分子の振動を一網打尽に観測できる光学技術を開発

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非線形光学効果の巧みな利用で複雑な分子の解析に新たな道筋

2019-09-27 東京大学

橋本 和樹(物理学専攻 博士課程3年生)
Venkata Ramaiah Badarla(附属フォトンサイエンス研究機構 特任研究員)
川合 暁(物理学専攻 修士課程2年生)
井手口 拓郎(附属フォトンサイエンス研究機構および光量子科学連携研究機構 准教授/科学技術振興機構 さきがけ研究者)

発表のポイント

  • これまで別々の装置で独立して計測することが常識であった赤外分光とラマン分光を、1つのレーザー光源を用いた簡便なシステムで同時計測する新たな分光法として「相補振動分光法」の開発に成功した。
  • 光で分子の振動を計測する技術として相補的な関係にある赤外吸収とラマン散乱のスペクトルを同時計測できることにより、試料の同じ箇所におけるさまざまな分子の振動情報を同時に取得することが可能となった。
  • 化学や生物学などの基礎研究、化学産業や製薬産業などの研究開発において、新たな分析手法として利用されることが期待される。

発表概要

赤外分光法とラマン分光法は、分子の振動分光スペクトルを利用して、分子の種類や状態を計測する化学分析法です。赤外吸収とラマン散乱から得られる分子振動の情報は互いに相補的であるため、分子の振動情報を余すことなく取得するためには、赤外吸収スペクトルとラマン散乱スペクトルの両方を計測する必要があります。しかしながら、赤外分光とラマン分光は計測に用いる光の波長領域が大きく異なるため、これまでは個別の計測システムを用いて、各々独立して計測する必要がありました。そのため、試料の同じ箇所の計測を同時に行うことは困難でした。

東京大学大学院理学系研究科の井手口拓郎准教授らのグループは、1つのレーザーを用いて赤外吸収スペクトルとラマン散乱スペクトルを同時に計測できる分光法「相補振動分光法(Complementary vibrational spectroscopy)」の開発に成功しました。相補振動分光法は、フーリエ変換分光法と呼ばれる分光手法に、超短パルスレーザーによる複数の非線形光学現象を導入する工夫により実現しました。

これまで、赤外吸収スペクトルとラマン散乱スペクトルは別々に計測するものであると認識されてきましたが、今回開発した相補振動分光法はこの前提を覆すものであり、今後、さまざまな分野で有効な化学分析手法として利用されることが期待されます。

本研究成果は、2019年9月27日(英国夏時間)に国際科学誌「Nature Communications」のオンライン版で公開されました。

発表内容

研究背景
私達は分子に満ちた世界で生活をしています。私達の体を構成する細胞は多彩な生体分子により構成されていますし、空気、食物や飲物、衣類に至るまで、身の回りに存在する物質のほとんどは分子により構成されています。したがって、分子を分析してそれらの種類や状態を理解することは、科学技術の進歩のために本質的な価値を持ちます。

分子は複数の原子が結合した構造をとっており、その構造と原子の種類によって分子ごとに固有のふるえ方(振動)をしています。この振動を光で計測する技術を振動分光と呼びます。さまざまな周期の振動を測定した信号の大小(スペクトル)は、分子の種類を同定したり、分子特有の状態を計測したりするために用いられます。このため、振動分光は分子指紋とも呼ばれています。

振動分光法には赤外分光法とラマン分光法の2つがあります。赤外分光法は分子に赤外線を照射して、分子が赤外線を吸収したスペクトルを測定します。一方、ラマン分光法は、分子に紫外・可視光を照射して、分子に当たり散乱した光(ラマン散乱光)を測定します。それぞれの方法は、物質の分子構造や結晶構造などを知るために有用ですが、赤外分光法は反対称、ラマン分光法は対称的と呼ばれる分子の振動を計測することが得意な特徴を持っており、双方から得られる分子の振動の情報は相補的な関係にあります。例えば、赤外分光法はC=OやO-H結合などを持つ分子、ラマン分光法ではS-SやC-C結合などを持つ分子が強く検出されます。したがって、さまざまな種類の分子を分析するためは赤外吸収法、ラマン散乱法の両方のスペクトルを計測する必要があります。

しかしながら、赤外分光法とラマン分光法では、用いる光の波長も大きく異なるため(赤外分光は数~数十μmの赤外光、ラマン分光は数百nmの可視光を用いる)、これまでは別々の光源を備えた計測器を用いて、それぞれ独立にスペクトルを計測することが常識でした。この常識を覆して、両方のスペクトルを同時に計測できるシステムを実現すれば、さまざまな研究分野で活用されると期待されます。

開発した手法の概要
東京大学大学院理学系研究科の橋本和樹大学院生、井手口拓郎准教授らのグループは、分子指紋領域(注1)と呼ばれるスペクトル領域に着目して、赤外分光法とラマン分光法を同時にかつ同じ箇所で利用できる新たな分光法「相補振動分光法(Complementary vibrational spectroscopy, CVS)」の開発に成功しました(図1、図2)。

図1:相補振動分光法の概念図。

図2:相補振動分光法のシステム概略図。超短パルスレーザーの光(黄色線)をサンプルに照射して非線形ラマン散乱を発生させ、生じたラマン散乱光(青線)をラマン用光検出器で検出する。一方、サンプル前に配置された非線形光学結晶で赤外光(紫線)を発生させ、サンプルを通過した赤外光を赤外用光検出器で検出する。マイケルソン干渉計のアームを掃引しながら各検出器の信号をサンプリングすることで、各フーリエ変換分光のデータ収録を同時に行う。

