逆転の発想『ラビ振動分光』でミュオニウム原子を精密に測定

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2021-08-10 東京大学

鳥居 寛之(化学専攻 准教授)
西村 昇一郎(高エネルギー加速器研究機構 物質構造科学研究所 博士研究員)
下村 浩一郎(高エネルギー加速器研究機構 物質構造科学研究所 教授)

発表のポイント

  • たった1つの周波数に対する時間応答から共鳴周波数(注1)を求められる新しい原子分光法「ラビ振動分光」を編み出し、ミュオニウム原子(注2)の超微細構造(注3)を精密に決定することに成功した。
  • 共鳴信号を周波数軸に変換せず、時間軸のまま、理論的なラビ振動(注4)のシミュレーションと比較し、逆問題として共鳴周波数を求める逆転の発想を実現した。
  • ミュオニウム原子のマイクロ波分光(注5)は、今後高強度ビームラインで強磁場を使った実験へと発展し、ラビ振動分光法は素粒子物理学を検証するための世界最高精度の鍵を握る。

発表概要

原子分光は構成粒子の性質を精密に調べる有力な手段です。レーザーなど電磁波の周波数を少しずつ変え(掃引)ながら共鳴のピークを探し、共鳴曲線を描いて中心となる周波数を求めるのが普通ですが、途中で電磁波のパワーなどの条件が変動すれば、たちまち精度が悪くなってしまいます。東京大学大学院理学系研究科の鳥居寛之准教授、高エネルギー加速器研究機構(KEK)の西村昇一郎博士研究員および下村浩一郎教授らの研究グループは、周波数掃引が不要の画期的な原子分光法を編み出しました。固定した周波数に対する時間応答が、共鳴の中心周波数からのずれ(離調)に依存して特徴的な振動を示すことを利用して、共鳴中心を逆算して求める手法で、これをラビ振動分光と名付けました。従来の分光法より精度が高く、特に短寿命の不安定な素粒子や原子核を含む原子に効果的だと期待されます。今回の実験ではこの分光法を、水素に似たミュオニウム原子に適用して、その超微細構造をマイクロ波で精密に測定することに成功しました。これにより、素粒子ミュオン(ミュー粒子)(注2)の質量を高精度で決定して、量子電磁力学(QED)(注6)をはじめとする素粒子物理学の標準模型(注7)を検証することができます。

発表内容

私たちの身の回りのものはどれもみな原子からできています。その原子の構造を調べる強力な手段として分光学が発展した結果、ミクロの世界を司る量子力学が確立し、更にはそれを相対論的に拡張した量子電磁力学(QED)へと進展しました。原子においては準位と呼ばれる飛び飛びの状態だけが許され、準位間の跳び移り(遷移)によって発光あるいは吸収される電磁波は、準位のエネルギー差に対応して周波数がはっきりと決まっています。共鳴周波数と呼ばれるこの周波数を精度良く決定することにより、QEDをはじめとするミクロの世界の物理法則を精密に検証することができます。

標準的な分光では、レーザーやマイクロ波などの電磁波によって原子や分子を遷移させ、その信号が最大になるところを共鳴中心とみなします。実際には、電磁波の周波数を変化させて、それぞれの信号強度をグラフに描いて得られる左右対称の共鳴曲線(注1)を基に、曲線が山のピークとなる共鳴周波数を割り出します(図1左)。ただ、精密な測定のためには、電磁波のパワーが一定不変であるなど実験条件のコントロールが必須でした。また、精確な共鳴曲線を描くためには、山の麓に相当する信号強度が弱い周波数でのデータも欠かせず、必ずしも効率的ではありません。

逆転の発想『ラビ振動分光』でミュオニウム原子を精密に測定

図1:左図:理論的シミュレーションで得られた共鳴曲線。一般に信号強度は共鳴周波数を中心とする左右対称の山型の曲線を示す。共鳴の幅(典型的には図中に半値半幅と記した、山の横幅)が狭いほど、共鳴周波数を求める精度が良くなる。理想的に近い共鳴曲線の場合には、共鳴の幅の100分の1以下の精度で共鳴周波数を求めることができる反面、データのばらつきが大きかったり、左右が非対称になったりした場合はたちまち精度が悪くなる。ラビ振動分光では、この共鳴曲線の描画が不要で、電磁波の周波数をある1点に固定してデータを蓄積すればよい。例えば、山の頂上に程近い、図中の青色矢印の周波数で固定して測定すれば、複数の周波数を掃引してデータ取得する標準的な分光に比べて、同じデータ量でも2倍の精度を達成できることがわかった。
右図:ラビ振動分光を理論的に計算したシミュレーション。周波数の離調(共鳴周波数からのずれ)がゼロあるいは小さいときにはラビ振動はゆっくり大きく振動し、離調が大きくなるほど、小さな振幅で、速く小刻みに振動する様子が見られる。

