2021-03-24 東京大学
○発表者:
中村 絢斗(東京大学 大学院情報理工学系研究科 博士課程1年)
小林 徹也(東京大学 生産技術研究所 准教授)
○発表のポイント:
◆大腸菌の匂い感知システムが感知の物理限界を達成する最適な構造を持つことを示した。
◆最適理論が予測する性質が大腸菌の実験的データと一致することを示した。
◆生体システムが持つ様々な機能の物理的・情報論的最適性を調べる理論的基礎となる。
○発表概要:
細胞から個体まで、生物のシステムは極めて高度な機能を持っている。例えば犬などは極めて微量の匂いを探知できることが知られているが、この様な環境の化学分子(匂い)を認識・探知するシステムは大腸菌などの単細胞にも備わっている。しかし、生体の匂い探知システムがどこまでよくできているのか、例えば物理的法則で規定される探知限界などを達成し得るのかについては、十分に明らかにされていなかった。
東京大学 大学院情報理工学系研究科 博士課程1年の中村 絢斗 大学院生と同 生産技術研究所の小林 徹也 准教授は、最適化理論の一種である最適フィルター理論を用いることで、大腸菌の匂い探知システムが物理的・情報理論的に最適な感知を実現するために必要な構造を有することを初めて示した。また理論により予測されるフィードバック制御関数形状が、実験計測とほぼ一致することを見出した。この結果は、大腸菌の匂い探知システムが物理的・情報論的限界を達成しうる構造を持つことを示唆するものであり、本手法は生体システムが持つ様々な機能の最適性を調べる理論的基礎となる。
本研究成果は、2021年3月23日にAmerican Physical Societyによる「Physical Review Letters」に掲載された。
○発表内容:
<研究背景>
細胞から個体まで、生物のシステムは未だ工学では実現できない極めて高度な機能を持っている。例えば環境の化学物質を感知する嗅覚系では、極めて微量の分子を探知できることが犬などの哺乳類で知られている。そして、この様な環境の化学分子(匂い)を探知するするシステムは体内の免疫細胞や大腸菌などの単細胞にも備わっており、ウィルスなどの外敵や餌の存在を認知し、その場所を探索することに役立っている。細胞が匂いを探知する分子的な仕組みはこれまで詳細に調べられてきたが、匂い探知システムが一体どこまでよくできているのか、例えば物理的法則で規定される探知限界などを達成しうる構造や性質を持ち得るのかについては、十分に明らかにされていなかった。
<研究内容>
東京大学 大学院情報理工学系研究科 博士課程1年の中村 絢斗 大学院生と同 生産技術研究所の小林 徹也 准教授は、最適化理論の一種である非線形最適フィルター理論を用いることで、大腸菌の匂い探知システムが物理的・情報理論的に最適な探知を実現するために必要な構造を有することを初めて示した。
1.非線形最適フィルター理論による最適構造の予測
大腸菌は犬などのように、環境中の匂いに対応する分子を自身が運動しながら感知することでその濃度変化を探知し、探知情報に基づき自分の運動を制御することで匂いの元に近づいたり離れたりする。これを化学走性という(図1)。適切に匂いに近づいたり離れたりするには、運動に伴う匂い分子の濃度変化、つまり濃度の時間微分情報を認識する必要があるが、大腸菌は微小なためこの濃度変化は非常に小さい。また匂い分子とそれを感知する受容体の反応は極めて確率的で、微小な濃度変化の情報は乱雑に変化するノイズに埋もれてしまう。したがって、大腸菌は匂い物質の探知を実現するために、乱雑に変化するノイズに埋もれた濃度変化を感知する、つまりノイズのあるシグナルの微分する必要がある。ノイズがあれば感知には必ず物理的・情報論的な限界がある。またそもそもノイズのあるシグナルを微分することは我々人間にとっても簡単ではない。
大腸菌の匂い探知システムはこの問題をどう解決し、また感知の限界を達成しているのかなどを明らかにするため、我々は最適化理論の一種である非線形最適フィルター理論(注1)を用いて、ノイズのあるシグナルを微分するために最適なシステムを微分方程式モデルの形で理論的に導出した。もし大腸菌の匂い探知システムが物理的・情報理論的な限界を達成するのであれば、この理論予測と近しい構造を持つことが期待される。そこで、分子生物学的な解析や定量的な実験計測を元に構築された、大腸菌の匂い探知システムの標準化学反応モデルに着目した。この標準化学反応モデルと最適理論の予測モデルとを比較した結果、適当な変換により2つのモデルが完全に一致することを示した(図2a)。これは大腸菌の匂い探知のシステムが最適な匂い探知を実現する構造を有することを示唆する。
