スピントランジスタの実現に向け前進
2018-04-04 量子科学技術研究開発機構
【発表のポイント】
- Ÿ電流が流れない絶縁性の磁性体を用いてグラフェンのスピンの向きを制御することに成功。
- Ÿスピン偏極を制御する技術の開発により、「グラフェン」回路を用いた高速・省エネルギーの「スピントランジスタ」実現に向け前進。
国立研究開発法人量子科学技術研究開発機構(理事長 平野俊夫)量子ビーム科学研究部門の境誠司上席研究員、国立研究開発法人物質・材料研究機構(理事長 橋本和仁)先端材料解析研究拠点の山内泰NIMS特別研究員、国立大学法人筑波大学(学長 永田恭介)数理物質系の山田洋一講師、慶應義塾大学(塾長 長谷山彰)理工学部の安藤和也准教授らは、グラフェン1)回路を用いたスピントランジスタ2)の実現にかかせない電子スピン3)の向きを制御する新技術の開発に成功しました。本成果は、今日のエレクトロニクスが抱える性能向上の限界や電力消費の問題解決に繋がるスピントロニクス4)の発展に向けて道を拓くものです。
スピントロニクスが次世代情報技術の主役へと発展するためには、演算デバイスの中で中心的な役割を担うスピントランジスタの実現が鍵になります。グラフェンは、スピンの向きを長距離に保持できる導線の材料としてスピントランジスタへの応用が注目されています。グラフェンをスピントランジスタに用いることで、演算デバイスへの応用に適した高速でエネルギー消費の少ないスピントランジスタの実現が期待されています。しかし、グラフェン回路でスピントランジスタを構成するためには、グラフェンの中を流れる電子のスピンの向きを偏らせる技術の開発が鍵となっていました。今回、研究チームでは、電流が流れない磁性絶縁体でグラフェンの中のスピンの向きを制御する新技術の開発に成功しました。これにより、スピントランジスタの実現に向けて前進しました。
本成果により、今後、情報機器による電力消費の著しい削減や充電の必要がない携帯端末など生活を豊かにする情報通信機器の実現が期待できます。
本成果は、Advanced Functional Materials誌のオンライン版に2018年4月4日に掲載されました。
【成果の背景】
今日の私たちの生活は電子の電荷を用いて情報処理を行うエレクトロニクスによって支えられています。エレクトロニクスは、パーソナルコンピューターや携帯通信機器などの情報デバイスやインターネットの普及により私達の生活を豊かにしてくれていますが、一方で、情報デバイスによる電力消費の著しい増大の問題やこれ以上の性能向上が見込みにくい状況に直面しています。
近年、これらの問題に対するブレークスルーとして、スピントロニクスという新しい技術が注目されています。スピントロニクスでは、電子が持つ電荷に加えて、これまでのエレクトロニクスでは利用されていなかった電子のスピンという性質を情報処理に用いることで、デバイスの処理速度を飛躍的に高め、電力消費を著しく低減することができます。スピントロニクスの研究は、これまでハードディスクや磁気ランダムアクセスメモリ5)などスピンを使った記録デバイスについて行われてきました。しかし、今後、スピントロニクスが情報技術の主役へと発展を遂げ、私たちの生活に身近な技術となるためには、コンピューターで情報処理を行う際に中心的な役割を担う演算デバイスの実用化が望まれます。なかでも、回路内を流れる電子のスピンの向きを制御することで情報の処理を行うスピントランジスタの実現は、スピンを用いた演算デバイスへの応用に欠かせません。
スピントランジスタの開発において、はじめに重要なことは、素子の回路内でスピンを運ぶ導線の材料の選択です。グラフェンは、従来の金属や半導体と比較してスピンを長距離にしかも高速に運ぶことができることや、厚さが一原子しかなくナノスケールのデバイスへの応用にも適していることから、演算デバイスに用いるスピンの導線の材料として特に有望視されています。優れたスピンの導線であるグラフェンの応用により、高性能で省エネな集積型スピントランジスタが実現されることが期待されています。
