スピン状態の判別に有効な計測手法を確立
2018-05-14 東京大学 理化学研究所 奈良先端科学技術大学院大学
発表のポイント
- 軟X線(注1)の共鳴非弾性散乱(注2)を用いて、ペロブスカイト型ランタン・コバルト酸化物(LaCoO3)におけるコバルトの電子状態・スピン状態(注3)を直接観測することに成功しました。
- 実験と理論計算を組み合わせることで、バルク結晶と薄膜結晶で異なるスピン状態が現れることを直接観測、判別しました。
- 超高分解能共鳴軟X線非弾性散乱実験と理論計算を組み合わせる手法が、スピン状態の判別に有効であることを実証し、他の強相関電子系物質のスピン状態解明や、LaCoO3で提案されている励起子絶縁体などの新たな電子状態の観測への発展が期待されます。
発表概要
東京大学物性研究所の横山優一(よこやまゆういち)大学院生、和達大樹(わだちひろき)准教授、物質・材料研究機構の山﨑裕一(やまさきゆういち)らの研究グループは、大型放射光施設SPring-8(注4)の東大物性研ビームラインであるBL07LSUにおいて、東京大学と理化学研究所の研究グループの作製したペロブスカイト型ランタン・コバルト酸化物(LaCoO3)を用いて、共鳴軟X線非弾性散乱を測定しました。LaCoO3薄膜では、基板からの歪み効果によってバルク結晶(注5)とは異なるスピン状態の実現が示唆されていました。バルク結晶と薄膜結晶に対して非弾性散乱スペクトル(注6)を測定することで、コバルトイオンのスピン状態に応じてスペクトル形状が変化することを観測しました。奈良先端科学技術大学の研究グループによる理論計算によって得られたスペクトルと比較することで、バルク結晶と薄膜結晶では異なるスピン状態であることが明らかになりました。X線吸収測定(注7)ではバルク結晶と薄膜結晶でスピン状態の差は観測されませんでしたが、共鳴軟X線非弾性散乱を用いることで明確な差を観測することができました。本研究によってバルク結晶のスピン状態を解明するとともに、エピタキシャル成長(注8)した薄膜結晶ではバルク結晶とは異なるスピン状態が実現することを明らかにしました。
この研究成果は、米国科学誌Physical Review Letters(5月16日オンライン予定)に掲載されます。
発表概要
背景
遷移金属酸化物では電子同士の強い相互作用によって電子・スピン・電子軌道の形が多彩な秩序状態を作ることが知られています。中でも、ペロブスカイト型ランタン・コバルト酸化物(LaCoO3)では、電子間の相互作用と電子と格子の相互作用が競合することで、コバルトイオンはさまざまな電子状態をとり得ます。コバルトイオンの電子状態はスピンの大きさが異なる状態となり、低スピン状態、中間スピン状態、高スピン状態という3つのスピン状態が現れます(図1(a))。磁気特性の測定から、高い温度領域では高スピン状態、極低温(-220度以下)では低スピン状態になると考えられています。その中間の温度領域では、中間スピン状態になっている可能性や高スピン状態と低スピン状態が混在している可能性が報告されていましたが、スピン状態を直接的に観測する計測手法が無かったため、長年の間、未解明のまま謎に包まれていました。近年になって、基板上にエピタキシャル成長させた薄膜試料が作製され、基板からの歪みの効果によってバルク結晶とは異なるスピン状態が実現している可能性が示唆されました。歪みの効果によるスピン状態変化を明らかにすることができれば、バルク結晶まで含めたスピン状態の全体像解明に繋がると期待されます。また、新しい電子状態として複数のスピン状態が混成した励起子絶縁体状態が磁場中で実現している可能性も提唱され、ランタン・コバルト酸化物のスピン状態が再び注目を集めています。
図1 (a):コバルトイオンのスピン状態の概略図。eg軌道の電子の数によって低スピン状態(0個)、中間スピン状態(1個)、高スピン状態(2個)に区別される。
