脳シミュレーションの大幅な省メモリ化と高速化を実現
2018-03-26 理化学研究所
要旨
理化学研究所(理研)計算科学研究機構プログラミング環境研究チームの佐藤三久チームリーダー、來山至テクニカルスタッフⅠ、情報基盤センター計算工学応用開発ユニットの五十嵐潤上級センター研究員らの国際共同研究グループは、次世代スーパーコンピュータ(スパコン)でヒトの脳全体の神経回路のシミュレーション[1]を可能とするアルゴリズム[2]の開発に成功しました。
脳を構成する主役は神経細胞です。神経細胞は電気信号を発して情報をやりとりする特殊な細胞です。その数はヒトの大脳で約160億個、小脳で約690億個、脳全体では約860億個にのぼります。神経細胞同士はシナプス[3]でつながり合い、複雑なネットワーク(神経回路)を形成しています。しかし、現在の最高性能のスパコンをもってしても、ヒトの脳全体の規模で、神経細胞の電気信号のやりとりをシミュレーションすることは不可能です。
今回、国際共同研究グループは、次世代スパコンで脳のネットワークのシミュレーションを達成するアルゴリズムを開発しました。新たなアルゴリズムによってメモリの省力化を実現するだけでなく、スーパーコンピュータ「京」[4]などの既存のスパコン上の脳シミュレーションも大幅に高速化できました。
図1 従来と新アルゴリズムによるシミュレーション可能な脳の規模とスパコンの規模
左)ペタスケールの従来のスパコン(下)を用いた場合は、ヒトの脳の神経細胞の約1%に相当する規模(大脳皮質の濃い赤の部分)のシミュレーションが行うことができる。
中)もし、従来のアルゴリズムをポストペタスケールの次世代スパコン上で実行すると、従来のスパコンの性能の10倍から100倍程度の進歩、すなわち脳の神経細胞の10%以下(大脳皮質の濃い赤い領域)にとどまる。
右)新アルゴリズムを次世代スパコンで実行した場合、従来に比べて格段に大きなヒト脳の領域をシミュレーションすることができると推定される(大脳皮質全体)。脳の約18%の神経細胞が大脳皮質の全体に相当し、高次機能認知に不可欠な領域である。 他の神経細胞の大部分は小脳に存在する。
本成果は、2020年以降に登場するポスト「京」[5]などの次世代スパコン上で、ヒトの脳全体のシミュレーションを実現し、脳の情報処理や脳疾患の機構の解明に貢献すると期待できます。また、新アルゴリズムはオープンソースとして一般公開されている神経回路シミュレータ「NEST[6]」の次期公開版に搭載される予定です。
本研究は、スイスのオンライン科学雑誌『Frontiers in Neuroinfomatics』(2月16日付、日本時間:2月17日)に掲載されました。
また、本研究はポスト「京」研究開発枠・萌芽的課題(4)「大脳皮質神経回路のデータ駆動モデル構築(課題番号:hp160258)」と京調整高度化枠「ブレインシミュレータNEST5gの性能評価(課題番号ra001012)」として「京」の計算資源を用いて実施されました。
※国際共同研究グループ
理化学研究所
計算科学研究機構 プログラミング環境研究チーム
チームリーダー 佐藤 三久(さとう みつひさ)
テクニカルスタッフⅠ 來山 至 (きたやま いたる)
情報基盤センター 計算工学応用開発ユニット
上級センター研究員 五十嵐 潤(いがらし じゅん)
ドイツ ユーリッヒ研究センター
研究員 ヤコブ・ジョーダン (Jakob Jordan)
修士課程 タモ・イッペン (Tammo Ippen)
研究員 モーリッツ・ヘリアス (Moritz Helias)
教授 マーカス・ディーズマン(Markus Diesmann)
スウェーデン王立工科大学
研究員 スザンヌ・クンケル (Susanne Kunkel)
背景
脳を構成する主役は神経細胞です。神経細胞は電気信号を発して情報をやりとりする特殊な細胞です。その数はヒトの大脳で約160億個、小脳で690億個、脳全体では約860個にのぼります。神経細胞同士はシナプスでつながり合い、複雑なネットワーク(神経回路)を形成しています。こうした膨大な数の神経細胞の電気信号のやりとりを調べるため、近年、スーパーコンピュータ(スパコン)を使った脳のシミュレーションが盛んに行われています。
