反強磁性体における垂直2値状態の電流制御に成功~不揮発性メモリの超高速化・超低消費電力化への大きな一歩~

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2022-07-21 東京大学

肥後 友也(物理学専攻 特任准教授/物性研究所 リサーチフェロー 併任)
近藤 浩太(理化学研究所 上級研究員)
野本 拓也(先端科学技術研究センター 助教)
三輪 真嗣(物性研究所 准教授/トランススケール量子科学国際連携研究機構 准教授 併任)
中辻 知(物理学専攻 教授/物性研究所 量子物質研究グループ 特任教授/
トランススケール量子科学国際連携研究機構 機構長 併任)

発表のポイント

  • 強磁性体からなる不揮発性メモリである磁気抵抗メモリ(MRAM)において情報の記憶に用いられている垂直2値状態を反強磁性体で実現。
  • 反強磁性体の垂直2値状態を電流で制御する技術を開発。
  • 超高速・超高集積・超低消費電力のMRAMの実現に大きなブレークスルー。

発表概要

東京大学大学院理学系研究科 肥後友也 特任准教授(東京大学物性研究所 リサーチフェロー併任)、中辻 知 教授(東京大学物性研究所 特任教授 及び 東京大学トランススケール量子科学国際連携研究機構 機構長併任)は、理化学研究所 創発物性科学研究センター(CEMS)近藤浩太 上級研究員、東京大学物性研究所 大谷義近 教授(東京大学トランススケール量子科学国際連携研究機構 教授 及び 理化学研究所 CEMS チームリーダー併任)の研究グループと東京大学先端科学技術研究センター 野本拓也 助教、有田亮太郎 教授(理化学研究所 CEMS チームリーダー併任)の研究グループ、東京大学物性研究所 志賀雅亘 特任研究員(研究当時)、坂本祥哉 助教、三輪真嗣 准教授(東京大学トランススケール量子科学国際連携研究機構 准教授併任)の研究グループ、Xianzhe Chen 特任研究員(研究当時)、浜根大輔 技術専門職員と共同で、不揮発性メモリ(注1)の超高速化・超低消費電力化を実現可能にする材料として注目を集める反強磁性体(注2)において、従来の強磁性体(注2)から構成されるMRAM(注1)で用いられている垂直2値状態を実現し、この垂直2値状態を電気的に制御することに成功しました。

反強磁性体はスピン(注2)の応答速度が強磁性体の場合(ナノ秒)に比べて100 ~ 1000倍速いピコ秒であり、磁性体間に働く磁気的な相互作用が小さいため、不揮発性メモリの有力候補であるMRAMに応用することでMRAMの超高速化・超低消費電力化・高集積化を可能にします。そのため、反強磁性体における情報の書き込み・読み出し技術が近年盛んに研究されています。本研究ではカイラル反強磁性体Mn3Snからなる素子において、電流での情報の書き込み時に書き込み不良部位なく、高集積化・高速化に適した垂直2値状態を電気的に記録・制御できることを実証しました。本成果は、ピコ秒での情報記録が可能なMRAMをはじめ、反強磁性体を用いた電子デバイス開発に飛躍的な進展をもたらすことが期待されます。

本研究成果は英国の科学誌「Nature」において、2022年7月21日付けオンライン版に公開されました。

発表内容

研究の背景
PCやスマートフォンなどのインターネット接続端末の普及に加え、Internet of Things(IoT)・AI技術の発展に伴い、社会のデジタルトランスフォーメーション(DX)が急速に進んでいます。世界のデータ通信量は 2030 年に現在の数十倍、2050 年には数千倍に達すると予想され、データセンターのサーバーなどで用いられる情報処理技術の低消費電力化が求められています。情報処理プロセスの中核を担う半導体メモリは情報の維持のために常時電源をオンにしておく必要があり、膨大な電力を消費します。そのため、電力供給なしで情報の維持が可能な不揮発性メモリの開発が進められてきました。