(b):コバルトL端における吸収スペクトル。歪みの異なる2種類の薄膜のスペクトル形状に明確な違いは見られない。Aの矢印は共鳴軟X線非弾性散乱に用いた入射X線のエネルギーを示している。
研究内容と成果
共鳴軟X線非弾性散乱の測定は東大物性研ビームラインSPring-8 BL07LSUに設置されている超高分解能共鳴軟X線非弾性散乱装置(HORNET)で行いました。コバルトイオンの吸収が起こる780 eV (エレクトロンボルト)のエネルギーをもつ軟X線をランタン・コバルト酸化物に照射し、散乱された軟X線のエネルギーの非弾性散乱スペクトルを測定しました。試料に吸収されたエネルギーの一部は電子配置を変化させることに使われ、スピンの大きさも変化するため、非弾性散乱スペクトルからコバルトイオンのスピン状態を調べることができます。スピン状態と非弾性散乱スペクトルの対応関係を明らかにするため、不純物アンダーソンモデルと呼ばれる理論計算を行い、その理論計算と実験結果と比較することでコバルトイオンのスピン状態を推定しました。スピン状態を見分けるためには高いエネルギー分解能(注9)が必要となりますが、国内最高のエネルギー分解能(~300 meV)での実験が可能な本装置によってスピン状態を解明することに成功しました。
測定に用いた試料は、LaCoO3のバルク単結晶とLSAT基板(注10)上に成長させた薄膜結晶です。薄膜結晶の膜厚は30 nmで、基板の方位を変えることで異なる歪みの大きさを実現しています。実験では、それぞれの試料に対してコバルトイオンの吸収スペクトルと共鳴非弾性散乱スペクトルを測定しました(図1(b))。これまでの研究からバルク結晶と薄膜結晶は異なるスピン状態であると考えられていますが、吸収スペクトル形状に明確な違いは見られませんでした。今回得られた非弾性散乱スペクトル(図2)では、エネルギー損失が1 eV付近のスペクトル形状に大きな違いがあることが分かりました。理論計算で求めたスペクトル形状と比較することでスピン状態の構成成分と割合が違うことが分かりました。吸収測定では判別できなかったスピン状態を非弾性散乱測定によって明らかにすることができました。
図2 :コバルトL端の共鳴軟X線非弾性散乱スペクトル。入射X線のエネルギーは、図1(b)においてAの矢印で示したエネルギーで測定している。歪みが異なる薄膜とバルクのスペクトルを比較すると、形状に明らかな違いが見られる。一番下に示した理論計算と比較することによって、0.3 eV付近のピークは高スピン状態、1.0 eV付近のピークは歪んだ高スピン状態、1.3 eV付近のピークは低スピン状態に対応すると考えられる。
本研究の意義、今後の展望
本研究により、SPring-8 BL07LSUの超高分解能の共鳴軟X線非弾性散乱装置を用いて、判別することが困難であったコバルトイオンのスピン状態を明確に分離して観測することに成功しました。さらに、薄膜結晶では基板からの歪みによってスピン状態が変化することを詳細に観測することができました。本測定手法を用いることで、電子状態の違いを高精度に検出できるため、他の強相関電子系物質の電子状態・スピン状態の解明への応用が期待されます。さらに、LaCoO3で近年新たに提唱された励起子絶縁体の電子状態を明らかにする研究への発展も見込まれます。
発表雑誌:
- 雑誌名:Physical Review Letters(5月16日付オンライン掲載予定)
- 論文タイトル:Tensile-strain-dependent spin states in epitaxial LaCoO3 thin films
- 著者:Y. Yokoyama, Y. Yamasaki, M. Taguchi, Y. Hirata, K. Takubo, J. Miyawaki, Y. Harada, D. Asakura, J. Fujioka, M. Nakamura, H. Daimon, M. Kawasaki, Y. Tokura, and H. Wadati