この相補振動分光法では、超短パルスレーザーを単一の光源装置として用い、フーリエ変換分光法(注2)と非線形光学効果(注3)を組み合わせることで実現しました。これまでの研究では、超短パルスレーザーを用いたフーリエ変換分光法によりラマン分光を実現できることが知られていましたが、本研究では、新たに非線形光学結晶(注4)を用いて赤外光を発生させる工夫を施すことにより、赤外分光も可能にすることができました。これにより、1つのレーザー光源による同時計測システムが実現しました。

この測定を検証する実験として、液体トルエンを試料として用い、その赤外吸収スペクトル(CVS-IR)とラマン散乱スペクトル(CVS-Raman)の同時取得を行いました。取得した赤外吸収スペクトルおよびラマン散乱スペクトルは、従来の赤外分光計およびラマン分光計で個別に計測したスペクトルと同じ形状であったことから、相補振動分光法を用いた測定に成功したことを確認できました(図3)。

図3: 相補振動分光法で計測したトルエンの赤外吸収スペクトル(CVS-IR、赤線)とラマン散乱スペクトル(CVS-Raman、青線)。黒線は従来型分光器で計測して得た参照スペクトル。

今回の実験では、従来型のマイケルソン干渉計(注5)を用いたフーリエ変換分光法を用いて相補振動分光を検証したため、限られたスペクトルの取得レート(干渉計の掃引レートの1 Hz程度に制限)で実施しました。しかしながら、今回の相補振動分光法に対して、デュアルコム分光法(注6)や位相制御フーリエ変換分光法(注7)などの最新のフーリエ変換分光技術を組み合わせれば、10 kHz以上の高いスペクトル取得レートで測定することができます。

社会的意義
赤外分光計やラマン分光計は、化学、薬学、農学、医学などの分子を対象にする基礎科学、化学産業や製薬産業などで頻繁に用いられています。今回開発した手法は、これらの分野における新しい分析ツールを提供するばかりではなく、他の分野においても新しい化学分析手法として受け入れられることが期待されます。例えば、赤外吸収とラマン散乱のそれぞれが敏感に応答する分子の官能基と骨格構造のように、両方の分子振動の変化を同時に追跡することが有意義な場面で極めて有効であると考えられます。また、赤外吸収とラマン散乱スペクトルが互いに相補的な関係にあることを利用した分子の対称性と非対称性に関する基礎研究にも貢献すると期待されます。さらには、生体分子の相補的な振動情報を活用し、顕微鏡技術と組み合わせることにより、生体分子を特異的に可視化(イメージング)する技術に適用することが期待されます。

なお、本研究は、科学研究費若手研究(A)(研究代表者:井手口拓郎)、科学研究費挑戦的研究(萌芽)(研究代表者:井手口拓郎)、科学技術振興機構(JST) 戦略的創造研究推進事業 さきがけ「量子技術を適用した生命科学基盤の創出」研究領域 課題名「超高感度ラベルフリーイメージング法の開発」平成29年度採択(研究者:井手口拓郎)からの支援を受けて行われました。

発表雑誌

雑誌名
Nature Communications論文タイトル
Complementary vibrational spectroscopy著者
Kazuki Hashimoto, Venkata Ramaiah Badarla, Akira Kawai and Takuro Ideguchi*

DOI番号
10.1038/s41467-019-12442-9

用語解説
注1 分子指紋領域

さまざまな種類の分子の振動が観測される800-1800 cm-1の情報量が豊富なスペクトル領域。

注2 フーリエ変換分光法

光の干渉を利用した分光法。はじめに、入力光を2つに分割・再結合して出力するマイケルソン干渉計に広いスペクトルを持つ光(一般には白色光)を入力し、出力光を光検出器に導入する。次に、干渉計で分割された光の相互遅延量を変えながら光の強度を計測することで、白色光の自己相関干渉波形を得る。最後に、得られた波形をフーリエ変換することで入力光のスペクトルを得る手法。

注3 非線形光学効果

光が物質に入射することで物質内に誘起される分極が入射光の電場に対して非線形に応答する現象。本研究においては、2次の非線形光学効果による近赤外から赤外への波長変換と3次の非線形光学効果によるコヒーレントラマン散乱の原理が用いられている。

注4 非線形光学結晶

強い非線形光学効果を起こすために利用される結晶。本研究で用いた2次の非線形光学効果を起こす結晶は、中心対称性のない結晶構造を持つ。

注5 マイケルソン干渉計

半透過鏡に入射し、空間的に2つに分けられた光をそれぞれ鏡で跳ね返し、同じ半透過鏡でそれらの光を再度重ね合わせ、光検出器でその干渉強度を計測する干渉計。フーリエ変換分光法の基幹部であるのみならず、重力波検出器(2017年ノーベル物理学賞の対象)などにも利用されている。

注6 デュアルコム分光法

光周波数コム(2005年ノーベル物理学賞の対象技術)と呼ばれる極限制御された広帯域レーザーを2台用いることで実現するフーリエ変換分光。繰り返し周波数のわずかに異なるパルスレーザー2台から出射されるビームを空間的に重ね合わせて光検出器で干渉光の強度を計測する。パルス間の相互遅延量が自動的に増加(または減少)するため、高速なフーリエ変換分光が可能である。

注7 位相制御フーリエ変換分光法

従来のマイケルソン干渉計に波形制御技術(広帯域光を空間的にスペクトル分解し、空間分解された光スペクトルの位相を変化させることで、光の波形を任意に変化させる技術)を用いて干渉計で分割された光の相互遅延量を増減することで高速なフーリエ変換分光を行う手法。(関連記事:https://www.s.u-tokyo.ac.jp/ja/info/6100/

―東京大学大学院理学系研究科・理学部 広報室―

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