反強磁性金属薄膜のテラヘルツ異常ホール効果を観測

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高速情報処理に向けたスピン秩序の1ピコ秒高速読み出しを実現

2020-02-14    東京大学,科学技術振興機構

ポイント
  • 反強磁性金属薄膜が示す異常ホール効果をテラヘルツ周波数帯で初めて観測した。
  • 現れるテラヘルツ異常ホール電流は強磁性並みに大きく、ほぼ無散逸に流れること、また薄膜中のスピン秩序情報が磁場印加から半年以上にわたり保持されることが分かった。
  • 反強磁性スピン秩序を高速に読み出す手法を確立したことにより、高速スピントロニクスへの応用とさらなる物性解明が期待される。

東京大学 物性研究所(所長 森 初果)の松田 拓也 特任研究員、松永 隆佑 准教授(JST さきがけ研究者)らの研究グループは、同 大学院理学系研究科 物理学専攻および同研究所の中辻 知 教授の研究グループおよび米国の研究グループと協力して、室温において反強磁性注1)金属の異常ホール効果注2)をテラヘルツ周波数帯注3)で観測することに成功しました。

ハードディスクに代表される既存の磁気デバイスの情報処理には強磁性体が持つスピン秩序(磁化)が用いられています。より高速化するためには強磁性体より2、3桁速くスピンの向きが変化し、テラヘルツ周波数(THz、毎秒約1兆回)で駆動させることができる反強磁性体を活用することが期待されています。しかし反強磁性体は外部刺激に対する応答が非常に小さく、スピン秩序の情報を読み出すことがこれまで困難でした。

本研究では、2015年に中辻教授らによって開発された反強磁性金属化合物MnSnに注目し、この物質特有の反強磁性秩序に由来する異常ホール効果をテラヘルツ周波数で観測することに成功しました(図1)。その結果、強磁性体並みに大きな異常ホール電流がテラヘルツ周波数帯でもほぼ無散逸に流れること、スピン情報が半年以上経過してもなお安定に保持されることなどが明らかになり、反強磁性体を用いたスピン秩序情報の高速読み出しに向けた指針が築かれました。また今回開発された手法によって1兆分の1秒の時間分解能で異常ホール効果の計測が実現したため、今後より詳細な研究による物性の解明が期待されます。

本研究成果は国際科学雑誌「Nature Communications」の2020年2月14日付オンライン版に公開される予定です。

本研究は、JST 戦略的創造研究推進事業 さきがけ「光の極限制御・積極利用と新分野開拓」研究領域(研究総括:植田 憲一)における研究課題「高強度テラヘルツ電場による量子多体系の非平衡物理の探索」(課題番号:JPMJPR16PA、研究者:松永 隆佑)、CREST「トポロジカル材料科学の構築による革新的材料・デバイスの創出」研究領域(研究総括:上田 正仁)における研究課題「電子構造のトポロジーを利用した機能性磁性材料の開発とデバイス創成」(課題番号:JPMJCR18T3、研究代表者:中辻 知)の一環として行われました。

<研究の背景>

原子が持つスピンの自由度を活用した技術はスピントロニクスと呼ばれ、ハードディスクを始めとして広く実用化され、現在もさらなる進展を目指して盛んに研究が行われています。スピントロニクスの主役となるのは強磁性体です。強磁性体ではスピンが一様な方向にそろって秩序を形成し大きな磁化が現れるため、その磁化を情報の単位として、書き込み・保存・読み出しが可能ですが、その速度はギガヘルツ周波数(GHz、毎秒約10億回)が限界とされています。近年では、強磁性とは対照的に隣り合ったスピンが互いに打ち消し合って全体として磁化を示さない秩序が現れる反強磁性体が注目されています。反強磁性秩序のスピンの向きの変化は強磁性秩序よりも2、3桁ほど速く、テラヘルツ周波数帯で駆動させることが可能です。さらに漏れ磁場がほぼゼロに近いため隣接素子への磁気的影響が無視できることなどから、次世代の高速スピントロニクス材料として期待されています。しかし反強磁性秩序は強磁性秩序と比べて外部からの刺激に対する応答が非常に小さいため、スピン秩序の情報を読み出すことが難しく、これが反強磁性体の実用化を阻んでいました。