2013年、ペタフロップス[7]級のスパコンである理研のスーパーコンピュータ「京」とドイツのユーリッヒ研究センター[8]の「JUQUEEN(ユークイーン)」上で、神経回路シミュレータ「NEST」を用いて、人間の脳の約1%の規模に相当する神経細胞とシナプスのシミュレーションが行われました注1)。NESTは20年前にユーリッヒ研究センターのマーカス・ディーズマン博士らが開発を始めて以来、継続的に改良され、神経科学コミュニティやヨーロッパのヒューマン・ブレイン・プロジェクト(HBP)[9]、ポスト「京」萌芽的課題4などのシミュレーションで広く使用されています。
次世代スパコンは、従来のスパコンに比べて10倍から100倍の性能を目指しており、ユーリッヒ研究センターでは「JUWELS(ジュエルス)」、理研ではポスト「京」の開発が進められています。これらの計算能力によって、ヒトの脳全体の神経回路のシミュレーションが初めて可能になると考えられます。スパコンは、計算ノード[10]と呼ばれる約10万台の小型コンピュータで構成されており、多数のCPU(中央演算処理装置)を搭載しています。
脳のシミュレーションを行うには、あらかじめ神経細胞とシナプスを仮想的にメモリ上に作製します。シミュレーション中は全神経細胞の電気信号が各計算ノードに送られ、どの電気信号をどの神経細胞に送り届けるべきか判定します。この方法は、従来のペタスケール[11]のスパコンでシミュレーション可能な脳の範囲では効率的でした。しかし、次世代スパコンでは、シミュレーション可能な脳の範囲が非常に大きくなるため、各計算ノードが全ての神経細胞の電気信号を受け取ると、必要のない電気信号の割合が多く非効率です。その結果、脳全体の神経回路にわたるシミュレーションは困難になります。
また、従来の方法を次世代スパコンで用いるとメモリの消費量にも問題が起きることが分かっています。電気信号を神経細胞に送る判定のために、各計算ノードは全神経細胞に対して1ビットずつの情報を持っています。1計算ノードあたり10ギガバイト(100億バイト)程度のメモリを持つ場合、神経細胞10億個をシミュレーションすると、約10分の1がその情報で消費されます。これがヒトの脳全体の860億個程度の場合、従来のスパコンの86倍のメモリが必要になります。これは、次世代スパコンをもってしても困難です。
注1)2013年8月2日トピックス「「京(けい)」を使い10兆個の結合の神経回路のシミュレーションに成功」
研究手法と成果
国際共同研究グループは、スパコンで脳内の神経回路を構築する新しい手法(アルゴリズム)の開発に成功しました(図1)。新アルゴリズムでは、シミュレーションの開始時にあらかじめ計算ノード間で、電気信号を送る必要があるかないかの情報を交換しておくことで、それぞれの計算ノードが必要とする電気信号のみを送受信できるようにしました。その結果、無駄な送受信がなくなりました。同時に、電気信号を神経細胞に送るか送らないかを判定するメモリも必要なくなりました。これらの工夫により、神経回路の規模が大きくなっても、1計算ノードあたりのメモリ量は増えず、省メモリ化を実現しました。
新アルゴリズムの導入によって、次世代スパコンを用いて脳全体のシミュレーションが可能になります。また、従来のスパコンでを用いた脳シミュレーションも高速化できます。2014年にユーリッヒ研究センターのスパコンJUQUEENで行われた5億2000万個の神経細胞が5兆8000億個のシナプスで結合された神経回路のシミュレーションは、1秒間分の神経回路のシミュレーションに28.5分を要しました注2)。同じシミュレーションを新アルゴリズムで実行したところ、5.2分(18%)に短縮されることが分かりました。
注2) Kunkel et al., “Spiking network simulation code for petascale computers” Front Neuroinform. 2014; 8: 78.
