深井 太洋 (東京大学)/市村 英彦 (ファカルティフェロー)/金澤 匡剛 (東京大学)
1. 研究動機
いつ、どれくらいの大きさの医療費に直面し、それがどれくらい続くのかは、その人がどれくらいの貯蓄をしておく必要があるのか、あるいはどの程度消費の水準を保つことができるのかなど、個人の生活に大きく影響する。こうした医療費の重要性は個人だけにとどまらない。たとえば、保険会社が適切に保険の価格を決定するためには、加入者の将来の医療費リスクに関する精度の高い予測が必要不可欠となる。また、ある時点において各世代がどの程度の医療費リスクを抱えているかに関する知見は、社会保障政策を考えていく上での重要な判断材料となるだろう。そのためライフサイクルにおける医療費を可能な限り正確に評価し、知っておくことは重要である。
医療費や健康状態の遷移に関しては多くの研究蓄積があるが、そのほとんどが前年の医療費支出あるいは主観的な健康状態をもとに次の年の予測をするというものである。しかしながら、前年の医療費支出が高い(あるいは健康状態が悪い)といっても、前年まで継続的に医療費が高い人と、前年に初めて病気になって医療費がかかるようになった人とでは、その後の医療費の予測は異なってくる可能性がある。医療費の急激な増加を健康ショックと見なすならば、ライフサイクルにおける健康ショックを検証するためには、高い医療費がかかり続けている人と、ある年に医療費のショックを受ける人とを区別した見方が必要となる。この発想が、我々の研究の出発点だ。
本研究では、複数年にわたる健康保険組合加入者の医療レセプトデータを用いて、同じ個人に関する医療費の変遷に関して分析を行った。分析に用いたレセプトデータは3年以上個人の医療費を追跡することができる。そのため、ある年に高い医療費が観察された人について、継続的に高い医療費がかかり続けている人と、その年に医療費のショックを受けた人とを切り離して、医療費の推移を分析することができる。こうしたデータの利点を活かし、健康ショックという新たな視点に着目し、年齢ごとに健康ショックの大きさや、その継続性を検証したのが本研究のユニークな点だ。
2. 分析方法
分析ではJMDC Claims Databaseから得た、2005〜2015年度における健康保険組合に加入している0〜59歳男性のレセプト情報を利用している。レセプト情報から得た、ある年に報告された医療費をその個人の健康状態とみなし、その健康状態の推移確率を計算している。具体的には、個人の年間医療費を表1のように5つの区分に分けている。Q1からQ4までの区分は、それぞれ30〜40歳男性の健康ショック(医療費)の大きさの分布から値を設定している。Q5については、高額療養費制度の閾値を採用した。
State | 年間医療費(円) | 自己負担額(30%) |
---|---|---|
Q1(中央値以下) | 0〜7,800 | 0〜2,340 |
Q2(50th〜75th %tile) | 7,801〜24,000 | 2,341〜7,200 |
Q3(75th〜90th %tile) | 24,001〜54,000 | 7,201〜16,200 |
Q4(90th %tile〜高額療養費) | 54,001〜266,999 | 16,201〜80,099 |
Q5(高額療養費〜) | 267,000〜 | − |
3. 主な分析結果
分析の結果、主にわかった4点をここでは紹介しよう。はじめに、前年の健康状態だけでは、実際の健康状態の推移を正確に予測できない。図1は、前年にQ5にいた55〜59歳の人が、次の年以降にもQ5にいる割合について、実際の値とAR(1)過程による予測値をプロットしたものである。AR(1)過程による予測値は前年の健康状態だけを用いるが、そのモデルを用いた予測結果は実際のQ5への遷移確率よりも低くなってしまっている。この結果から、前年に高額の医療費がかかっていた人の中で、より医療費が継続的にかかる人が次の年にもQ5に残っていることが示唆される。やはり1年前の健康状態だけではなく、1年前の健康状態に至った経路についても考慮する必要があるといえよう。
次に、前年にほぼ医療費を払っていない状態(Q1)であった人が今年大きな健康ショック(Q5)を受ける確率は、生まれてから10歳頃にかけて下がり、その後40歳前後から上昇することがわかった(図2)。また、健康ショックの大きさは15歳くらいにかけて下がり、その後ショックの中央値までは年齢を通じて大きな変化がないことがわかった(図3)。一方で、比較的大きいショックを受けるような人については、その大きさは年齢とともに大きくなっていくこともわかった(図3)。
最後に、健康ショックの継続性に関する検証を行った。図4は、前々年にほぼ医療費を払っていなかった人(Q1にいた人)で、前年に大きな健康ショック(Q5)を受けた人のうち、今年にもQ5の医療費がかかっている人の割合をプロットしたものである。図4からもわかる通り、健康ショックの継続性は生まれてから30歳前後まではあまり変わらないが、その後35歳を過ぎるあたりから継続性が強くなってくる。
以上の分析は、健康ショックという新しい視点を持つことで、健康状態の推移を正確に記述することができ、さらに年齢ごとにショックの大きさや継続性も異なることを見いだした。この結果は年齢やそれまでの健康状態ごとに、今後の医療支出などが異なることを考慮した政策決定や経済モデルの構築が重要であることを示唆している。
図1:AR(1)過程と実際の健康状態の推移
図2:大きい健康ショックを受ける確率
図3:健康ショックの大きさの分布
図4:大きい健康ショックの継続性