2015年に中辻教授らのグループによって、マンガン(Mn)とスズ(Sn)の化合物である反強磁性金属化合物MnSnが室温で強磁性並みに大きな異常ホール効果を示すことが直流伝導測定により明らかにされ、大きな注目を集めました。この異常ホール効果は、MnSn特有の「クラスター八極子注4)」という特殊なスピン秩序(図2a)に由来した現象であり、磁気情報処理への応用が期待されています。この異常ホール効果のテラヘルツ周波数帯での振る舞いを調べること、さらにテラヘルツの速さでスピン秩序情報を高速に読み出すことが課題となっていました。

<研究内容>

本研究では、異常ホール効果をテラヘルツ周波数帯で観測する実験に取り組みました。試料として2018年に中辻教授らのグループが開発した高品質MnSn薄膜が用いられました。

テラヘルツ周波数帯は、電波と光の中間領域の周波数であるため、この周波数帯の電磁波を用いて光学的な実験手法によって非熱的に非接触に物質の電気伝導を測定することが可能です。松田特任研究員および松永准教授らのグループは、パルスレーザーを用いてテラヘルツ光パルスを発生させ、試料に入射しました。テラヘルツ光が持つ交流電場に対して異常ホール効果が生じると、試料を透過した光の偏光注5)が回転することに注目し、偏光回転を精密に計測することのできるテラヘルツ時間領域分光システムを開発しました。0.5THzから1.5THzの周波数帯において20分の積算時間で0.05mrad(ミリラジアン)以下の精度で計測できる世界最高クラスの高精度な分光システムを構築し(図2b)、さらに6THzほどの広い帯域にわたって異常ホール伝導度を詳細に調べました。

その結果、直流電流で観測されていた値と一致する大きな異常ホール伝導度がテラヘルツ周波数帯においても観測されました。直流の異常ホール伝導は無散逸に電子が流れることが特徴ですが、周波数が上がるといずれ損失が生じます。本研究では、1THz付近の周波数帯までほぼ無散逸に異常ホール電流が流れ、それより高周波で徐々に損失が目立ってくることが初めて定量的に評価されました(図3a)。さらに試料を冷却すると偏光回転が消失することも確認され、低温でスピン秩序が再配置されることによる異常ホール効果の消失も確かめられました(図3b)。

また本研究ではゼロ磁場下で異常ホール効果が計測されました。異常ホール効果自体は本来磁場なしで起こる現象ですが、実際には従来の異常ホール効果の測定では微弱な信号から電極の接触抵抗の影響などを排除するため、外部から磁場を正と負の方向にそれぞれ与えてスピン秩序を再配置し、その差分から異常ホール効果を検出します。しかし本研究ではテラヘルツ周波数帯の光によって非接触に計測を行うため、計測中に全く磁場を必要としません。その結果、いったん磁場を与えてから半年以上経過したMnSn薄膜においても異常ホール効果を測定することが可能になり、磁場を与えた直後と変わらない値を示すことを確かめました。これはMnSn薄膜におけるスピン秩序が安定で、スピン情報を長期間保持できることを示しています。

<社会的意義・今後の予定など>

本研究によって、反強磁性秩序のスピン情報をテラヘルツ周波数帯で非熱的に高速に読み取るための指針が築かれました。また1ピコ秒(1兆分の1秒)以下の非常に短い時間で異常ホール効果を観測することも可能になり、高速スピントロニクスの発展に向けた大きな進歩となります。今回は非接触な光学的手法でテラヘルツ周波数帯の応答を調べましたが、最近では基板上でテラヘルツ電流の発生から検出まで行ってホール伝導を観測する技術も報告されており、MnSnの微小領域のテラヘルツ異常ホール効果をオンチップで捉えることも可能になると考えられます。さらに高強度のテラヘルツ磁場を用いて反強磁性スピンの向きを非熱的に高速に反転させる可能性も注目されており、今後テラヘルツ非線形応答の研究にも関心が集まっています。

