2022-05-09 東京大学
1.発表者:
矢田 季寛(東京大学 大学院工学系研究科物理工学専攻 修士課程2年)
吉岡 信行(東京大学 大学院工学系研究科物理工学専攻 助教)
沙川 貴大(東京大学 大学院工学系研究科物理工学専攻/附属量子相エレクトロニクス研究センター 教授)
2.発表のポイント:
◆連続的に測定・フィードバック(注1)を受ける量子系において、熱力学第二法則(注2)などの非平衡熱力学(注3)の基本法則を理論的に導出した。
◆導出された基本法則は、エントロピーや熱などの熱力学的な量と、量子情報の流れが深く関係していることを示しており、量子系におけるマクスウェルのデーモン(注4)の働きを明らかにしている。
◆本研究は、量子技術の実用化に向けて重要な、量子制御(注5)に要するエネルギーコストの解明につながると期待される。
3.発表概要:
近年の量子技術の発展によって、制御された量子系の振る舞いを解明する研究は重要性を増しています。特に、19世紀に物理学者のマクスウェルが考えた「マクスウェルのデーモン」に代表されるように、外部者が測定とフィードバックによって系を制御する場合には、系の熱力学的な振る舞いは情報という概念と深く関係することがわかっています。しかしながら、このような熱力学と情報の関係を調べる研究は、主に古典系を中心として行われており、量子系を含んだ統一的な理解は未だ確立されていませんでした。
東京大学大学院工学系研究科物理工学専攻の矢田季寛大学院生、吉岡信行助教、沙川貴大教授らは、連続的に測定・フィードバックを受ける量子系において、熱力学第二法則とゆらぎの定理(注6)という非平衡熱力学の基本法則を導出しました。これらの法則は、本研究で新たに導入した量子情報の流れを表す「量子・古典移動エントロピー(QC-transfer entropy)」と、熱や仕事などの熱力学量との深いつながりを示しています。本研究結果は、量子情報と熱力学の融合的な理解に向けた基盤となるとともに、量子デバイスの実現などに必要な量子制御のエネルギーコストの解明につながると期待されます。
本研究成果は科学雑誌「Physical Review Letters」オンライン版に4月28日(米国東部夏時間)に掲載され、Editors’ Suggestionに選出されました。
4.発表内容:
【研究の背景】
近年の実験技術の急速な発展を背景に、量子力学に従う系(量子系)の状態やダイナミクスの制御に関する研究は、一層重要性を増しています。制御の枠組みにはさまざまなものがありますが、系に対する測定の結果を利用して操作を行う「フィードバック制御」は、実社会でも多くの場面で用いられる有効な手法です。例えば、エアコンなどの空調設備による「室温の測定結果に応じて、温風や冷風を吹き込む」という操作は、室温に対するフィードバック制御になっており、測定・フィードバックをうまく行うことで、系を所望の状態に制御する(この場合は室温を目標温度に近づける)ことができます。
一方で、測定・フィードバックという操作は従来の熱力学の法則に大きな影響を与えることが知られています。1867年にマクスウェルが提起した「マクスウェルのデーモンの思考実験」では、測定・フィードバックをする外部者(デーモン)がいる場合には、第二種永久機関の禁止などを意味する従来の熱力学第二法則が破れることが指摘されました。このデーモンの働きは一見すると熱力学を根本から揺るがすようにみえるため、重大なパラドックスとして長きにわたって物理学者たちを悩ませてきました。しかしこの15年ほどで、情報熱力学と呼ばれる分野の発展によって、デーモンの働きはパラドックスではなく、従来の熱力学と矛盾なく説明できるということが理解されるようになってきました。熱力学に情報という概念を取り入れることで、デーモンによる測定・フィードバックという情報処理の影響を含むように、理論体系を拡張することができるのです。
このような情報熱力学の研究は、これまでは主に古典物理学の範囲で記述される系(古典系)を中心として行われてきました。既にさまざまなタイプの測定・フィードバックの下にある古典系で熱力学の法則が導出され、熱力学と情報の深い結びつきが明らかになっています。その一方で量子系においては、熱力学と情報の関係についての一般的な理解は未だ確立されていませんでした。特に量子系は外部からのノイズにとても弱いため、連続的に測定・フィードバックを行って実現したい状態を安定化させる「連続測定・フィードバック」という制御方法が重要ですが、このような状況での熱力学の研究は未開拓でした。
