負のミュオン素粒子で視る物質内部

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世界最高計数速度の負ミュオンビームで長年の夢が実現

2018/08/24
大学共同利用機関法人高エネルギー加速器研究機構
国立研究開発法人日本原子力研究開発機構
J-PARCセンタ-
国立大学法人大阪大学
国際基督教大学

【本研究成果のポイント】

  • J-PARCの大強度のミュオン(注1)ビームと高感度の高集積陽電子検出器システム(注2)を組み合わせることで、世界で初めて負電荷を持つ素粒子ミュオンにより、水素が物質内に作る微小磁場を検出。
  • 固体内の水素の運動を検出できるようになり、高性能な水素貯蔵材料の開発への貢献に期待。

【概要】

株式会社 豊田中央研究所(豊田中研)の杉山 純 主監、大学共同利用機関法人 高エネルギー加速器研究機構(KEK)物質構造科学研究所の下村 浩一郎 教授、国立研究開発法人日本原子力研究開発機構(JAEA)先端基礎研究センターの髭本 亘 研究主幹、国立大学法人大阪大学大学院理学研究科の二宮 和彦 助教、国際基督教大学の久保 謙哉 教授らの共同研究グル-プは、負電荷を有する素粒子ミュオン(µ)が物質中では水素以外の原子核に捕獲されて動かないことに注目し、負ミュオンスピン回転緩和(µSR)(注3)測定により、水素化合物中の水素の作る微小な磁場とその揺らぎの観測に世界で初めて成功しました。

本成果は、大強度陽子加速器施設(J-PARC)(注4)で開発された大強度負ミュオンビームと高集積陽電子検出器システムの組み合わせと、適切な測定材料の選択により得られました。µSRは、エネルギー関連材料中で重要な水素や軽元素の状態や運動を調べるのに重要な道具となることが実証されました。微小な磁場をµSRで観測できるのは世界でもJ-PARCのみなので、国内外のユーザーによりµSRの世界がさらに深化・発展していくことが期待されます。

なお、本成果は、8月21日米国のPhysical Review Letters誌にEditors’ Suggestionsとして掲載されました。また、本成果は日本学術振興会(JSPS)科学研究費助成事業 JP26286084「量子ビームを駆使した固体内イオン拡散挙動の解明と電気化学素子への応用」とJP18H01863「スピンプローブを利用した電気化学界面でのイオン濃度・拡散の解明と理想界面の創成」の助成を受けたものです。

【背景】

固体内のイオン拡散は、電池等の電気化学素子の動作の基本原理です。従来は、正電荷を有するミュオン(µ+)の磁針を利用して、リチウムイオン等の運動による固体内の微小な磁場変動を観測し、拡散挙動を調べてきました。つまり、正ミュオンスピン回転緩和(µ+SR)(注5)測定を利用してきました。燃料電池用の水素貯蔵材料でも、水素を効率良く取り出すためには、水素が材料内を素早く拡散する必要があります。しかし、正ミュオンは物質中では陽子の軽い同位体として振舞います。水素が動く状況では、観測原点である正ミュオンも動いてしまい、µ+SRの観測結果には曖昧さが伴いました。

【研究内容と成果】

豊田中研の杉山主監は負電荷を有するミュオン(µ)に注目しました。水素化合物に入射された負ミュオンは水素以外の重い原子核に捕獲され、動かなくなります。言わば固定点から、水素の作る微小な磁場を観測できます(図1)。この磁場は水素の運動に伴って揺らぐので、揺らぎの観測から水素の運動挙動を正確に知ることができると予想しました。微小な磁場の観測には高統計測定が必要なのですが、従来は負ミュオンビームの強度が弱く、有意な時間内に測定を終えることができませんでした。

大強度の負ミュオンビームを供給するJ-PARCで、高集積陽電子検出器システムを用いて測定した水素化マグネシウム(MgH2)粉末の負ミュオンスピン回転緩和(µSR)スペクトルの時間ヒストグラムを、図2に示します。これは5つの異なる寿命の粒子の崩壊過程に分解されます。ミュオンの固定から6マイクロ秒までは、Mgに捕獲された負ミュオンからの信号が支配的です。しかし試料周辺の鉛、炭素、酸素に捕獲された負ミュオンの崩壊信号や長寿命の中性子の信号も僅かに含まれています。

これらの信号からMgに捕獲された負ミュオンの信号を抽出したµSR非対称性スペクトルを解析すると、負ミュオンの感じる磁場は、Mg位置に水素の作る磁場分布幅の計算予測とほぼ一致しました(図3)。つまり、µSRにより、世界で初めて物質内で水素が作る微小磁場を観測しました。また室温でも磁場は僅かに揺らいでいて、水素が少し動いていることも分かりました。

<論文情報>

Nuclear Magnetic Field in Solids Detected with Negative-Muon Spin Rotation and Relaxation(負ミュオンスピン回転緩和測定で検出された固体内の核磁場)

雑誌名Physical Review Letters(オンライン版2018年8月21日)

Jun Sugiyama, Izumi Umegaki, Hiroshi Nozaki, Wataru Higemoto, Koji Hamada, Soshi Takeshita, Akihiro Koda, Koichiro Shimomura, Kazuhiko Ninomiya, and M. Kenya Kubo