また反強磁性体MnSnが示す異常ホール効果は、その発現機構自体が学術的にも大変興味が持たれているテーマとなっています。これまでの研究で、MnSnがワイル粒子注6)と磁性を併せ持つ新しいトポロジカル物質であることが明らかになっており、ワイル粒子の性質を調べる上でも本研究で開発されたテラヘルツ光を用いた分光手法が非常に有効です。

本研究によって、物質の状態が高速に変化する非平衡状況下における異常ホール効果の時間変化を詳細に調べることが可能になりました。異常ホール効果の発現機構には、物質のトポロジーに由来する内因的機構と、不純物に由来する外因的機構があることが知られており、今後は非平衡状態における高速ダイナミクスを調べることでメカニズムが明らかになることが期待されます。

<参考図>

図1 反強磁性金属Mn3Sn薄膜におけるテラヘルツ周波数帯の異常ホール効果
図1 反強磁性金属MnSn薄膜におけるテラヘルツ周波数帯の異常ホール効果

MnSn薄膜にテラヘルツ光を入射し、それが持つ交流電場に対して異常ホール効果が生じると、反強磁性スピン秩序の向きに応じて、透過した光の偏光が回転する。青矢印は光の偏光方向を表す。

図2 Mn3Snの反強磁性スピン秩序とテラヘルツ時間領域分光で行った偏光回転計測
図2 MnSnの反強磁性スピン秩序とテラヘルツ時間領域分光で行った偏光回転計測

(a)MnSnの反強磁性スピン秩序。スピンの向きは全て打ち消し合っているが、複数のスピンが集まった1つのユニット「クラスター八極子」を単位として秩序を形成している。

(b)開発したテラヘルツ時間領域分光システムの偏光計測の精度。0.5~1.5THzの帯域において20分間の積算時間で0.05mrad以下の精度で偏光回転計測が可能となった。

(c)MnSn薄膜を透過したテラヘルツ光の偏光回転角スペクトル。クラスター八極子秩序の異なった向きに応じて、偏光回転が逆方向に生じている。

図3 テラヘルツ時間領域分光で計測された異常ホール伝導度

図3 テラヘルツ時間領域分光で計測された異常ホール伝導度

(a)異常ホール伝導度にも散逸性と無散逸性の2つがあり、1THz以下の周波数帯ではほぼ無散逸電流が支配的となっている。それより高周波側では散逸電流が徐々に目立ってくることが評価された。

(b)テラヘルツ異常ホール伝導度の温度変化。250K(ケルビン)付近を境にして急激に減少する。これはこの温度以下ではスピン再配置相転移が生じ、クラスター八極子秩序が失われるという過去の実験結果と整合している。

