2019-09-24 量子科学技術研究開発機構
発表のポイント
- 今回、ナノサイズの特殊なダイヤモンドにより、生きた細胞内部のpHのピンポイント計測が顕微鏡下で行えるナノ量子センサー1)を世界で初めて実現した。
- 本技術により生きた細胞内部の状態の変化をモニタリングできるようになれば、がんやパーキンソン病のメカニズム解明、幹細胞2)の品質管理など、幅広い応用が期待できる。
- 今回開発した手法はpH以外の多様なセンサーのナノサイズ化にも応用可能な基幹技術であり、生命科学への応用だけではなく新たな産業創出にも寄与が期待できる。
国立研究開発法人量子科学技術研究開発機構(理事長 平野俊夫。以下「量研」という。)量子生命科学領域 次世代量子センサーグループの藤咲貴大氏(京都大学大学院工学研究科博士後期課程学生)・五十嵐龍治グループリーダー、量子生命科学領域 物質量子機能化グループ・兼・量子ビーム科学部門半導体照射効果研究グループの小野田忍上席研究員・大島武グループリーダー、および量子生命科学領域 白川昌宏領域研究統括(京都大学教授)らは、京都大学と共同で、生命現象や細胞内環境を精密計測するための超高感度センサーとして注目される「ナノ量子センサー」を発展させ、ナノサイズのリアルタイムpHセンサーを初めて実現しました。
細胞の中では精巧なpH(水素イオン濃度)調節が行われています。細胞質はおよそpH 7.2と中性であるにもかかわらず、その中にはpH 8(アルカリ性)のミトコンドリアやpH 4.7(酸性)のリソソームが存在するなど、細胞内のpH分布は非常に複雑であることが知られています。これは、pHの高低差をエネルギーに変換したり、酸性環境を不要な分子の分解に用いたりするなど、pH環境こそが生命活動の基盤であるためです。このため、活動中の細胞内部の詳細なpH分布をリアルタイムで計測可能になれば、生命における多くの謎の解明につながります。
ナノサイズのダイヤモンド(ナノダイヤモンド3))を材料とするナノ量子センサーは、小さな対象を正確に計測できる極小の高感度センサーです。ナノ量子センサーが登場したことで、この数年で、細胞内にある細胞小器官の温度や電場、磁場など、様々な情報を測る方法が開発されるようになりました。pHの計測手法についても世界中で研究されてきましたが、これまでその有効な方法は見つかっていませんでした。
そこでわたし達は、ナノダイヤモンド中でセンサーとしての役割を担う「NVセンター4)」が優れた電気センサーでもある点に着目し、表面の電荷5)(帯電)が外部のpHに依存して変化する様な化学処理をナノダイヤモンドに施しました。その結果、このナノダイヤモンドの発する蛍光が外部のpHに従って変化することを明らかにしました。これにより、顕微鏡下で生きた細胞内のpHをリアルタイムで計測可能なナノ量子センサーを世界で初めて実現しました。
わたし達が作製したナノ量子センサーは、新たにpHが計測できるようになっただけではなく、温度や磁場を測る従来の量子センサーの能力もそのまま有します。また、今回用いた手法は、原理的にはpHセンサー以外の様々なセンサーのナノサイズ化にも応用できます。今後わたし達は、細胞を老化させるフリーラジカル、細胞のエネルギー産生に関係するグルコースやATPなどを検出するナノセンサーの開発も試み、pH以外にも様々な情報を同時に計測することで生きた細胞の詳細な解析を行っていく予定です。これにより、たとえば老化に伴う細胞内部の変化のモニタリングのほか、パーキンソン病やがん化に向かいつつある細胞の検出、再生医療における幹細胞の品質管理などを実現していきます。
本研究は、JST 戦略的創造研究推進事業 さきがけ「コンポジット量子センサーの創成 -1細胞から1個体まで」(JPMJPR18G1)、さきがけ「ナノダイヤモンドによる三次元構造動態イメージング技術の創成」(JPMJPR14F1)および文部科学省 光・量子飛躍フラッグシッププログラム(Q-LEAP, JPMXS0118067395)の支援を受けています。また、MEXT/JSPS科研費 特別研究員奨励費(JP19J12787)、若手研究(JP18K14333)、萌芽研究(JP18K19297)、新学術領域研究 (JP17H06348, JP26119004)の支援も受けています。この研究成果は当該分野においてインパクトの大きい論文が数多く発表されている米国化学会発行の「ACS Nano」のオンライン版に2019年9月20日(金)(米国時間)に掲載予定です。
背景と目的