DOI: https://doi.org/10.1103/PhysRevLett.121.087202

【本研究の意義、今後への期待】

本成果は、従来の正ミュオンのみならず負ミュオンを用いて、物質内部の磁場を検出できることを示しました。多くのエネルギー材料・生体材料中では、水素を始めとする軽元素の運動が重要な役割を担っています。これを正確に検出する新たな手法を我々は手にしました。高性能な水素貯蔵材料の開発や生体現象のより深い理解に、µSRは大きく貢献するものと期待されます。

ミュオンの多くの研究者は、J-PARCのような大強度のパルスミュオン源と高集積陽電子検出器システムの組み合わせにより、µSR測定の計数速度を飛躍的に増大させて材料研究に供することを夢みていました。先達の長年の夢を、J-PARCの稼働と負ミュオンビームの改良および検出器開発により、実現したことになります。J-PARCでは、今後、さらなるビーム強度の増強が計画されているので、より短時間で多くの現象の背後にある水素等の軽元素の役割を明らかにすることができるでしょう。

【参考図】

負のミュオン素粒子で視る物質内部

図1 MgH2試料に打ち込まれた負ミュオンは、Mg原子に捕獲され、外側の電子軌道から内側の電子軌道に落ち込む。この過程で、負ミュオンの向きの揃った磁針の数がどんどん少なく(磁場検出機能はどんどん弱く)なる。最も内側の軌道、つまりほぼMg原子核の位置で、負ミュオンは周囲の水素原子核が持つ磁石の作るランダムな磁場を感じる。図中では、水素をMg原子核に近く描いているが、実際には水素はMg原子核の大きさの約5万倍離れた場所に位置する。

図2 MgH2試料の(a)上流側(前方)と(b)下流側(後方)のカウンタの時間ヒストグラム。Mg以外に周囲の鉛、炭素、酸素に捕獲された負ミュオンの崩壊信号と中性子の信号も僅かに含まれる。鉛は負ミュオンビ-ムの絞りから、酸素と炭素は試料容器から、中性子は負ミュオンの捕獲過程で発生する。しかしMgに捕獲された負ミュオンからの信号(赤線)が、短い時間領域では支配的である。
各カウンタは320素子の検出器で構成されている。

図3 MgH2試料のµSR非対称性スペクトル。零磁場と縦磁場(ミュオンの磁針に平行な磁場)測定の結果は、物質中のランダム磁場によるスペクトルの時間変化を示す式(久保-鳥谷部の式)で説明される(実線)。見積もった磁場の大きさは6.11Gで計算予測(6.82G)とほぼ同等である。

【用語解説】

※1.ミュオン

素粒子の1つ。負の電荷をもつ負ミュオン(µ)と正の電荷をもつ正ミュオン(µ+)がある。寿命2.2µs (1µs[マイクロ秒]は100万分の1秒) で負(正)ミュオンは崩壊して電子(陽電子)を放出する。またJ-PARCのような加速器施設で得られるミュオンのスピン、つまり磁針は運動方向と平行に揃っている。これを100%スピン偏極しているという。この性質を利用すると物質中の微小な磁場を高感度に検出できる。

※2. 高集積陽電子検出器システム

J-PARCのミュオン施設で得られるビームはパルス状であるので、非常に短い時間で大量の事象がまとまって発生する。この事象をもれなく捉えるために、半導体検出器および高度集積回路技術を駆使した多チャンネルかつコンパクトな検出器系「KALLIOPE」が開発された。従来より1桁以上高い計数速度を実現した。

※3.負ミュオンスピン回転緩和(µ–SR)

負ミュオンは、物質中では重い電子として振舞い、原子核に捕獲される。実際には最外殻電子軌道に捕らわれた後、順次内側の軌道に落ち込み、最終的には最内殻軌道を占有する。この過程でスピン偏極が20%以下まで減少するので、検出感度も20%以下となる。つまり、負ミュオンで物質中の微小な磁場を検出するためには、正ミュオンに比べて遥かに高統計の測定が必要となる。誤差論から、検出感度20%の場合に100%の場合と同様の誤差で結果を得るためには、25倍の統計が必要である。つまり、大強度負ミュオンビームの実現までは、ほとんど物性研究には利用されてこなかった。

※4. 大強度陽子加速器施設 (J-PARC)

KEKとJAEAが茨城県東海村で共同運営している大型研究施設で、素粒子物理学、原子核物理学、物性物理学、化学、材料科学、生物学等の学術的な研究から産業分野への応用研究まで、広範囲の分野での世界最先端の研究が行われている。J-PARC内の物質・生命科学実験施設MLFでは、世界最高強度のミュオン及び中性子ビームを用いた研究が行われており、世界中から研究者が集まる。

※5.正ミュオンスピン回転緩和(µ+SR)

正ミュオンは、物質中では軽い陽子として振舞い、原子と原子の間(格子間)に停止する。スピン偏極100%を保持したまま停止するので、周辺の微小な磁場を高感度で検出する。

参考部門・拠点: 先端基礎研究センター
J-PARCセンタ-
1701物理及び化学
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