上に詳細に解明することが可能
- 熱電素子や光電子デバイス、超電導体などの研究開発への貢献に期待
概要
国立研究開発法人 産業技術総合研究所【理事長 中鉢 良治】(以下「産総研」という)ナノ材料研究部門【研究部門長 佐々木 毅】電子顕微鏡グループ 千賀 亮典 主任研究員と同研究部門 末永 和知 首席研究員、ウィーン大学、ローマ・ラ・サピエンツァ大学、日本電子株式会社【代表取締役社長兼COO 大井 泉】森下 茂幸 博士は、新しく開発した電子顕微鏡を用いて、従来よりも2桁以上向上した空間分解能で、物質の最も基本的な性質の一つである原子の振動(格子振動)を波として計測する手法を開発した。その結果、1原子の厚みしかないグラフェン1枚の格子振動を初めて計測できた。
格子振動は、熱伝導、電気伝導、光学的特性といった材料の性質に深く関わっているため、ナノ材料のデバイス応用を考えるうえで詳細な理解が必要不可欠である。しかしながら、従来手法ではバルクの試料から平均的な信号を得ることしかできず、測定できる試料にも限りがあった。今回開発した技術は、原子を構成する原子核と電子の位置が原子の振動によってわずかにずれることを利用して、格子振動のエネルギーと運動量を計測する方法である。この手法を用いることで、原理的にはすべての材料の格子振動を10 nmの局所領域から計測できる。これにより、これまで理論計算が先行していたさまざまなナノ材料の格子振動を直接計測することができるため、材料科学の発展に大きく貢献できる。また、工学的には格子振動が直接性能に影響を与える熱電素子や光電子デバイス、超電導体などの研究開発への貢献が期待される。
なお、この成果の詳細は、Natureに2019年8月12日(英国夏時間)オンライン掲載される。
格子振動が作り出す波のイメージ
開発の社会的背景
最近のナノデバイスの極小化に伴い、ナノ材料の性質を詳細に理解することがナノデバイスの性能向上の鍵となっている。中でも熱伝導や電気伝導、光学的特性などさまざまな性質に関わる格子振動は、ナノデバイスのエネルギー効率を左右するため、詳細な理解が求められてきた。格子振動はエネルギーと運動量を持ち、波としての振る舞いと、粒子としての振る舞いがある。格子振動のエネルギーと運動量を正確に計測することで異なる波の成分を抽出することができる。これによって例えば熱伝導に影響を与える波の成分だけを取り出し、ナノ材料の熱物性を議論することができる。これまで、エックス線や中性子線を使った分光法で材料の格子振動が計測されてきたが、計測できる試料は数µmから1 mm程度の厚みのあるバルク試料に限られていた。また、従来の電子顕微鏡を用いた電子エネルギー損失分光法(EELS)のエネルギー分解能は1 eV程度であり、格子振動の情報を計測することはそもそもできなかった。エックス線や中性子線を用いた分光法では、エネルギー分解能は十分であるものの広範囲(1 µm)から平均的な信号を得るため、グラフェンなど多くのナノ材料の格子振動を局所的に計測できず、材料中の欠陥やエッジの影響については議論できなかった。そのため、格子振動が関わっているとされているが詳細が分かっていない超電導のメカニズムや、一部の熱電材料で起こる低熱伝導メカニズムを解明するため、格子振動を高精度・高感度で計測する手法が望まれていた。
研究の経緯
産総研では、ナノ材料の分析に特化した低加速電子顕微鏡の開発に取り組んできた。低加速電子顕微鏡は高空間分解能や観察試料の低ダメージ化を実現し、これまでナノ材料に関する多くの研究に貢献してきた(2010年12月16日 、2014年9月16日、2015年7月31日、2018年4月19日 産総研プレス発表)。これらは構造解析に主眼を置いていたが、電子顕微鏡を使った材料解析の可能性を広げるために、試料の物性を同時に評価する手法の開発にも取り組んできた。
なお、今回の開発は、独立行政法人日本学術振興会科学研究費助成事業「低次元材料の原子レベル物性評価手法の開発(2017~2020年度)」と「単原子スペクトロスコピーの高度化研究(2016~2020年度)」による支援を受けて行った。
研究の内容
今回、世界最高レベルのエネルギー分解能(20~30 meV)をもつ低加速電子顕微鏡用モノクロメーターを開発した。これにより、格子振動に起因する微細な信号が検知できるようになった。さらに、世界最高レベルの空間分解能とエネルギー分解能を両立させる電子光学系を新たに設計し、10 nm以下の範囲から格子振動のエネルギーと運動量を計測できる装置も開発した。エネルギーと運動量を同時に計測することで、格子振動の波としての異なる性質(振動モード)を調べることができた。低加速電子顕微鏡の開発と調整は日本電子株式会社と、ナノ材料の格子振動の測定はウィーン大学と行った。また、ローマ・ラ・サピエンツァ大学が理論計算を行い実験的に得られた波としての振動モードの解釈を行った。