磁石として知られる強磁性体の磁極(N極とS極)の向きを「0」と「1」の情報として不揮発に記憶できるMRAMは、低消費電力性と共に大容量・高書き換え耐性を満たし得る不揮発性メモリであり、次世代半導体技術の本命として期待されています。情報記憶の手法として磁極の向きを垂直方向に安定化させることで生じる垂直2値状態を用いた垂直磁気記録が現在の主流となっています。スピン移行トルク(注3)と呼ばれるスピン偏極した電流の角運動量の移行現象を用いた磁極の電気的制御手法を採用したMRAMはすでに社会実装が進んでいます。また最近では、スピン軌道トルク(注3)と呼ばれる白金(Pt)などの重金属中で生じる純スピン流を用いた制御手法も開発され、高速化や書き換え耐性のさらなる向上への期待から次世代のMRAMへの導入に向けた研究が加速しています。

これらの研究開発に並行して、飛躍的な特性向上が期待できる開発指針の1つとして、反強磁性体による強磁性体の代替が検討されています。その理由は、反強磁性体で期待される情報の記憶速度がテラヘルツ帯 [ピコ(10−12)秒台] と強磁性体での記憶速度であるギガヘルツ帯 [ナノ(10−9)秒台] に比べて2 ~ 3桁速いためです。記憶速度が速くなることで書き込み時に必要となる電力量( ∝ 書き込み時間)も格段に低くなることが可能です。超高速・超低消費電力で駆動するMRAM実現への期待から、反強磁性体での情報の電気的書き込み手法が多数開発されています。しかし、強磁性体と異なり磁極を持たない反強磁性体のMRAM開発では、(1) 強磁性体とは異なる書き込み手法を用いるため複雑な素子形状が必要となること、(2) 素子全域の反強磁性状態の制御が困難であることが応用上克服すべき重要課題となっていました。

研究内容と成果
本研究グループはマンガン(Mn)とスズ(Sn)からなるカイラル反強磁性体Mn3Sn (図1aと1b)の研究を行っており、磁極を持たない反強磁性体では検出が困難だと信じられてきた異常ホール効果((注4)、図1c)や異常ネルンスト効果(注5)、磁気光学カー効果(注6)などの読み出し信号を室温で検出できることを明らかにしました。これらの信号が得られる理由は、非共線的な(ノンコリニア)反強磁性スピン構造を示すMn3Snが、磁極に類似した拡張磁気八極子偏極(注7)を持つためです(図 1b)。また、素子作製に必須の純良な薄膜の開発にも取り組み、2020年にはこの磁気八極子偏極をスピン軌道トルクによって反転できることを実証しました(Nature 580, 608 (2020).)。


図1:カイラル反強磁性体Mn3Snの結晶構造と磁気構造、磁気八極子偏極による異常ホール効果
(a) Mn3Snの結晶構造。Mn3Snは c軸方向に磁性原子のマンガン(Mn、赤と黄の球)からなるカゴメ格子が(A層とB層の順で交互に)積層した構造を持ちます。(b) Mn3Snの磁気構造。430 K(約150 ℃)以下で、Mnのスピンが逆120度構造と呼ばれる反強磁性秩序(カイラル反強磁性秩序)を示します。二層のカゴメ格子上のスピン(桃、青、黄緑の矢印)を見ると、六角形で示されている拡張磁気八極子(橙の矢印)と呼ばれる6つのスピンからなるユニットが同じ方向にそろっていることがわかります。(c) 通常の反強磁性体は磁極を持たないため異常ホール効果は現れません。しかしMn3Snでは拡張磁気八極子偏極がつくる巨大な仮想磁場の効果により電子(黄色球)が曲げられ、強磁性体に匹敵するほど大きな異常ホール効果(ホール電圧)がゼロ磁場で現れます。


本研究では、カイラル反強磁性体Mn3Snのエピタキシャル薄膜と重金属薄膜を含む多層膜を作製しました。Mn3Snの磁気八極子偏極は6つの方向に向くという自由度を持っていますが、Mn3Snのエピタキシャル薄膜作製時にカゴメ面に平行に引っ張り歪みを導入することで膜面垂直方向にのみ自由度を持つ(垂直2値状態をとる)ことが分かりました(図2aと2b)。この多層膜からなるホール電圧信号の測定用素子を作製し、書き込み電流によるホール電圧の変化を室温で測定しました。その結果、14 MA/cm2程度の書き込み電流によって、素子が出力する信号を100%反転可能であることを確認しました(図3aと3b)。この実験結果は、垂直方向を向いた拡張磁気八極子偏極を素子の全域において電流制御できていることを示しています(図4b)。磁気八極子偏極の向きを可視化できる磁気光学カー効果顕微鏡での測定においても、同様の結果が得られました(図3d)。数値計算の結果、スピンホール効果により生じたスピン流のスピン偏極方向に対して、磁気八極子偏極の回転面を垂直に配置することが、カイラル反強磁性体における高効率な情報記憶の鍵であることが分かりました(図3c)。