【研究内容】
本研究グループは、連続的に測定・フィードバックされる量子系において、熱力学第二法則とゆらぎの定理を導出しました。これらの法則は、熱やエントロピーなどの熱力学的な量と、本研究で新たに導入した「量子・古典移動エントロピー(QC-transfer entropy)」という量子情報量の間に、普遍的な関係が存在することを示しています。本研究で証明されたゆらぎの定理は、熱力学量と情報量の深い結びつきを詳細に記述するだけでなく、熱平衡から大きく離れた状態であっても一般に成立します。さらにゆらぎの定理からは熱力学第二法則をはじめとするさまざまな重要な関係式を導くことができるため、本研究は量子制御下での非平衡熱力学の基本原理を明らかにしたといえます。
本研究で新たに導入した量子・古典移動エントロピーは、測定によって系から測定器に向かう量子情報の流れを定量化する指標になっており、純粋に情報理論的な観点からも重要な意味を持っています。この指標の特筆すべき特徴として、古典系での情報流を表す「移動エントロピー(transfer entropy)」の量子版とみなせる点があります(表2)。移動エントロピーは時系列解析や神経回路の解析など、幅広い分野で既によく用いられている指標であり、新たに導入された量子・古典移動エントロピーも、量子情報の流れの解析で今後重要な役割を果たすことが期待されます。
本研究グループはさらに、理論的に導出された熱力学第二法則とゆらぎの定理を、数値計算によって検証しました。図3に示した数値計算の結果などから、これらの法則が成立していることが確認できました。また本研究では、拡張されたゆらぎの定理を実験的に検証するための具体的なプロトコルも提案しました。
【研究の意義、今後の展望】
本研究結果は、連続測定・フィードバック下の系において、熱力学と量子情報の根本的な関係を明らかにしました。本研究はフィードバック制御された量子系での熱力学の基礎となるもので、量子情報と非平衡熱力学の融合的な理解につながると考えられます。このような量子系の制御は量子コンピュータなどの量子デバイスの実現に向けて重要であり、本研究はその量子制御のためのエネルギーコストを解明することにつながると期待されます。
【謝辞】
本研究は、東京大学統合物質・情報国際卓越大学院(MERIT-WINGS)、JSTさきがけ研究「量子並列回路を用いた計算基盤の構築」(課題番号:JPMJPR2119)、科学研究費補助金新学術領域(研究領域提案型)「情報物理学でひもとく生命の秩序と設計原理」 の計画研究班「情報熱力学による生体情報処理の理論研究」(科研費番号JP19H05796)、および東京大学Beyond AI研究推進機構からの助成を受けて行われました。
5.発表雑誌:
雑誌名:「Physical Review Letters」(オンライン版:4月28日)
論文タイトル:Quantum Fluctuation Theorem under Quantum Jumps with Continuous Measurement and Feedback
著者: Toshihiro Yada*, Nobuyuki Yoshioka, Takahiro Sagawa
DOI番号:10.1103/PhysRevLett.128.170601
アブストラクトURL:https://journals.aps.org/prl/abstract/10.1103/PhysRevLett.128.170601
6.用語解説:
(注1)測定・フィードバック
フィードバックとは、測定結果を利用して系を操作することを意味しています。例えばエアコンなどの空調設備は、「室温を測定し、その温度が目標よりも低ければ温風を、高ければ冷風を吹き込む」という操作によって、室温を目標温度に近づけます。このような操作は室温に対する測定・フィードバックであり、特に測定・フィードバックによって望みの状態へと制御する「フィードバック制御」になっています。
(注2)熱力学第二法則