図1 今回開発した世界最高レベルのエネルギー分解能を持つ新型電子顕微鏡
従来のエックス線や中性子線を使った分光法では、隣り合う原子の間に働く電気的な力(分極)を利用して格子振動を測定していることから、隣り合う原子の種類が異なり極性を持つ場合は格子振動を測定できるが、すべて同じ原子からなる非極性物質の格子振動は測定できなかった。今回開発した測定方法では、試料を通過した電子線のうち、原子核の近くを通過し、大きく散乱した電子だけを選択的に測定することで、一つ一つの原子が作り出す分極を用いて格子振動を計測できる。実際に非極性物質であるグラフェンの格子振動の音響モードと光学モードの測定結果を図2上に示す。この実測結果は、独自に開発したシミュレーションの結果とも非常によく一致した(図2下)。このことから、この測定方法によって非極性物質でも格子振動に起因する強い信号が得られることが分かった。隣リ合う原子間の分極ではなく、個々の原子が作り出す分極を測定するこの手法を用いれば、隣り合う原子の極性の有無によらず格子振動を計測することができる。
図2 グラフェンの格子振動の各振動モードのエネルギーと運動量の実測値(上)とシミュレーション結果(下)
今回開発した装置を用いることで、空間分解能が従来手法の1 µmから大幅に向上し、約10 nmの範囲から格子振動のエネルギーと運動量を計測でき、材料中の欠陥やエッジ周辺の局所的な格子振動を捉えることができる。実際にグラファイト片の上部に成長した細長いグラフェン(グラフェンナノリボン)の格子振動を計測し、各振動モードのうち、音響モード(図3中央上)と光学モード(図3右上)の強度をマッピングすると、音響モードだけがグラフェンナノリボンのエッジや試料上の不純物周辺で他の場所とは異なる強い信号を示していた(図3中央下、右下)。音響モードは材料の熱的性質に直接関わっているため、グラフェンのエッジでは他の部分とは異なる熱伝導特性を示すと予想される。実際の材料開発では、ある程度の欠陥は許容しなければならないため、こうしたナノメートルスケールの局所構造に対応した材料評価手法は、今後ますます重要になると考えられる。
また、格子振動は原子の質量を反映するため、今回開発した手法を応用すれば、同位体元素を識別できるので、将来、微量な放射性同位体物質の検出や、核分裂反応や化学反応の追跡などへ貢献できる可能性がある。
図3 グラフェンの局所的な各振動モードの強度測定の例
今後の予定
今回開発した手法を用いて、超電導など格子振動が影響するとされるさまざまな未解決の物理現象のメカニズム解明を目指す。また、格子振動によるエネルギー損失を最小限に抑えた高効率な熱電素子や光電子デバイス用材料の開発に貢献できるように、空間分解能やエネルギー分解能をさらに向上させ、幅広い材料の格子振動と物性の関係を明らかにしてゆく。
用語の説明
- ◆格子振動
- 結晶中の原子の振動。物質のさまざまな性質に関わっている。量子力学の世界ではフォノンとして粒子のように振る舞う。
- ◆グラフェン
- 炭素原子だけで構成される二次元シート状のナノ炭素材料。厚さが炭素一個分に相当し、炭素原子が蜂の巣のような六角形に連結した構造を持つ。優れた電気伝導性、熱伝導性、機械的強度、化学的安定性などを持っており、幅広い分野での応用が期待されている。
- ◆電子エネルギー損失分光法(EELS)
- 電子線が試料を通過する際に失うエネルギーを計測して、試料に含まれる元素や電子状態を調べる手法。近年、電子顕微鏡用のモノクロメーターが開発されエネルギー分解能が向上したことで、試料の光学バンドギャップや格子振動なども計測できるようになった。
- ◆エッジ
- 切り出された材料の端。グラフェンなどの二次元材料ではエッジの構造や方向によって性質が異なる。
- ◆低加速電子顕微鏡
- 電子線の加速電圧を60 kV以下に下げた電子顕微鏡。電子線による試料の損傷を抑えることができる。
- ◆電子顕微鏡用モノクロメーター
- 電子ビームを単色化する装置。EELSのエネルギー分解能が向上する。
- ◆音響モード
- 結晶中の原子振動にはいくつかの種類があり、これらを振動モードという。隣同士の原子が同じ方向に動くモードを音響モードという。
- ◆光学モード
- 振動モードのうち、隣同士の原子が逆方向に動くモードを光学モードという。