図2:カイラル反強磁性体Mn3Snでのカゴメ面内の引っ張り歪みにより誘起された垂直2値状態
(a)本研究で用いたMn3Sn多層膜の概要図。基板に用いたMgOとMn3Snの格子不整合により、Mn3Sn層には引っ張り歪みが生じます。(b) Mn3Snの持つ拡張磁気八極子偏極はカゴメ面内に6値の自由度を持っています。しかし、図2aに示した歪みを導入することで、この自由度は膜面垂直方向の2値に減少し、垂直2値状態になります。


図3:重金属 W/ カイラル反強磁性体Mn3Sn素子での電気的書き込み実験の概要図
(a) W/Mn3Sn素子におけるホール電圧の磁場依存性。磁場依存性では外部磁場は膜面直方向に印加しています。(b) W/Mn3Sn素子におけるホール電圧の書き込み電流依存性。右側の縦軸が示す様に100%の反転率を示しています。この実験では0.1 Tのバイアス磁場をかけています。(c) 電流による拡張磁気八極子偏極の反転実験の概要図。電流を流すことで赤矢印に偏極したスピン流がW中で生じます。このスピン流によりカイラル反強磁性体Mn3Snの拡張磁気八極子偏極が180°反転し(垂直2値状態が反転し)、ホール電圧が100%反転します。(d) 非磁性重金属(W)/Mn3Snからなる素子の反転実験時の磁気光学カー効果顕微鏡像。x方向に書き込み電流を流すことで磁気八極子偏極に対応して素子の全域が黒からグレーへと反転しています。(i)と(ii)は図3(b)中の(i)と(ii)での素子の観察像に対応しています。ホール電圧は端子VH間の電圧を測定しています。


図4:部分反転する素子と100%反転する素子における微細化の影響
(a) 部分反転する素子では微細化した際に完全に動作しない素子が生じてしまいます。(b) 100%反転する素子では微細化した際でも各素子が安定に動作します。橙の矢印は各素子において反転する拡張磁気八極子偏極を示しています。図2bで示したように、本研究では、カイラル反強磁性体Mn3Snにおいて、素子全域にわたり拡張磁気八極子がつくる垂直2値状態が電気的に制御できることを実証しました。


また、これまでの反強磁性体素子を用いた研究では、10 MA/cm2程度の書き込み電流では全体のうち数10%程度の面積に由来する信号しか制御できませんでした。素子が十分大きい場合には制御不良部位が素子内部で平均化され動作しますが、従来のMRAMのように数10 nm程度の素子を高密度に作製した際には不良素子となってしまい、各素子の安定動作が難しくなります(図4a)。本研究では、薄膜作製時にMn3Snの反強磁性秩序(磁気八極子偏極)がつくる垂直2値状態の電流制御を実証することで、カイラル反強磁性体において超低消費電力、かつ、信頼性の高い情報記録デバイスの作製が原理的に可能であることを明らかにしました(図4b)。

今後の展望
一般的な反強磁性体では、表1(強磁性体や他の反強磁性体との特性比較表)に示すように、 2方向の書き込み電流用端子が必要となります。一方、カイラル反強磁性体Mn3Snでは強磁性体の場合と同様に1方向の書き込み電流用端子に流れる電流の向き(符号)で、拡張磁気八極子偏極がつくる「0」と「1」の状態を制御できます。さらに、本研究からこの磁気八極子偏極は10 MA/cm2程度の書き込み電流で垂直2値状態を制御できることが明らかになりました。以上の結果は、反強磁性体をベースとしたMRAM応用において大きな障害となっていた課題を、カイラル反強磁性体を用いることで解消できることを示しています。


