先端鉄鋼「TRIP鋼」の引張力に対するふるまいを実験的に解明
2018-02-26 国立研究開発法人日本原子力研究開発機構 J-PARCセンター,公立大学法人兵庫県立大学, 一般財団法人総合科学研究機構, 国立大学法人京都大学
【発表のポイント】
- 衝撃吸収特性に優れた構造部材として自動車などに使われる先端鉄鋼「TRIP鋼」の引っ張り力に対する結晶構造の変化及びそれがもたらす影響を中性子回折実験で詳しく解明することに世界で初めて成功
- 外力の引っ張りによってTRIP鋼に含まれる「残留オーステナイト」の結晶構造が変化(相変態)して生じる「マルテンサイト」が鉄鋼の強度を高めていることを実験的に引っ張りながらその場で詳しく解析し、証明
- TRIP鋼の炭素含量の違いは鉄鋼の相変態による強度変化に影響しないことも証明
- さらなる自動車の軽量化と衝突安全性を高めるためのTRIP鋼の開発に有用
国立研究開発法人日本原子力研究開発機構(理事長 児玉敏雄)J-PARCセンターのステファヌス・ハルヨ研究主幹、公立大学法人兵庫県立大学(学長 太田勲)の土田紀之准教授、一般財団法人総合科学研究機構(理事長 横溝英明)中性子科学センターの阿部淳研究員、国立大学法人京都大学(総長 山極壽一)のゴン・ウー任期付研究員らの研究グループは、J-PARC註1の物質・生命科学実験施設(以下、「MLF」という。)に設置している高性能工学材料回折装置「匠」註2(以下「匠」という。)を用いて、長さ5cmのTRIP型鋼試験片が千切れるまで引っ張りながら、中性子回折測定を実施し、TRIP鋼が高強度であることの原因を解明しました。
TRIP鋼は、外から力が加わった場合に組織構造が変化し「相変態する」という特徴を持つ材料で、衝撃吸収特性に優れているため、自動車などの構造部材に多く用いられています。解析の結果、引っ張る際にTRIP鋼の内部で起きる相変態で「残留オーステナイト」から生じる「マルテンサイト」が、TRIP鋼の強度向上に大きく寄与していることを証明しました。また、炭素含量の重量比が0.2%と0.4%のTRIP鋼で同じ引っ張り実験をしたところ、この違いは相変態による強度変化には影響しないことも証明しました。TRIP鋼の中で変形の際に起きる組織変化の挙動を定量的に詳しく解析できたのは本実験が世界で初めてです。これは、
1)透過能力が大きく試験片内部の原子配列を見ることのできる中性子を利用し、
2)さらに装置分解能および強度が高い「匠」により、試験片の変形を止めることなく連続に中性子実験ができる手法を開発したことによります。
TRIP鋼で起きている現象の理解が深まれば、それを基に数値計算の高度化も可能になり、より優れた特性を持つTRIP鋼により自動車の軽量化と衝突安全性の向上に貢献できると考えています。
本成果は、2017年11月9日発行の英科学誌『Scientific Reports』に掲載されました。
【背景】
鉄鋼は最も広く使われる構造材料で、自動車などの輸送機器産業を支えています。この20年間、鋼板が薄くて強くなるように進化し、軽量化(燃費)と安全性が向上してきました。先端鉄鋼材料の変態誘起塑性(TRIP)型鋼がその代表格です。TRIPはTransformation Induced Plasticityの略で、内部の微細組織註3(数ミクロン)の相変態による塑性のことです。TRIP鋼は、母相であり、微量の炭素を含む体心立方格子構造の「フェライト」と、炭素を高濃度で含み室温で準安定にした、面心立方格子構造をとる「残留オーステナイト」からなる複合組織で、強度と伸びのバランスが非常によい鋼材です。残留オーステナイトは、変形により、体心正方格子構造をとる「マルテンサイト註4」へ変態し、これに伴い体積膨張で伸びも増えます。TRIP鋼は衝撃吸収にも優れており、自動車の構造材料としてよく使われています(図1)。
図1 TRIP鋼の変形中に起きる相変態の概略。衝撃吸収にも優れ、自動車材料として使われており、さらなる改良が継続的に行われている。
このように、TRIP鋼は実用されていますが、TRIP鋼内で、残留オーステナイトからマルテンサイトへの相変態が変形中にどのように起こるのか、詳細は謎でした。さまざまな相が混在するTRIP鋼の中で、マルテンサイトが強度に寄与することは推定されていましたが、定量的な測定が十分ではなかったのです。
【研究の成果】
鉄鋼の変形中の相ひずみ・応力、相分率、集合組織、転位などのミクロ情報は、鉄鋼の特性の理解に欠かせません。TRIP鋼の試験片のこれらの平均的なミクロ情報を測定するには、顕微鏡より中性子回折が適しています。中性子は物質への透過能力が高く、回折により原子配列を見るため、大きな試験片内部の原子配置の測定に応用できるからです。
しかし、TRIP鋼の回折実験はこれまで困難でした。変形中の相変態で生じるマルテンサイトの原子配列が母相のフェライトと非常に似ているため、区別が難しいからです。さらに、従来の変形中の中性子回折実験では、統計の良いデータを得るために、変形量を段階的に与えてから変形試験を止めており、その間に応力緩和が起こって、フェライトとマルテンサイトのピークの区別がしにくいという課題がありました。
そこで研究グループは、J-PARC MLFの中性子ビームと「匠」を利用し、試験片の変形試験を止めることなく、連続して中性子回折実験ができる手法を開発し、TRIP鋼の試験片(長さ5㎝)を破断するまで引っ張りながら、その場での中性子回折を行いました。