グラフェンを用いたスピントランジスタを実現するためには、グラフェンを流れる電子のスピンの向きを人為的に制御するスピン操作の技術が必要です。スピントランジスタにおいて導線を流れるスピンの向きの操作は、導線と接する絶縁体の電極(ゲート電極)を用いて行います2)。金属や半導体を導線に用いたスピントランジスタの研究では、酸化シリコンなどをゲート電極として用い、物質中を移動する電子が感じる磁場(専門的にはスピン軌道相互作用と言う)によりスピンの向きを操作する技術などが開発されていますが、これまで、グラフェンを用いたスピントランジスタに対して有効なスピン操作技術は確立されていませんでした。
【成果の詳細】
今回、研究チームは、グラフェンを使ったスピントランジスタを実現するための鍵となる、未開発の技術であるスピン偏極技術の研究に取り組みました。通常の金属や半導体などでは、材料が持つ磁性や材料を流れる電子が感じる磁場(スピン軌道相互作用)を利用して電子のスピンの向きを制御することができます。しかし、グラフェンは磁性を持たず、スピン軌道相互作用も極めて弱いため、グラフェンそのものの性質を使ってスピンを操作することは困難です。そこで、研究チームでは、電流が流れない絶縁体の性質を持つ磁性体をグラフェンと貼り合わせることで、磁性絶縁体からの作用によってグラフェンを流れる電子のスピンの向きを制御できないかと考えました。
そこで本研究では、絶縁体の性質を持つ磁性体として磁気デバイスやスピントロニクスの分野で広く用いられるイットリウム鉄ガーネット(YIG) 6)に着目しました。高品質なYIGの薄膜をグラフェンと原子レベルで接触するよう貼り合わせた接合を作製し、量子ビーム7)の一種であるスピン偏極ヘリウムビーム8)を用いて、グラフェンとYIGの接合に含まれるグラフェンの電子のスピンを観測しました(図1)。グラフェンは厚さが一原子しかないため、グラフェンを異なる材料と接合した試料の観測を行う場合、X線や紫外線を用いる一般的なスピンの観測技術ではX線や紫外線がグラフェンの下地(今回の場合にはYIG)にまで透過してしまい、グラフェンのスピンを高感度に検出することができません(図2)。これに対して、スピン偏極ヘリウムは物質の最表面で散乱され下地には透過しないので、接合の表面にあるグラフェンのスピンだけを選択的に検出することができます(図2)。
図1 スピン偏極ヘリウム(He)原子ビームによるスピン検出の原理
スピン偏極He原子のビームをグラフェンに照射すると、He原子はグラフェンの表面でHe原子が持つ電子のスピン(図では上向き)と反対向きのスピン(図では下向き)を持つグラフェンの電子を検出して信号を発します。本研究では、YIGのスピンの向きに対してHe原子のスピンの向きを変えながら、He原子から発せられる信号を観測することで、グラフェンの電子の状態やYIGのスピンとの相対的な方位を明らかにしました。
図2 スピン偏極ヘリウム(He)ビームとX線, 紫外線の検出領域
スピン偏極He原子はグラフェンの表面で散乱されるため、厚さが一原子しかないグラフェンのスピンを選択的に検出することができます。一方、X線や紫外線グラフェンの下地まで透過し、深さが数原子以上までの領域を同時に検出してしまいます。
グラフェンの中の電子の状態を示す信号強度(上図)とスピンの向きを示すスピン非対称率(下図)の測定結果を示します。各図の横軸は、グラフェンの電子が持つエネルギーを示しています。今回、YIGのスピンの向きを一方向に揃えた状態で測定を行うと、緑枠内のエネルギーを持つ電子に正のスピン非対称率が観測されました。グラフェンには様々なエネルギーを持つ電子が存在しますが、上図の曲線の形状から、枠内の電子は、グラフェンの中を高速に流れることができるディラックコーン9)と呼ばれる状態の電子であることが分かりました。
図3 グラフェンとYIGの接合について観測されたグラフェンの電子の状態を示す信号強度とスピンの向きの偏りを示すスピン非対称率
グラフェンの中には様々なエネルギーを持った電子が存在しますが、今回、それらの中でグラフェン内を流れることができるディラックコーンの電子(上図)に正のスピン非対称率(下図)が観測されました。スピン非対称率の正負は、グラフェンの電子のスピンの向きがYIGのスピンと同方向(プラス側・赤色の領域)か反対方向(マイナス側・青色の領域)かを、スピン非対称率の大きさは、スピンの向きの揃い具体を示しています。スピン非対称率の符号から、グラフェンのスピンは、YIGのスピンと同じ方向に揃っていることが分かり、さらに、スピン非対称率の大きさから、スピンの向きの揃い具合は数10%程度と見積もられます。