研究グループでは、遷移の信号強度が時間とともに振動することに注目しました。原子と電磁波との相互作用によるラビ振動として知られる現象です。電磁波の周波数が共鳴周波数に一致するか近ければ、信号は大きくゆっくりと振動しますが、2つの周波数のずれ(離調)が大きければ、小さく速く小刻みに振動を繰り返します(図1右)。電磁波のパワーにも依存しますが、パワーが強ければ信号は大きく速く、弱ければ小さくゆっくりになり、離調が変化した場合と組み合わせが異なります。この特徴を利用すれば、信号強度と振動の速さの組み合わせから、離調とパワーとを両方同時に求めることができます。ということは、パワーによらずに離調が分かるため、既知である電磁波の周波数との差し引きで共鳴周波数が決定できます。電磁波の周波数をさまざまに変化させながら信号強度の変化を観測する必要があった標準的な分光法とは違い、たった1つの周波数に固定する代わりに、応答信号の時間情報を利用することがポイントです。周波数領域で探査せず、時間領域の情報を生かした分光法だと言えます。共鳴中心近傍の周波数に固定することで、標準的な分光法に比べて精度を2倍に向上できることもわかりました。本研究では、理論的シミュレーションでその原理の有効性を確かめたあと、大強度陽子加速器施設(J-PARC)物質・生命科学実験施設(MLF)(注8)において実際の原子で実験して(図2)新しい分光法として確立し(図3)、これをラビ振動分光と名付けました。

図2:ミュオニウム原子超微細構造にマイクロ波を引加したときの時間応答について、実験データを青色で、それをラビ振動分光の理論的なシミュレーションにフィッティング(合致するようにパラメータ調整すること)した曲線を赤色で示した。パラメータには共鳴周波数とマイクロ波パワーが含まれ、フィッティングの結果として共鳴周波数が得られる。(a)〜(f) のそれぞれの図は、異なるマイクロ波の周波数に対する時間応答を示している。

図3:ミュオニウム原子超微細構造のマイクロ波によるラビ振動分光の実験結果。ラビ振動分光においてはマイクロ波の周波数は1点に固定して測定すればいいのだが、ここでは原理の正しさを示すため、複数の周波数に対して測定し、その結果として得られた離調の値を縦軸に描いてある。実際のデータ(黒丸)にはばらつきがあるが、推定された不確かさ(黒い縦棒の長さ)を考慮すると、概ね理想的な赤線に沿っていることがわかる。このことから、どの周波数で実験しても、正しく同じ共鳴周波数が得られることが示された。


実はラビ振動そのものは何十年も前から教科書に載っている現象なのですが、ラビ振動の速さから逆に共鳴周波数を求めようとした研究はほとんどありませんでした。いわば逆転の発想です。通常の原子や分子の分光では、信号を積算するなり振動後の平衡状態を利用するなり、時間情報を消して測定すれば十分なことが多く、特に高精度分光の目的のためには同じ条件で周波数を変化させて観測することが常道となっています。強すぎないパワーでじっくり時間をかけて測定し、周波数幅の狭い精確な共鳴曲線を描くことが重要だと考えられていました。

ところが、加速器施設を用いて生成する短寿命の素粒子や原子核を含む原子の分光においては、限られた観測時間と原子数から最大限の信号を得るために、できるだけ強いパワーで手短かに観測する必要があります。パワーのばらつきが問題になりやすい反面、ラビ振動が顕著に速く数百ナノ秒程度と観測しやすくなります。ラビ振動分光は、手っ取り早く、それでも高精度かつ効率的に分光できる画期的な手法なのです。