その結果、変形量が約20%での回折データから、フェライトとマルテンサイトのピークが区別でき、それぞれの相の挙動を解析できました(図2)。そして、マルテンサイトの回折ピーク位置から各相の格子ひずみを求め、その値からマルテンサイトの応力を初めて得ました。その大きさはフェライトや残留オーステナイトの応力より3~4倍と一番大きく、2ギガパスカル(GPa)程度から3GPaまで大きいことがわかりました。
図2 TRIP鋼の引っ張り変形量が約20%での回折データ
また、残留オーステナイトの体積率(量)は変形とともに徐々に減り、マルテンサイトに変わることがわかりました。しかし、内部組織形状、マンガン(Mn)とケイ素(Si)の含量(重量比)はほぼ同じで、炭素(C)含量が0.2%、0.4%と異なるTRIP鋼で比較すると、外力に対するマルテンサイトと残留オーステナイトの各応力はほぼ同じであることもわかりました(図3)。つまり、TRIP鋼の炭素含量の違いは相変態による強度変化に影響しないとことが明らかになりました。
図3 TRIP鋼を引っ張りながらその場での中性子回折実験から得られたフェライト、残留オーステナイトとマルテンサイトの相応力。0.2C TRIP: 炭素(C)含量(重量比)が0.2%のTRIP鋼。0.4C TRIP: C含量が0.4%のTRIP鋼。
さらに研究グループは、この実験で得られた各構成相の応力と分率を掛け算し、各相の全体の強度への寄与を計算しました(図4)。残留オーステナイトはフェライトよりも硬いので、変形初期では寄与が大きく、その後、変態して体積率が小さくなることで、寄与が減ることがわかりました。マルテンサイトは相の応力が一番大きいのですが、初期段階では体積率は非常に少ないため、全体への寄与は小さいことも明らかになりました。しかし、変形が進み、マルテンサイトの応力が大きくなるとともに、体積率も増えて、材料の強化への寄与が相乗的に増大しました。変形とともに小さくなった残留オーステナイトの寄与は、変態したマルテンサイトの増加で十分に補われることが明らかになりました。
図4 TRIP鋼を引っ張りながらその場での中性子回折実験から得られたフェライト、残留オーステナイトとマルテンサイトの各構成相の強度への寄与。
【成果の意義】
鉄鋼の進化は、自動車や航空機、電車など輸送インフラ発展の原動力の一つです。今後も鉄鋼のさらなる改良は必要です。鉄鋼の微細組織にはフェライト、残留オーステナイト、マルテンサイトなどがあります。衝突などの外力に対して、残留オーステナイトから最強の強度を持つ組織相のマルテンサイトに変態するTRIP鋼は、軽量化(燃費)と衝突安全性(強度)を兼ね備えた鉄鋼材として開発が進められています。TRIP鋼で起きる現象の理解が深まれば、それを基に数値計算(シミュレーション)の高度化も可能になり、より優れた特性を示すTRIP鋼の開発指針につながります。研究チームのハルヨ研究主幹は「今回の中性子回折実験による結果は自動車用鋼板の開発指針となるもので、持続可能な社会を実現していく基盤の一端を担います。鉄鋼や自動車の産業でこの結果及び測定技術を活用して欲しいと考えます」と今回の研究の意義に言及しています。
【発表論文の情報】
Stefanus Harjo, Noriyuki Tsuchida, Jun Abe &Wu Gong, “Martensite phase stress and the strengthening mechanism in TRIP steel by neutron diffraction”, Scientific Reports, doi:10.1038/s41598-017-15252-5
この研究の一部は科研費26289264及び15H05767の助成を受けたものである。
【用語解説】
註1 J-PARC
J-PARCは大強度陽子加速器施設(Japan Proton Accelerator Research Complex)の略。高エネルギー加速器研究機構と日本原子力研究開発機構が茨城県東海村で共同運営している大型研究施設で、素粒子物理学、原子核物理学、物性物理学、化学、材料科学、生物学などの学術的な研究から産業分野への応用研究まで、広範囲の分野での世界最先端の研究が行われている。J-PARCの物質・生命科学実験施設(MLF)では、世界最高強度のミュオン及び中性子ビームを用いた研究が行われており、国内のみならず世界中から研究者が集まっている。
註2 高性能工学材料回折装置「匠」
J-PARCの MLFに設置された飛行時間型中性子回折装置。世界最高水準の高い分解能をもつ。実験しながら、その場で材料内部のひずみ分布や微細構造変化を詳細に測定できるため、工学材料研究の強力な手段になっている。
J-PARCの高分解能な中性子回折装置「匠」と、引っ張りながらその場で行う中性子回折実験の様子
註3 鉄鋼の微細組織
鉄鋼の性質を決める重要な要素の一つが内部の金属組織であり、主に結晶構造の状況によるもの。鉄鋼は固体のままで結晶構造が変わり、これを相変態と呼ぶ。鉄鋼の組織では、炭素をほとんど含まないフェライト、炭素が固溶した残留オーステナイト、マルテンサイトなどがある。
註4 マルテンサイト
オーステナイトが急速に冷却されたり、力が加わったりすると、変態して形成される微細組織。鉄鋼の微細組織の中で最も硬い。19世紀末に発見される前から経験的に利用されており、日本刀の刃先もこの微細組織で構成される。