さらに、下図のスピン非対称率の符号から、それらグラフェンのディラックコーンのスピンの向きがYIGのスピンの向きと同方向に揃っていることが分かりました。(図4)。本研究の結果から、グラフェンのスピンはYIGのスピンと相互作用しており、YIGのスピンの向きに応じてグラフェンのスピンの向きを自在に操作できることが明らかになりました。さらに、実験結果を理論的に解析した結果、グラフェンとYIGの接合では、界面の付近でYIGの性質が変化してグラフェンの中を移動する電子のスピンに働く磁場(スピン軌道相互作用)が強められている可能性も明らかになりました。
図4 グラフェンとYIGの接合における電子スピン間の相互作用を示す概念図
実験結果を解析した結果、グラフェンとYIGの接合では、両者が原子レベルで近接することで、界面(点線で囲んだ領域)にある酸素原子を介してグラフェンとYIGの電子のスピンの間に互いの向きを揃えるような相互作用が働いていることが分かりました。このようなグラフェンと磁性絶縁体の接合における近接効果は、スピントランジスタの新しい動作技術として利用できます。
研究チームによる今回の研究により、スピン操作技術というスピントランジスタの鍵となる技術が開発されたことで、今後、グラフェンを用いた高速・省エネなスピントランジスタの実現やそれを用いたスピン演算デバイスの実用化に繋がることが期待できます。
【今後の展望】
本成果は、グラフェンを流れる電子のスピンを操作する新しい技術を開発したものです。研究チームでは、現在、同技術を応用したスピントランジスタの開発を進めています。厚さが一原子のグラフェンは、異種物質と原子レベルで接合することでその電子・磁気的な性質を多様に変化できることが期待されます。私たちは、そのような原子スケールの複合化によるグラフェンの物性制御や機能化に注目して研究を行い、スピントロニクスの発展など情報技術の進歩に貢献します。
本成果は、JSPS科研費JP 16H03875「グラフェン/酸化物磁性体接合の磁気近接効果とスピン流制御の研究」(研究代表者:境 誠司)、ロシア国立科学技術大学 国際共同研究支援プロジェクト「ナノ構造体の理論材料科学」などの援助により得られました。
【用語解説】
1) グラフェン
炭素原子から成る厚さが一原子のシート状の物質です(図5)。炭素原子が蜂の巣状のネットワーク構造を持つことに起因して、高速に電子を輸送でき、輸送中に電子のスピンに乱れが生じにくいことなどスピン情報の輸送に適した性質を持つことから、スピントロニクスデバイスのスピン輸送材料として注目されています。グラフェンは上記のような優れた電子的性質を持つことに加えて、厚さが1原子の状態でも安定に存在できることや機械的な強度が極めて高いこと、化学処理等により性質を制御できることなどの特徴から、スピントロニクスデバイスに限らず、太陽電池、バイオセンサーや飛行機用部材など様々な応用が期待され、多くの分野で実用化を目指した研究開発が進められています。
図5 グラフェン 炭素原子がハチの巣状に結合してできたシート状の物質です。
2) スピントランジスタ
電子の電荷により動作する従来のトランジスタ(図6上側)は、電流を注入・検出するための二個の電極(ソース,ドレイン電極)、電子の導線の部分(緑の領域)とゲート電極と呼ばれる第三の電極からなり、ソース-ドレイン電極間の導線部分を流れる電子の有無をゲート電極にかける電圧により制御することで動作します。
これに対して、スピントランジスタ(図6下側)は、スピンを注入・検出するためのソース・ドレイン電極、スピンの導線(緑の領域)とスピンの向きを操作するためのゲート電極からなります。スピントランジスタでは、ソース電極から導線の部分に注入した電子のスピンの向きをゲート電極により操作することで、導線部分のスピンの流れを制御して動作します。
図6 トランジスタとスピントランジスタの比較
トランジスタとスピントランジスタは、共に三個の電極と導線の部分からなるよく似た構造の素子です。トランジスタは、導線内の電子の有無をゲート電極により変化し電子の流れを制御することで動作します。これに対して、スピントランジスタは、導線内の電子のスピンの向きをゲート電極により操作し、スピンの流れを制御することで動作します。スピントランジスタに於いてスピンの向きを変えるために必要なエネルギーは、トランジスタに於いて電荷の有無を変えるために必要なエネルギーより少なくて済みます。また、スピントランジスタでは各電極に磁性材料を用いることで、スピンが流れやすい(流れにくい)状態を不揮発的に保つことができます。これらの理由から、スピントランジスタはトランジスタよりも少ない電力で動作できます。