表1:強磁性体や一般的な反強磁性体とカイラル反強磁性体Mn3Snの特性表
電子デバイスに用いられている強磁性体と比べて、反強磁性体は記憶速度が速くなることが予測されています。その一方で、一般的な反強磁性体では磁極がないために異方性磁気抵抗効果(ネール秩序と読み出し電流との相対角で抵抗が変化する効果)での読み出しが必要であり、強磁性体と同様の手法での情報の書き込みができませんでした。一般的な反強磁性体ではネール秩序の膜面内での90度反転が書き込みプロセスに用いられており、2本の書き込み電流用の電極が必要になります。カイラル反強磁性体では、引っ張り歪みにより拡張磁気八極子偏極がつくる垂直2値状態を実現し、これを磁極と同様に180°反転させることで、強磁性体と同様に垂直2値状態の電流制御を行うことができます。


その他の応用上注目すべき点として、本情報記憶手法では垂直磁気異方性(注8)が大きくなるほど記憶速度が速くなること、垂直2値状態の熱安定性が高くなることが理論的に示唆されています。拡張磁気八極子偏極の垂直磁気異方性は歪みにより増強可能であることも本研究を通して分かってきています。垂直磁気記録は強磁性体を用いたMRAMにおいて高集積化と高速化のために開発されてきた技術です。本研究成果は、MRAMのさらなる超高速・超低消費電力化を可能にする材料である反強磁性体においても垂直磁気記憶が可能であることを示しました。これらの知見をもとに、今後は反強磁性体MRAMの実現へ向け、反強磁性体において期待されるピコ秒での超高速情報記憶の実証やnmオーダーの微細素子での熱安定性の検証を歪みとの相関の理解も含めて体系的に進めていく必要があります。

また、本研究で読み出し信号として用いた異常ホール効果はカイラル反強磁性体Mn3Snが持つトポロジカル電子状態 [ワイル半金属状態(注9)] に由来しています。物質のトポロジーに由来する性質は、近年の固体物理学において大きな注目を集めており、ワイル半金属状態の電気的な制御は学術的に大変興味が持たれています。今回開発したスピン軌道トルクによる拡張磁気八極子偏極とそれに伴う巨大な異常ホール効果の高効率な電気的制御手法は、これまで観測できなかったワイル半金属状態での非平衡物理やそれによる新しい現象の研究へつながることが期待されます。

本研究は、科学技術振興機構(JST)未来社会創造事業 大規模プロジェクト型(JST-MIRAI)「トリリオンセンサ時代の超高度情報処理を実現する革新的デバイス技術」研究領域(運営統括:大石善啓)における研究課題「スピントロニクス光電インターフェースの基盤技術の創成」課題番号 JPMJMI20A1(研究代表者:中辻知)、戦略的創造研究推進事業 チーム型研究(JST-CREST)「トポロジカル材料科学に基づく革新的機能を有する材料・デバイスの創出」研究領域(研究総括:上田正仁)における研究課題「電子構造のトポロジーを利用した機能性磁性材料の開発とデバイス創成」課題番号 JPMJCR18T3 (研究代表者:中辻知)、戦略的創造研究推進事業 個人型研究(さきがけ)「トポロジカル材料科学と革新的機能創出」研究領域(研究総括:村上修一)における研究課題「第一原理計算に基づくトポロジカル磁性材料探索」課題番号JPMJPR20L7(研究代表者:野本拓也)などの一環として行われました。

本研究チーム構成員:

肥後 友也
東京大学大学院理学系研究科 物理学専攻 特任准教授/東京大学物性研究所 量子物質研究グループ リサーチフェロー

近藤 浩太
理化学研究所 創発物性科学研究センター 上級研究員

野本 拓也
東京大学先端科学技術研究センター 助教

志賀 雅亘
九州大学大学院工学府 エネルギー量子工学部門 助教/研究当時:東京大学物性研究所 量子物質研究グループ 特任研究員

坂本 祥哉
東京大学物性研究所 量子物質研究グループ 助教

Xianzhe Chen
University of California Berkeley 特任研究員/研究当時:東京大学物性研究所 量子物質研究グループ 特任研究員