<用語解説>
注1)強磁性、反強磁性
物質はその磁気的性質に関していくつかに大別されます。それを決めるのは、物質内部に現れる、電子の自転運動に起因した「スピン」と呼ばれる自由度です。スピンは「磁石の最小単位」とも呼べる物理量で、巨視的な数のスピンが同じ方向にそろって秩序を形成した物質は全体として大きな磁化を持つことになります。外部から磁場を与えた間のみ磁化を持つものは常磁性体、磁場をかけなくても自発的に磁化を示すものは強磁性体と呼ばれます。それに対し、隣り合うスピン同士が互いに打ち消し合うように秩序を形成したものは反強磁性体と呼ばれています。反強磁性は磁化を持たないため、かつては実用的でないとされていました。現在ではその性質に大きな注目が集まっています。
注2)異常ホール効果
金属に電圧をかけるとオームの法則に従って電圧をかけた方向に電流が流れますが、電圧と垂直な方向に外部から磁場を与えると、ローレンツ力によって電子の運動方向が曲がり、電圧とも磁場とも垂直なもう一方向に電流が生じます。この現象をホール効果と呼びます。これは一般的にどんな金属でも磁場中で示す現象ですが、自発的に磁化を持っている強磁性体では、外部磁場を与えなくてもこれと同様の現象が生じ、これを異常ホール効果と呼びます。かつては大きな磁化を持つ強磁性体特有の現象と考えられていましたが、今回使用したMnSnは、電子構造のトポロジーに起因して運動量空間における仮想磁場を持つため、反強磁性であるにもかかわらず大きな異常ホール効果が生じることが大きな話題となっています。
注3)テラヘルツ周波数帯、テラヘルツ光
テラヘルツ光とは毎秒約10の9乗(=1兆)回振動する電磁波のことを指します。この周波数は、携帯電話などに用いられる電波よりも1000倍ほど高く、それでいて我々が目で見ることのできる可視光に比べると数百倍低いため、「光」と「電波」の中間に位置する特殊な電磁波と言えます。このような周波数帯の電磁波を自在に利用することはかつて難しかったのですが、レーザー技術と非線形光学が急速に発展し、さまざまな波長変換が可能になって、このテラヘルツ光を用いた分光技術が著しく進展しました。セキュリティー、高速情報通信、非破壊非接触の生体検査や宇宙観測などさまざまな観点から非常に興味が持たれています。
注4)クラスター八極子
磁石はN極とS極を持つことが知られていますが、このように2つの極を持つのはスピンも同様で、これは磁気双極子と呼ばれています。従来は磁石の最小単位としてスピンが注目されており、スピンが打ち消し合えば磁化はゼロとなって磁気情報処理に向かないと考えられていました。最近では、物質内部の格子上に配置された複数のスピンを1つのユニット「クラスター磁気多極子」と捉えて秩序を分析する考え方が注目されています。構成するスピンの数が1つ、2つ、3つと増えるにつれて、磁気双極子、四極子、八極子と呼ばれます。反強磁性金属MnSnは、室温において3種類のスピンによるユニットによってクラスター磁気八極子による秩序が形成されていることが大きな特徴です。スピン同士は互いに打ち消し合って磁化の総和はゼロとなっていても、クラスター八極子による秩序によってまるで強磁性体のような巨大異常応答が現れることが最近の研究で分かってきました。
注5)偏光
光は、電場が時間的に振動しながら伝搬しているものとして捉えることができます。可視光は電場が毎秒500兆回ほど振動しています。電場は大きさと向きを持つベクトル量であり、大気中をまっすぐ伝搬する単純な場合には、光の進行方向と直交する方向を向いて振動しています。この電場の向きが一方向にそろった光は直線偏光と呼ばれます。本研究では、直線偏光のテラヘルツ光を試料に入射し、透過したテラヘルツ光の偏光の回転角を調べる実験が行われました。
注6)ワイル粒子
1921年にヘルマン・ワイルが提唱したワイル方程式に従って記述される質量ゼロの粒子のことをワイル粒子と呼びます。最近では物質中の電子がワイル粒子として振る舞う物質(=ワイル半金属)が相次いで見いだされ、現代物質科学の一大研究分野となっています。ワイル粒子はワイル半金属中で異なるカイラリティ(右巻き・左巻きの自由度)を持つペアとなって発生します。物質の結晶構造の反転対称性の破れによって生じるワイル半金属のほか、スピン秩序の時間反転対称性の破れによって創出されるワイル半金属も存在し、MnSnは後者に属していてワイル磁性体とも呼ばれます。ワイル磁性体は、磁場などの外場によってワイル粒子の制御が可能であるなど、その機能性が非常に注目を集めています。
<論文タイトル>
“Room-Temperature Terahertz Anomalous Hall Effect in Weyl Antiferromagnet Mn3Sn Thin Films”
DOI:10.1038/s41467-020-14690-6
<お問い合わせ先>
<研究に関すること>

松永 隆佑(マツナガ リュウスケ)
東京大学 物性研究所 極限コヒーレント光科学研究センター 准教授

中辻 知 (ナカツジ サトル)
東京大学 大学院理学系研究科 物理学専攻/物性研究所 量子物質研究グループ 教授

<JST事業に関すること>

中村 幹(ナカムラ ツヨシ)
科学技術振興機構 戦略研究推進部 グリーンイノベーショングループ

<報道担当>

東京大学 物性研究所 広報室

東京大学 大学院理学系研究科・理学部 広報室

科学技術振興機構 広報課

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