私たちの体の中では、絶え間なく、膨大な種類の生化学反応や酵素反応が起こっています。お酒を飲めばアルコールを分解する必要がありますし、生命を維持するためには呼吸や代謝などによりエネルギーを生み出す必要もあります。そしてこの様な反応が正しく繰り返されて生命が保たれています。このため、私たちの体の中は血液から細胞内まで、温度とpHが厳格に制御されていると言われています。特に細胞の中では、細胞小器官などの微小空間ごとの温度やpHの制御が細胞機能に直結します。
ところが近年になって、細胞の中でのこの様な反応は、試験管の中とは大きく異なると言われ始めています。つまり、生命を深く理解しようとするならば、生きたままの細胞の中で温度やpHを直接計測する必要があるのです。その一方、細胞内を微小空間毎に計測できる小さなセンサーは、ごく最近になるまで存在しませんでした。
ナノダイヤモンドを材料とする「ナノ量子センサー」は、結晶中の格子欠陥「NVセンター」の蛍光を介して様々な物理量を計測可能な、100ナノメートル以下の微小センサーです(1ナノメートルは1ミリメートルの100万分の1)。これを細胞の中に導入し蛍光顕微鏡で観察することで、温度や電場、磁場などの計測が可能となります(図1)。このため、特に生命科学の分野で注目を集め始めています。もちろんナノ量子センサーを用いたpH計測についても世界中で研究されてきましたが、これまで有効な「pH計測法」は見つかっていませんでした1。たとえば海外のグループからは、酸性になると切断が起こるポリマーを利用した「pH判定法」が報告されています。ただしこの方法はpH試験紙のように「1度しかpHを判定できない」という大きな問題を抱えていました。このため、pHメーターの様に長時間に渡るpHモニタリング(つまり「pH計測」)が可能なナノ量子センサーが待ち望まれていました。
図1 ダイヤモンド量子センサーの計測対象。温度、磁場、電場などが計測可能であることは広く知られてきたが、量子センサーでpHを計測する有効な方法はこれまで存在しなかった。
そこでわたし達は、ナノダイヤモンド中のNVセンターが粒子表面の電荷量(帯電)を検出できることに着目し、pHに依存して電荷量が変化する化学構造をナノダイヤモンド表面に作成しました(図2)。そしてこのナノダイヤモンドの発する蛍光が周辺pHを反映して変化することを明らかにしました。この方法は既存の手法とは異なり、ポリマー切断の様な不可逆的な反応を利用しないため、pHメーターのように長時間に渡り繰り返し何度でもpHの経時的変化の読み取りが可能です。
図2 ナノダイヤモンド量子センサーを用いたpH計測法。化学処理前のナノダイヤモンドの蛍光はpH依存性を持たないが、pH依存的に帯電が変化する化学構造を表面に形成すればpH依存性を持つようになると予想した。
研究の手法と成果
NVセンター中の電子は、緑色の光を当てると速やかに整列するという性質を持っています。そして整列した電子は、光を止めてしばらく経つと徐々にバラバラの方向を向いてしまいます。この様に整列した電子が整列をやめてしまう現象は「緩和」(リラクゼーション)と呼ばれます(図3)。近傍に電子の整列をかき乱すものが多ければ速やかに緩和(リラックス)し、かき乱すものが少なければゆっくりと緩和します。ナノダイヤモンドの場合、粒子表面の帯電が緩和を速くする主な要因となります。
図3 緩和の概念。NVセンター中の電子には|0>、|+1>、|-1>という3種類の向き(スピン量子状態)が存在するが、緑色光を照射すると全てのNVセンターが|0>に向きを揃えることが知られている。ただし、緑色光を止めると電子は再びバラバラの方向を向いてしまう。このことを「緩和現象」と呼ぶ。そして周りに電荷など雑音となるものが多いほど緩和は速くなる傾向にある。
またNVセンターには、電子の整列の度合いによって蛍光の強さが異なるという性質もあります。つまり、蛍光量の変化を測ることで緩和に要する時間(=緩和時間)を知ることができるのです。以上の2つの性質から、pH依存的に帯電が変化するナノダイヤモンドを用いれば、蛍光顕微鏡でpHのナノ計測を行えるのではないかと考えました(図4)。
図4 蛍光顕微鏡観察によるナノpHセンサー。蛍光顕微鏡でNVセンターの緩和時間を測定することにより、緩和時間の違いでナノダイヤモンド周辺のpHを計測できる。