研究グループでは、ミュオニウムと呼ばれるエキゾチックな原子に着目し、超微細構造の高精度マイクロ波分光に取り組んできました。ミュオニウム原子はプラスのミュオン(ミュー粒子)とマイナスの電子が互いに束縛された単純な原子で、陽子と電子が束縛された水素原子の軽い同位体とみなすことができます。ミュオンの寿命は 2.2マイクロ秒しかなく、ラビ振動分光が効果的に利用できるケースです。マイクロ波は共振器で約1万倍に増幅されるものの、原子の場所によってパワーに相対的な分布があるため、実際の解析ではパワー分布と原子の分布を織り込んでラビ振動を計算した上で、実測データを再現できるように離調を求めるという複雑なプロセスを経ています。ハードウェアとしては、実験に使用したシリコンストリップ検出器(図4)の優れた時間応答特性と時間決定精度も、ラビ振動分光の実現に重要な要素でした。その結果、ゼロ磁場条件下における従来のミュオニウム分光実験精度の記録を更新することができました。

図4:ミュオンの崩壊に伴う陽電子を検出するシリコンストリップ検出器の写真とその顕微鏡拡大写真。高強度ビームに対しても信号が歪むことなく高い時間精度で陽電子の信号を捉える技術もまた、ラビ振動分光を支える重要な要素である。


今年度後半には、J-PARC MLFに最高強度のミュオンビームライン(ミュオンHライン(注9))が完成予定で、今後、強磁場中でミュオニウム原子の共鳴遷移を観測することにより、ひと月の測定で世界記録を1桁凌駕する2 ppb(10億分の2)の精度を達成できると期待しています。これにより、ミュオン(ミュー粒子)の質量を高精度で決定して量子電磁力学をはじめとする素粒子物理学の標準模型を検証できるようになりますが、そのためには、今回成功したラビ振動分光が重要な鍵を握ることになります。

発表雑誌

雑誌名
Physical Review A

論文タイトル
Rabi-Oscillation Spectroscopy of the Hyperfine Structure of Muonium Atoms

著者
西村 昇一郎,1, 2, ∗ 鳥居 寛之,3 深尾 祥紀,1, 2, 4 伊藤 孝,2, 5 岩崎 雅彦,6 神田 聡太郎,6 川越 清以,7 David KAWALL(カウォル デービッド),8 河村 成肇,1,2,4 黒澤 宣之,1,2 松田 恭幸,9 三部 勉,1,2,4 三宅 康博,1,2,4 齊藤 直人,1,2,4,3 佐々木 憲一,1, 2, 4 佐藤 優太郎,1 瀬尾 俊,6, 9 Patrick STRASSER(ストラッサー パトリック),1, 2, 4 末原 大幹,7 田中 香津生,10 田中 陶冶,6, 9 東城 順治,7 豊田 晃久,1, 2, 4 上野 恭裕,6 山中 隆志,7 山崎 高幸,1, 2, 4 安田 浩昌,3 吉岡 瑞樹,7 下村 浩一郎,1, 2, 4

1 高エネルギー加速器研究機構、2 J-PARC センター、3 東京大学 大学院理学系研究科、 4 総合研究大学院大学、 5 日本原子力研究開発機構 、 6 理化学研究所、 7 九州大学、 8 University of Massachusetts Amherst, USA、 9 東京大学 大学院総合文化研究科、 10 東北大学

DOI番号
10.1103/PhysRevA.104.L020801

論文URL
https://doi.org/10.1103/PhysRevA.104.L020801

用語解説

注1 共鳴曲線、共鳴周波数
原子や分子は量子化された飛び飛びの準位をもち、準位間のエネルギー差にぴったり対応する周波数の電磁波を与えると共鳴遷移を起こす。分光学においては、電磁波の周波数を掃引して遷移の信号が最大となる共鳴中心を探すために、横軸に周波数、縦軸に信号強度をプロットしてグラフを描く。このグラフの曲線を共鳴曲線と呼び、一般に左右対称の山形の曲線となる。信号強度が最大となる共鳴周波数を精度よく求めるには、電磁波のパワーなどの条件が揃っていて曲線が綺麗な左右対称を示すこと、また共鳴の幅が狭い(山のピークが鋭い)ことが重要になる。