今後の期待
開発した新アルゴリズムにより、最新のマイクロプロセッサの高い並列演算性能をより活用できます。次世代スパコンではさらに並列演算性能の上昇が見込まれるため、本成果はますます重要になるといえます。今後、次世代のハードウェアと適切なソフトウェアを組み合わせることで、数分間の時間スケールで起こるシナプス可塑性[12]や学習のような脳機能に関する研究が可能になると考えられます。新アルゴリズムは、オープンソースとして一般公開されているNESTの次期公開版に搭載される予定です。
これまで、「京」を用いたパーキンソン病の脳の病態シミュレーションには、NESTが使用されてきました。本成果によりポスト「京」などの次世代スパコンによるヒトの脳全体の神経回路のシミュレーションが可能となり、運動制御や思考の情報処理機構の解明に貢献すると期待できます。
本成果は、次世代のスパコンの実現に向けた国際協力の優れた成功例です。その点からも、ポスト「京」が利用できるようになった瞬間から活用できるアプリケーションを事前に準備することは非常に重要です。
原論文情報
Jakob Jordan, Tammo Ippen, Moritz Helias, Itaru Kitayama, Mitsuhisa Sato, Jun Igarashi, Markus Diesmann and Susanne Kunkel, “Extremely Scalable Spiking NeuronalNetwork Simulation Code: From Laptops to Exascale”, Frontiers in Neuroinfomatics, 10.3389/fninf.2018.00002
発表者
理化学研究所
計算科学研究センター 研究部門 プログラミング環境研究チーム
チームリーダー 佐藤 三久(さとう みつひさ)
テクニカルスタッフⅠ 來山 至(きたやま いたる)
情報基盤センター 計算工学応用開発ユニット
上級センター研究員 五十嵐 潤(いがらし じゅん)
報道担当
理化学研究所 広報室 報道担当
産業利用に関するお問い合わせ
理化学研究所 産業連携本部 連携推進部
補足説明
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- シミュレーション
- システムの振る舞いをモデルで表現し、模擬実験すること。ここでは、スーパーコンピュータ上で数学的なモデルを計算し、その振る舞いを模擬することを指す。
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- アルゴリズム
- 機械(コンピュータ)において、特定の目的を達成させるために必要な情報処理の方法や手順のこと。
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- シナプス
- 神経細胞同士の情報伝達に関わる構造。情報を伝える細胞と伝えられる細胞の間には約20ナノメートル(2億分の1m)のすき間がある。情報を伝える細胞はこのすき間に神経伝達物質を放出し、伝えられる細胞側の神経伝達物質受容体がそれを受けとることにより神経情報が伝わる。
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- スーパーコンピュータ「京」
- 文部科学省が推進する「革新的ハイパフォーマンス・コンピューティング・インフラ (HPCI) の構築」プログラムの中核システムとして、理研と富士通が共同で開発を行い、2012年9月に共用を開始した計算速度10ペタフロップス級のスーパーコンピュータ。
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- ポスト「京」
- 「京」の後継機として、2021年から2022年の運用開始を目標に、理化学研究所が主体となって開発を進めている次世代フラッグシップスーパーコンピュータ。
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- NEST
- オープンソースの神経回路シミュレーションを行えるソフトウェア。一般のノートパソコンからスーパーコンピュータまで利用できる。NEST Simulatorのホームページで公開。
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- フロップス
- コンピュータの性能指標の一つで、1秒間に実行される浮動小数点演算の回数。
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- ユーリッヒ研究センター
- 1956年に設立されたドイツのユーリッヒにあるヨーロッパ有数の学際的な研究所で、エネルギー、環境、情報技術、生命科学などの分野で研究活動を行っている。スパコンに関連した分野での研究も盛んで、ヨーロッパ最高速クラスのスパコンJUQUEEN(ユークイーン)を保有している。
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- ヒューマン・ブレイン・プロジェクト(HBP)
- 欧州委員会により選定された未来および発展期にある技術(FET)プログラムの2大プロジェクトの一つで、2013年から欧州および各国の80を超える研究機関が共同で進めている。プロジェクトの目的は、人間の脳に関するこれまでの研究成果を結集し、スーパーコンピュータを用いて、脳の詳細なモデルやシミュレーションを一つ一つ再構築することである。このように組み立てられた脳のモデルは今後、人間の脳の働きや疾患の解明の手掛かりとなりうると同時に、計算科学やロボット工学の革新的な技術発展に寄与する可能性がある。
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- 計算ノード
- スーパーコンピュータを構成する小さなコンピュータ。各計算ノードは、CPU、メモリ、ディスクなどを搭載し、計算ノード間は高速な通信を行う。
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- ペタスケール
- ペタは1015倍(1,000兆倍)であることを示す。ペタスケールは1秒間に1015回以上の浮動小数点演算という演算を行える性能を持つことを示す。
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- シナプス可塑性
- 神経細胞間の接点(シナプス)での情報伝達効率が長期的に変化する能力のこと。