2.実験データによる理論予測の検証
理論予測の妥当性を更に検証するため、匂い探知システムのフィードバック制御構造に着目した。大腸菌の匂い探知システムは匂いの時間変化(時間微分)を検出するため、一定の匂いにさらされるとその匂いに馴れる適応の性質を持つ。この適応は匂い受容体のメチル化を介したフィードバック制御(注2)で実現されることが知られるが、標準化学反応モデルではこのフィードバックの非線形関数形状を導くことができていない。一方、本研究の最適理論からは最適な関数形状が予測される。この理論予測を大腸菌で実験的に計測されたフィードバック形状と比較したところ、極めてよく一致することを見出した(図2b)。また他の実験データとも理論予測が一致することを確かめた。この結果は、大腸菌の匂い探知システムの最適性を裏付けるものである。
<今後の予定>
生体や細胞は化学反応でできたシステムであり非常に高度な機能を持つ。特に化学物質の感知において、分子の微細な差を高い特異性をもって識別したり、分子の複雑な組み合わせを認知したりできることが、免疫応答や嗅覚系で知られている。このような化学情報の処理は工学技術が生体にまだ及ばない領域であり、AI分野においても化学認知(嗅覚・味覚)は視覚・聴覚に続く未踏のフロンティアである。本研究を発展させることは、なぜ生体は複雑な化学情報を読み解き処理することができるのか、という理学的な問題の解明に貢献するとともに、化学認知や化学情報処理の情報学的・工学的応用にも寄与すると期待される。
※本研究は日本学術振興会科学研究費助成事業(20J21362、19H05799)、JST CREST(JPMJCR2011)などの助成や支援を受けて行われた。
○発表雑誌:
雑誌名:「Physical Review Letters」(2021年3月23日公開)
論文タイトル:Connection between the bacterial chemotactic network and optimal filtering
著者:Kento Nakamura*, Tetsuya J. Kobayashi
DOI番号:10.1103/PhysRevLett.126.128102
○問い合わせ先:
東京大学 生産技術研究所
准教授 小林 徹也(こばやし てつや)
○用語解説:
(注1)非線形最適フィルター理論
フィルター理論は、時間の経過とともに逐次的に与えられる限られたデータに基づいて、その背後にある知りたい量がどのような状態にあるかを、なるべく精度良く推定するシステム(フィルター)を設計する理論である。中でも最適フィルター理論は、精度を評価する基準(例:二乗誤差、相互情報量)を設定し、その基準を最も良く達成するようなフィルターを導出する理論である。特に、導出される最適フィルターが入力に対して非線形な性質を持つような状況設定を扱うのが、非線形最適フィルター理論である。
(注2)匂い受容体のメチル化とフィードバック制御
フィードバック制御は、システムを所望の状態に維持するために使える工学的手段の一つである。特にフィードバック制御では、システムの状態に依存した制御入力をシステムに与える(フィードバックする)ことで、その目的の達成を試みる。
大腸菌の匂い探知システムにおける適応の性質は、匂い受容体を匂いに馴れた状態へと維持するようなフィードバック制御によって生じると考えられている。そのフィードバック制御を実現する分子的な機構が、匂い受容体のメチル化である。大腸菌の匂い受容体は、匂い分子と結合する部位の他に、メチル基と結合する部位を持っている。メチル化はその部位にメチル基が結合する反応である。大腸菌細胞におけるメチル化は、匂い受容体の状態に依存して働く分子によって調整されており、同時に受容体の状態に影響を与える。つまりメチル化は、受容体の状態を受容体自身へとフィードバックするような制御入力として働くことができる。この匂い受容体のメチル化を介したフィードバック制御が適切に働くことで、大腸菌の匂い探知システムは適応を示している。
○添付資料:
図1:大腸菌の匂い探知の概念図
図2:(a)標準化学反応モデルと最適理論の予測モデルの比較 (b)最適理論の予測と実験データとの比較