注2 ミュオン(ミュー粒子)、ミュオニウム原子
ミュオン(ミュー粒子)は素粒子の一種で、スピン1/2(2分の1)と、2.2マイクロ秒(およそ100万分の2秒)の平均寿命を持つ。電荷がプラス(正)とマイナス(負)の2種類がある。ミュオニウム原子はプラスのミュオンとマイナスの電子が互いに束縛された原子で、構造が水素原子に似ているがそれよりずっと軽い。通常の原子を構成する陽子、中性子、電子以外の素粒子を含むエキゾチック原子の一種であり、ミュオンの物理学的特性をつぶさに調べるのに適している。水素原子の同位体とみなすことができ、化学記号としてMuが定められている。

注3 超微細構造
原子は、原子核の周りに電子が束縛されている。原子のエネルギー準位は量子化されていて、さまざまな相互作用に由来する構造を持つ。超微細構造は電子のスピンや軌道角運動量と原子核のスピンの相互作用に起因する。ミュオニウム原子では、原子核の代わりに正ミュオンのスピンをマイクロ波によって反転させることで共鳴信号が得られる。超微細構造を調べることで、ミュオンの磁気モーメント、ひいては質量を精確に決定することができる。

注4 ラビ振動
原子や分子が電磁波に共鳴して遷移を起こすとき、電磁波のパワーが十分に強ければ、元の準位から遷移先の準位への遷移だけでなく、遷移先から元の準位へ戻る遷移もやがて顕著になるため、遷移の信号強度は一旦増えた後やがて減少に転じ、その後、時間的に振動を繰り返す。核磁気共鳴を発見した米国の物理学者ラビに因んで、ラビ振動と呼ばれる。ラビ振動の大きさ(振幅)と速さ(ラビ周波数)は周波数の離調(共鳴周波数と電磁波の周波数のずれ)および電磁波のパワーに依存する。

注5 マイクロ波分光
分光とは、原子や分子が特定の周波数の電磁波を発光または吸収する現象を利用して、その準位構造を明らかにする研究手法である。電磁波のうち、周波数がギガヘルツ (GHz) 程度の電磁波をマイクロ波と呼び、これを使ったマイクロ波分光は、原子の超微細構造を調べるのに適している。

注6 量子電磁力学(QED = Quantum ElectroDynamics)
量子力学と相対性理論を組み合わせたものが場の量子論で、量子電磁力学は場の量子論の一種である。量子力学だけでは、分光学研究で判明した水素原子の構造のうちおおまかな全体構造しか説明できず、より詳細な構造を理解するための研究が量子電磁力学の成立に結びついた。

注7 素粒子物理学の標準模型
素粒子とそれらの間に働く力に関する有効理論で、物質を構成するフェルミ粒子と力を媒介するボース粒子が電磁気力、強い力、弱い力で相互作用する枠組みを記述する。高エネルギーの粒子加速器を用いた各種の衝突実験によってその正しさが検証されてきたが、未解決の問題や謎を抱えており、標準模型を超えた未知の物理の存在が示唆されている。大規模加速器で新粒子の発見を目指す直接探査と異なり、低エネルギーにおいて未知の物理が微小な効果として現れるのを緻密に探索する有力な手段として、高精度原子分光実験が近年注目されている。

注8 大強度陽子加速器施設(J-PARC)物質・生命科学実験施設(MLF)
大強度陽子加速器施設(J-PARC)は高エネルギー加速器研究機構と日本原子力研究開発機構が茨城県東海村で共同運営している大型研究施設で、そこでは素粒子物理学・原子核物理学・物性物理学・化学・材料科学・生物学などの学術的な研究から産業分野への応用研究まで、広範囲の分野での世界最先端の研究が行われている。J-PARC内の物質・生命科学実験施設(MLF)では、世界最高強度のミュオン及び中性子ビームを用いた研究が行われており、世界中から研究者が集まる。

注9 ミュオンHライン
J-PARC MLF内に、正負ミュオンが利用できるミュオンDラインがあり、今回の実験はそこで行われた。同じくMLF内に建設中のミュオンHラインが完成すれば、極めて高い強度のミュオンビームを供給可能となり、ミュオニウム原子分光実験をはじめ、ミュオン双極子能率の精密測定実験など、ミュオンに関わる基礎物理実験に利用される。

1701物理及び化学
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