熱力学第二法則は、外部と熱のやりとりがない系ではエントロピーが減少しないということを意味しており、エントロピー増大則とも呼ばれます。この法則にはいくつかの表現方法がありますが、その一つとして第二種永久機関の禁止があります。すなわち熱力学第二法則は、単一の熱源から熱を受け取って全て仕事に変える熱機関(第二種永久機関)は存在しないということも意味しています。
(注3)非平衡熱力学
熱湯を部屋の中にしばらく放置しておくと冷めていき常温になってしまうように、全ての系は十分長い時間が経つとある状態に落ち着いていきます。このような落ち着いた先の状態のことを平衡状態といい、逆にそれ以外の状態のことを非平衡状態といいます。19世紀に確立された熱力学はもともと平衡状態のみについての理論でしたが、近年では非平衡状態にも熱力学の枠組みを拡張する研究が盛んに行われています。このような非平衡状態における熱力学の研究を非平衡熱力学といいます。
(注4)マクスウェルのデーモン
1867年に物理学者のマクスウェルは、のちに情報熱力学という分野の発端となる思考実験を提起しました。箱の中に入っている多数の気体分子に対して外部からその速度を測定し、それに応じて分子を選り分ける存在(デーモン)がいれば、箱の中の気体のエントロピーを減らせるはずだと主張したのです。一見すると、このような働きをするデーモンがいればエントロピー増大を意味する熱力学第二法則は破れてしまい、第二種永久機関が可能になるように思えます。そのためこの思考実験は、熱力学の根幹に突き付けられたパラドックスとして長い間多くの物理学者たちを悩ませてきました。近年の研究によって、熱力学に情報量の概念を導入することで、このようなデーモンの働きを従来の熱力学と矛盾なく説明できることがわかってきました。すなわち現代的な理解では、デーモンは系に対してゆらぎのレベルで測定・フィードバックを行う存在とみなせ、デーモンの働きを正しく考慮するためには、従来の熱力学に情報量の概念を持ち込んで理論体系を拡張する必要があります。このような理解が確立する過程で、熱力学と情報理論の深い結びつきが明らかになり、情報熱力学という分野として現在も発展しています。
(注5)量子制御
量子制御とは、量子力学に従う系を目標の状態に準備することや、ダイナミクスをコントロールすることを意味します。特にここでは、測定・フィードバックによる制御を主に指しています。このような量子系の制御は、量子シミュレータなどの量子デバイスの実現のためには必要不可欠な技術であり、研究の重要性が高まっています。
(注6)ゆらぎの定理
水中のブラウン粒子などのミクロな系は、同じ条件のもとで実験を行なっても、試行ごとに異なる軌跡をたどります。このようなミクロな系でのゆらぎを、軌跡のレベルで詳細に特徴付ける関係式がゆらぎの定理です。ゆらぎの定理からは、熱力学第二法則をはじめ、非平衡状態についての多くの重要な熱力学法則を導出することができます。そのためゆらぎの定理は、ミクロな系での非平衡熱力学の統一的な理解を与える、最も重要な関係式の一つとなっています。
7.添付資料:
図1:連続測定・フィードバック下にある量子系の概念図。量子系を連続的に測定し、その測定結果に応じて外部からパルスを当てるなどのフィードバック操作を行う。本研究ではこのような設定のもとで、熱力学第二法則・ゆらぎの定理を導出した。
表2:古典系・量子系に対する一回測定・連続測定で得られる情報量の指標。
それぞれの状況で、測定によって得られる情報量の指標を表にまとめた。「相互情報量」と「量子・古典相互情報量」はそれぞれ、古典系、量子系に対して一回測定を行なった際に得られる情報量になっている。時系列解析などでよく用いられる移動エントロピーと、本研究で新たに導入した量子・古典移動エントロピーはそれぞれ、古典系、量子系において連続測定による情報の流れを特徴付ける指標である。この二つの指標はどちらも、一回測定で得られる情報量を過去の測定結果の条件のもとで累積した量になっており、その意味で量子・古典移動エントロピーは移動エントロピーの量子版であるということができる。
図3:本研究で理論的に導かれた熱力学第二法則・ゆらぎの定理の数値的な検証。(a) 従来の熱力学第二法則の破れと、本研究で新たに導出された熱力学第二法則の成立の検証。エントロピー生成⟨σ⟩は系と熱浴のエントロピーの変化の合計を意味し、量子・古典移動エントロピー⟨i_QC ⟩は量子情報の流れを特徴づけている。(b)従来のゆらぎの定理の破れと、本研究で新たに導出されたゆらぎの定理の成立の検証。