2018/04/25 科学技術予測センター栗林 美紀(主任研究官)
仮想現実(Virtual Reality, VR)は、一般的にはエンターテイメント領域での活用が知られていますが、医療分野も重点な適用領域として知られています。医療分野でのVR利用には、医学教育や手術支援があり、これ以外に認知行動療法にも活用されています。特に近年では、VRデバイスの技術革新により、VRを用いた認知行動療法において、これまで以上に臨場感を伴い、五感に訴えるようなシミュレーションが用いられるなど、急速に進展しています。この研究の中心の一つである、南カリファルニア大学(USC)クリエーティブ・テクノロジー研究所(ICT)では、2005年頃からシミュレーションゲームのコンテンツや技術を活用して、PTSD(強い心的ストレスにより引き起こされる障害)の緩和にVRを活用する取り組みが行われています。1)
医療現場のPTSDの曝露療法の課題
PTSDはその程度により、様々な種別がありますが、とくにその症状が重く、悪化する傾向があり、さらに数カ月を経ても自然に回復しない場合には、専門的な治療の対象となります。その治療には、トラウマ体験に対する持続曝露療法(prolonged exposure therapy)が有効とされています。持続曝露療法では、安全な治療の中でトラウマへの記憶を思い出させ、トラウマの恐怖に慣れるとともに、思い出しても危険はないことや、言葉にすることによってトラウマを乗り越えられることを学習していきます。この療法で70~80%程度の回復がみられるとされていますが、治療者の訓練、指導が難しいこと、時間と労力を要するため実施できる施設が限られていることが指摘されていました。2)
VR活用の取組事例
ICTのAlbert “Skip” Rizzo博士は、1990年代初めから、医療分野におけるVRの活用を調査し始め、PTSDの治療における有効性の検証など、普及に向けて先駆的な役割を果たしてきました。3)4)
当初、PTSDの治療によるVRの活用は、臨床心理士の指導の下、段階的に、広画角ビデオで擬似体験や心傷状況を追体験するものでした。その後、ヘッドマウントディスプレイを使用し、狭い場所でも視野を覆って没入感を高め、被験者の反応に応じたインターラクティブな刺激を映像として提供することが可能になりました。5)6)
Rizzo博士らが開発した「Bravemind」では、ICTが保有する豊富なコンテンツ資産(軍の戦術的シミュレーションゲームのために作成していたモデルやテクスチャ)を活用し、特別に設計された一連の仮想シナリオを体験することが可能です。このシステムでは、視覚刺激に加えて、音、振動および匂いを体験可能で、患者は安全で制御された条件下の仮想世界で五感を通じた再体験ができます。臨床医は、別のインタフェース(WOZ: Wizard of Oz) 7)を介してシステムを操作し、徐々に適度なレベルまで刺激を上げながら患者自身にトラウマ体験について語らせることによって、不安を和らげていきます。現在、退役軍人(VA)病院、軍事基地・施設、大学を含む60以上の拠点に導入され、PTSD症状の有意な減少をもたらすことが示されています。また、ICTでは、このシステムを PTSDの予防や評価のためのツールとしても利用しています。8)9)
ICTでの医療現場におけるVR利用の研究 出典:http://medvr.ict.usc.edu/
なお、同種の試みとして、曝露療法以外の療法への適用例も見られます。Beyond Care社(オランダ)では、PTSDの患者に外傷記憶を思い出させるのと同時に、目で動く物体を追跡させ、この2重のプロセスを課してそれを繰り返すことで、激しい感情反応を引き起こす能力を失うようにする眼球運動脱感作療法(Eye-Movement Desensitization and Reprocessing)用に、VRアプリケーションを開発し、治験を行っています。10)、11)
さらに、患者の外傷性記憶の提供が在宅治療で受けられ、治癒者が遠隔から進行状況を監視する研究も進められています。12)
VR活用の展開に向けて
最先端のVR技術は、PTSD治療以外にも応用範囲を広げています。USC映画芸術学部学部長のElizabeth M. Daley博士からは、自閉症患者の対人関係訓練プログラム(就業のための仮想面談やインタビュースキルの習得等)をVRで提供し支援すること13)やVRでの没入感のある戦地体験を踏まえ、より深い討論を実施する14)大学での取組みを紹介いただき、医療や教育の支援ツールとしての大きな可能性が指摘されました。(2017年9月21日、筆者によるインタビューにて)
また、高さ、飛行、公共の場における恐怖症や不安障害の治療への適用も進んでいます(CleVR,Psious,VirtualRet)。11)
日本では、曝露療法におけるVR導入は限定的です15)。しかし、VRは、通常の曝露療法と比べて、その安全性、効率性、コストの点からも優位であると指摘されており16)、今後本格的な導入が進む可能性があります。
参考
1)南カリファルニア大学 Bravemind
2)厚生労働省 こころの健康や病気、支援やサービスに関するウェブサイト
「PTSD」治療法
3)‘Skip’ Rizzo honored for advances in virtual reality therapy
4)ハーバードビジネススクール:Bravemind: Using Virtual Reality to Treat PTSD
5)トピックス2 治療や教育へのヴァーチャル・リアリティの応用が進められている,科学技術動向 2005年5月号,p4.
<http://data.nistep.go.jp/dspace/handle/11035/1596>
6)小特集 クオリティオブライフ 2.パニック障害治療用バーチャルリアリティ
7)Wizard of Oz Interfaces for Mixed Reality Applications
http://spdow.ucsd.edu/files/AEL-WOZ-CHI2005.pdf
8)南カリファルニア大学クリエーティブ・テクノロジー研究所 Bravemindの紹介
<https://medvr.ict.usc.edu/projects/bravemind/>
9)How Virtual Reality Is Helping Heal Soldiers With PTSD
10)Virtual Reality Experiences,VR Therapy
11)Crunch Network:Virtual Reality Therapy: Treating The Global Mental Health Crisis
12)Tielman ML, Neerincx MA, Bidarra R, Kybartas B, Brinkman WP(2017) A Therapy System for Post-Traumatic Stress Disorder Using a Virtual Agent and Virtual Storytelling to Reconstruct Traumatic Memories, JOURNAL OF MEDICAL SYSTEMS,41 (8). https://link.springer.com/content/pdf/10.1007%2Fs10916-017-0771-y.pdf
13)南カリファルニア大学Creating a Virtual Syria
14)南カリファルニア大学 Virtual interviews help people with autism land a job
15)篠原 信夫, 苑 少娟, 吉川 裕之, 倉田 正, 小山 博史(2006)飛行機搭乗恐怖症治療のための曝露用簡易型VRシステムの評価,VR医学4巻1号,pp.25-32,日本VR医学会.
16)竹島 望, 渡辺 範雄(2014)精神疾患に対するコンピュータ・インターネット精神療法:定性的レビュー,総合病院精神医学,26 巻3 号,pp.245-254, 日本総合病院精神医学会.
これまでの科学技術予測調査における関連トピック
・映像デジタル化、バーチャルリアリティ技術を活用した伝統芸能などの無形文化財、パフォーマンスの保存・保護および技術伝承に関わる技術(2005年:第8回)
・映像デジタル化、バーチャルリアリティ技術を活用した、技術伝承のための仕組みの構築(2010年:第9回)