本成果を踏まえると、グラフェンを導線に用いたスピントランジスタ(図7)では、YIGなど絶縁性の磁性体からなるゲート電極に磁場や電圧を加えてグラフェンのスピンの向きや向きの揃い具合を制御することでスピントランジスタとして動作することが期待できます。
図7 グラフェンスピントランジスタの概念
磁性絶縁体をゲート電極に用いてグラフェンのスピンを操作します。ソース電極からグラフェンに注入された電子のスピンは、ゲート電極を構成する磁性絶縁体のスピンと相互作用して磁性絶縁体のスピンと同方向に向きが変えられます。このようにゲート電極を利用してソース電極からドレイン電極に至るグラフェン内のスピンの流れを制御することでスピントランジスタとして動作します。
図8 電子のスピン
電子のスピンには上向きと下向きの二つの状態があります。スピントロニクスでは、例えば、スピンの上向きを0、下向きを1のデジタル情報として演算や記憶を行います。
4) スピントロニクス
電子のスピンの向き(上向き/下向き)をデジタル情報の0と1のように扱い、これを制御したり識別したりすることで情報の処理を行う技術です。電子の電荷に加えてスピンを情報処理に用いることで、デバイスの性能を高めることや消費電力を著しく低減することができる技術として注目されています。
5) 磁気ランダムアクセスメモリ
電極のスピンの向きに応じて電気抵抗の大きさが変わる効果(磁気抵抗効果)を利用する記録デバイスです。電気抵抗が大きい/小さい状態(0/1のデジタル情報に対応)を磁気的に保持できるため、情報の保持に電源を必要とせず、書き込み速度も速いことなどから、電荷の有無により情報を記録する従来のランダムアクセスメモリに代わる記録デバイスとして研究開発が進められています。
6) イットリウム鉄ガーネット YIG
Y3Fe5O12の組成を持つ磁性絶縁体です。宝石として知られるガーネットの一種で、マイクロ波用磁性材料や磁気光学デバイスの材料として広く利用されています。
7) 量子ビーム
光や電子、原子などミクロの波や粒子を細いビームの形状に整えたものを量子ビームと呼びます。量子ビームを用いた様々な技術が、新しい材料や最先端のデバイスのミクロな性質を調べるためや、微細な構造を加工するために利用されています。
8) スピン偏極ヘリウム原子ビーム
正確にはスピン偏極準安定ヘリウム原子脱励起分光法と言います。本研究では、スピンを持つヘリウム原子(スピン偏極ヘリウム原子)のビームを用いてグラフェンの電子のスピンの観測を試みました(図1参照)。この技術では、スピン偏極ヘリウム原子を試料の表面に照射することで表面の電子のスピンを観測します。表面のスピンの観測には一般にX線や紫外線を使う方法が用いられますが、これらの方法では実際には表面からの深さが数原子以上の領域にある電子のスピンまで観測してしまいます(図2参照)。これに対して、スピン偏極ヘリウムビームは、試料の表面で完全に散乱されてしまうため、表面にある電子のスピンのみを観測することができます。グラフェンは炭素原子1個分の厚さしかないため、グラフェンと磁性材料の接合を一般的な方法で観測しようとしても、グラフェンと接する磁性材料(本研究の場合、YIG薄膜)の方を主に検出してしまい、グラフェンのスピンの向きを正確に把握することができません。この難題に対して、本研究では、上記のようなスピン偏極ヘリウム原子ビームの特徴を活かすことで、グラフェンとYIGの接合の表面にあるグラフェンのスピンを選択的に観測することに成功しました。
9) ディラックコーン
グラフェンは、炭素原子がシート状に並んだ形態に起因して、電子の状態に特徴的な円錐型の構造が現れます。そのような構造をディラックコーンと呼びます(図9)。ディラックコーンの電子は、グラフェンの中を高速に移動することができます。
図9 グラフェンのディラックコーン
グラフェンの中を移動する電子のエネルギーは、ディラックコーンと呼ばれる円錐型の運動量の分布を持ちます。青色の部分は、電子が存在する領域を表しており、図3の緑枠内はこの領域に対応します。