用語解説:
- 注1:軟X線
- X線のうちでも比較的波長の長いもの。硬X線は原子間距離である0.1 nm(1 nmは10億分の1メートル)程度より波長が短い領域であるが、軟X線は1 nm程度と、波長がその10倍程度長い。
- 注2:共鳴非弾性散乱
- X線が原子に吸収されると原子内の電子が高いエネルギー状態になるが、原子はすぐにX線を放出して元の状態へと戻ってしまう。ほとんどの場合、入射したX線と同じ波長のX線を放射するが、ごくたまに異なる波長のX線を放射することがある。放射するX線の波長が入射したものと同じ散乱過程を共鳴弾性散乱と呼び、異なる時を共鳴非弾性散乱と呼ぶ。共鳴非弾性散乱では、入射したX線エネルギーの一部が電子配置を変化することに使われるため、エネルギーの変化量を計測することで電子状態を推定することができる。
- 注3:電子状態・スピン状態
- 電子がどのように電子軌道に配置されているかを表したものが電子状態である。3価のコバルトイオンでは5つの3d電子軌道に6個の電子がどのように配置するかを表している。電子配置によってスピンの大きさが異なる場合、スピンの大きさによって分けられた電子状態をスピン状態と呼ぶ。3価のコバルトイオンでは、高スピン状態・中間スピン状態・低スピン状態といった3つのスピン状態が存在する。
- 注4:大型放射光施設SPring-8
- SPring-8の施設名はSuper Photon ring-8 GeV(ギガ電子ボルト)に由来する。兵庫県の播磨科学公園都市にある世界最高性能の放射光を生み出す理化学研究所の施設であり、その運転と利用者支援などは高輝度光科学研究センター(JASRI)が行っている。
- 注5:バルク結晶
- 表面の効果などが無視できるような大きな結晶を指す。対して薄膜試料は基板からの歪みや表面の効果を受けやすい。
- 注6:非弾性散乱スペクトル
- 散乱によるエネルギー損失に対してその軟X線の計数を表したもの。エネルギーの損失は電位状態の変化(電子遷移)のエネルギーに対応しているため、元の電子状態の存在比率を推定することができる。弾性散乱の影響があるため、低エネルギー損失領域の非弾性散乱スペクトルの測定には、高いエネルギー分解能が求められる。
- 注7:X線吸収測定
- X線を物質に照射すると電子がエネルギーを吸収して高いエネルギー状態になる。その状態からエネルギーを失う過程において放出される電子やX線を計測する手法のことをいう。入射エネルギーを変えながら測定を行って得られたスペクトルは、各エネルギーにおける非占有の電子状態密度に対応しているため、物質の電子状態を調べるための一般的な手法の一つとなっている。
- 注8:エピタキシャル成長
- 基板の結晶面に揃えて薄膜結晶を成長させる方法。基板と薄膜結晶の格子定数はほぼ等しい必要があるが、少し異なる格子定数の場合には、薄膜結晶の格子定数が基板の格子定数に近づくように伸び縮みすることがある。それによって薄膜結晶に歪みが生じる。
- 注9:エネルギー分解能
- 非弾性散乱スペクトルを計測するために散乱された軟X線のエネルギーを分光器で分離して測定するが、エネルギーを分離する精度をエネルギー分解能と呼ぶ。電子状態のスペクトル形状を区別するためには、できるだけ高い分解能でエネルギーの損失を計測することが求められる。
- 注10:LSAT基板
- (LaAlO3)0.3-(SrAl0.5Ta0.5O3)0.7基板の略である。この物質の格子定数0.3868 nmであり、ランタン・コバルト酸化物の格子定数0.3804 nmよりも少し大きい。そのため、LSAT基板上に結晶を成長させた薄膜試料の面内格子定数は引っ張り歪みによりバルク結晶よりも大きくなり、一方で面直方向には少し縮む。本研究では(110)面と(111)面を使い分けることで、異なる大きさの歪みを試料に与えた。