浜根 大輔
東京大学物性研究所 附属物質設計評価施設 技術専門職員

有田 亮太郎
東京大学先端科学技術研究センター 教授/理化学研究所 創発物性科学研究センター チームリーダー 併任

大谷 義近
東京大学物性研究所 ナノスケール物性研究部門 教授/東京大学トランススケール量子科学国際連携研究機構 教授/理化学研究所 創発物性科学研究センター チームリーダー 併任

三輪 真嗣
東京大学物性研究所 量子物質研究グループ 准教授/東京大学トランススケール量子科学国際連携研究機構 准教授 併任

中辻 知
東京大学大学院理学系研究科 物理学専攻 教授/東京大学物性研究所 量子物質研究グループ 特任教授/東京大学トランススケール量子科学国際連携研究機構 機構長 併任

発表雑誌
雑誌名
Nature論文タイトル
Perpendicular full switching of chiral antiferromagnetic order by current

著者
Tomoya Higo+, Kouta Kondou+, Takuya Nomoto, Masanobu Shiga, Shoya Sakamoto, Xianzhe Chen, Daisuke Nishio-Hamane, Ryotaro Arita, Yoshichika Otani, Shinji Miwa and Satoru Nakatsuji* (+ : equal contribution、* : corresponding author)

DOI番号
10.1038/s41586-022-04864-1

用語解説

注1  不揮発性メモリ・磁気抵抗メモリ(MRAM)
既存の半導体メモリとは異なり、電源を切っても記録された情報を失わないメモリです。磁気抵抗メモリ(MRAM)、抵抗変化メモリ(ReRAM)、相変化メモリ(PRAM)など、データ記憶方式の異なる複数のメモリが開発されています。本研究で着目したMRAMは磁気状態(磁極の向きに対応した抵抗値の変化)を使用して情報の書き込みと読み出しを行う不揮発性メモリです。膜面に対して磁極(Mn3Snの場合は磁気八極子偏極(注7))が垂直(上下)方向に向いた垂直2値状態のときに高密度・省電力化と熱安定性の向上が期待できます。

注2  反強磁性体・スピン・強磁性体
磁性体は「スピン」と呼ばれる電子の自転運動に起因した微小な磁石を有する物質です。この磁性体は巨視的な数のスピンが何らかのパターンで整列する磁気秩序を示し、スピンが一様な方向にそろうことで磁石のように磁極を持つ強磁性体と、隣り合うスピンが反平行や互いを打ち消しあうように配列することで磁極を持たない(磁石の性質が現れない)反強磁性体に分類されます。

注3  スピン移行トルク・スピン軌道トルク・スピン流
エレクトロニクスでは、電子の持つ電荷の流れ、すなわち電流が重要な役割を担っています。一方、スピントロニクスでは、電子のスピン自由度(例えば、スピンの流れである「スピン流」)を積極的に利用することでより低消費電力デバイスの実現を可能にします。現在、市販されているMRAMにおける磁気情報の制御には、磁性体に流れるスピン偏極電流を利用したスピン移行トルク方式が用いられています。一方、最近では、白金などの重金属から生成するスピン流を用いたスピン軌道トルク方式が注目されています。この方式を用いることで、より効率的かつ素子構造の簡素化が期待されます。今回の反強磁性体の磁気情報制御においても、タングステン(W)から生成されるスピン流によるスピン軌道トルクを用いることで、効率的な磁化制御を実現しています。

注4  異常ホール効果

電気を流すことが可能な物質において、磁場・電流と垂直方向に起電力が生じる現象をホール効果と呼びます。互いに垂直に磁場と電流を与えた際に、電流として流れている電子の運動方向が磁場により曲げられることが原因です。強磁性体では、外部から磁場を与えなくても磁極の向きを制御することでホール効果が生じます。この効果を異常ホール効果と呼びます。最近では仮想磁場(波数空間に存在する有効磁場で、電子構造のトポロジーに起因する新しい物理概念)を持つ特殊な反強磁性体やスピン液体でも異常ホール効果が現れることが分かってきています。

注5  異常ネルンスト効果
電気を流すことが可能な物質において、磁場・温度勾配と垂直方向に起電力が生じる現象をネルンスト効果と呼びます。磁場と温度勾配を互いに垂直となるように加えることで、高温側から低温側へ向かう電子の流れが磁場により曲げられることが原因です。異常ホール効果と同様に、強磁性体や仮想磁場を持つ特殊な反強磁性体ではゼロ磁場でもネルンスト効果が現れ、これを異常ネルンスト効果と呼びます。この場合、磁場の代わりに磁極や仮想磁場を温度勾配と垂直に向けることで起電力が得られます。

注6  磁気光学カー効果
強磁性体に直線偏光した光を入射した際に、磁極の向きに応じて反射光の偏光面が回転する現象を磁気光学カー効果といいます。光の偏光面の回転方向により磁極の向きを非接触・非破壊で測定できるため、強磁性体の磁気ドメインを直接観察する手法として広く用いられています。反強磁性体では観測が困難だと考えられていましたが、異常ホール効果・異常ネルンスト効果と同様にカイラル反強磁性体Mn3Snなどの拡張磁気八極子偏極を持つ特殊な反強磁性体ではこの効果が観測可能であることが分かっており、磁気ドメイン観察に用いられています。

注7  拡張磁気八極子偏極
磁石として知られる強磁性体はN極とS極の2つの極(磁極)を持っていますが、磁性体の各格子点に配置されたスピンも2つの極を持ち、これは磁気双極子と呼ばれています。複数の格子点に配置されたスピンで1つのユニットを考えた際に作られる特徴的なスピンの組み合わせを拡張磁気多極子といい、構成するスピンの数が1、2、3つと増えるにつれて、磁気双極子、四極子、八極子というようにその組み合わせの名前が変わります。反強磁性体Mn3Snのスピン構造では、2つのカゴメ格子上に配置された6つのスピンで拡張磁気八極子のユニットが考えられ、図1bに示すように拡張磁気八極子偏極を持っていることが分かります。Mn3Snの磁気八極子偏極は異常ホール効果などの源である仮想磁場の向きを制御するパラメータとして機能します。そのため、磁極のない反強磁性体においても、強磁性体で見られるような巨大応答を示すことができます。

注8  垂直磁気異方性
磁性体は磁気異方性を持ち、磁極が向きやすい方向(磁化容易軸)と向きにくい方向(磁化困難軸)が存在します。磁気異方性の起源としては、例えば、(A)磁性体の結晶構造や原子配列などに起源を持つ結晶磁気異方性、(B)異種材料からなる界面に由来して磁化を界面に対して垂直に安定化させようとする界面磁気異方性、(C)試料の形状に依存する反磁場によって生じる形状磁気異方性が知られています。MRAMなどの強磁性体を用いた素子では、磁化が膜に対して垂直方向に向くことで高密度・省電力化と熱安定性の向上が期待できます。そのため、上記(A)~(C)をバランスよく設計し、垂直磁気異方性を持った素子が作られています。磁極の場合と同様、磁気八極子偏極を持つMn3Snを用いた素子においても、垂直磁気異方性による特性の向上が期待できます。

注9  ワイル半金属状態
1921年にヘルマン・ワイルが提唱したワイル方程式に従って記述される質量ゼロの粒子(ワイル粒子)を持つ物質はワイル半金属と呼ばれています。ニュートリノを記述する粒子として世界的に研究が進めらてスーパーカミオカンデでの実験でニュートリノが微小な質量を持つことが分かり、ワイル粒子は自然界に存在しない幻の粒子と思われていました。ワイル半金属においてワイル点は異なるカイラリティ(右巻き・左巻きの自由度)を持つ対となってトポロジカルな電子構造として現れます。このワイル点の対は運動量空間における磁石のN極とS極に相当します。通常のワイル半金属では物質の結晶構造に由来してワイル点が創出されます。一方で磁性により創出されるワイル点を持つ磁性体をワイル磁性体(より広義にはトポロジカル磁性体)といいます。ワイル磁性体では磁極や磁気八極子偏極を制御することで、ワイル点とそれに付随した仮想磁場の制御が可能であり、応用の観点からも魅力的な性質が見つかっています。ワイル点間に生じる仮想磁場は100 ~ 1000 テスラ(T)の外部磁場に相当するほど大きく、巨大な異常ホール効果などの起源となっています。

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