そこでまず、量研 量子ビーム科学部門 高崎量子応用研究所において電子線照射と高温熱処理により100ナノメートルのナノダイヤモンド結晶中に高濃度のNVセンターを作成し(「世界最小のダイヤモンド量子センサーの作成に成功」2019年5月28日量研プレスリリース)、その表面にpH4-5以上でイオン化して電荷を持ち始めるカルボキシ基6)を形成しました。そして緩和時間のpH依存性を検討した結果、未処理のナノダイヤモンドでは緩和時間がpH依存性を持たないのに対して(図5左)、カルボキシ基を形成したナノダイヤモンドでは酸性域(=低pH域)でpH依存性が確認されました(図5中)。これは表面化学処理により、ナノダイヤモンドが酸性域でpHセンサーとして機能したことを意味します。また、pH8-11以上でイオン化して電荷を持ち始めるポリシステイン7)で同様の処理を行った結果、このナノダイヤモンドはアルカリ性(高pH域)でpHセンサーとして機能することが確認されました(図5右)。以上の結果は、ナノダイヤモンドのpHセンサーとしての特性が表面化学処理によって自在にコントロールできることを意味します。
図5 ナノダイヤモンドの表面化学構造とpH依存性の関係。未処理のナノダイヤモンドでは緩和時間にpH依存性はないが、カルボキシ化処理やポリシステイン化処理によりpH依存性を付与できる。
今後の展開
pHというのは水素イオンの濃度を表す数値のことですが、今回考案した方法は水素イオン以外のイオンにも適用できると考えられます。たとえば細胞内で酵素反応を補助する様々な微量金属イオンや、細胞にとって有害な重金属イオンを検出するナノセンサーの開発も期待できます。また「知りたい物理量を電気量に変換して検出する」というメカニズムは、実は我々の身の回りの様々なセンサーに用いられているメカニズムです。たとえば「力」を「電気量」に変換する圧電材料8)で表面処理を行えば、ナノダイヤモンドはナノサイズの圧力センサーになると考えられます。圧電材料ではなく光電材料8)を用いれば、ナノ光センサーも実現可能かもしれません。この様に表面の化学構造を変えるだけで様々なセンサーをナノサイズ化できる可能性があることから、わたし達の考案した手法は生命科学分野から産業分野まで幅広い応用が期待できます。
わたし達はこれまでの研究で、細胞内の温度をナノ計測することに成功しています2。今回発見した手法を併用すれば、今後は細胞内における温度とpHの同時計測も可能になるでしょう。細胞は正常な状態では厳格に温度やpHが制御されていますが、老化やがん化などの異常が起こった場合には温度やpHの細胞内分布にも変化が起きる可能性が考えられています。従って、ナノ量子センサーによって細胞の老化やがん化、パーキンソン病など神経変性疾患の発症をモニタリングし、その変化の瞬間をとらえられるようになるかもしれません。また再生医療において、幹細胞の分化状態や生着性、異常化などを1細胞レベルでモニタリングできるようになる可能性もあります。さらにわたし達は既に5ナノメートルの極小のナノ量子センサーの作成にも成功しており3、より小さなpHセンサーの作成も可能です。このように、わたし達が開発するナノ量子センサーは、未だ謎多き「ナノの世界」の心強い道標になると期待しています。
用語解説
1)量子センサー
量子力学の原理に基づいて様々な物理量を計測するための装置、機器、素子などのこと。高感度で磁気計測が行えることから、量子センサーを用いた脳磁図検査の高感度化や装置の小型化などへの応用が期待されている。
2)幹細胞
様々な細胞に分化する能力を持つ細胞で、体内の組織や器官の維持において細胞を供給する役割を持つ。また、ケガや病気などで失った身体機能を再生する再生医療において活用が進む。
3)ナノダイヤモンド
おおよそ100ナノメートル以下のダイヤモンドをナノダイヤモンドと呼ぶ。研究や工業分野などでは人工的に作られたダイヤモンドが用いられる。化学構造は宝飾品として用いられる天然のダイヤモンドと全く同じだが、人工ナノダイヤモンドは非常に安価なため、研磨剤やエンジンオイルの添加剤、鉛筆の芯の潤滑剤などとしても幅広く用いられ利用されている。
4)NVセンター
ダイヤモンド結晶中の不純物窒素(Nitrogen)と、そのとなりに形成された空孔(Vacancy)がつくる原子配列の乱れ・欠陥。NVセンターは周辺環境の変化に極めて敏感に検知して量子状態が変わる特性があり、この特性をセンサーとして利用できる。このため、NVセンターを持つダイヤモンドは「量子センサー」と呼ばれて注目されている。本研究のNVセンター作成は量研高崎量子応用研究所の電子照射施設において行われた。
5)電荷
物質が帯びている静電気の量。
6)カルボキシ基
酢酸など多くの有機酸(カルボン酸)において酸性を担う官能基。–C(=O)OHという化学構造を持つ。pH4-5よりもpHが高くなるとイオン化して–C(=O)O—になる。
7)ポリシステイン
アミノ酸の一種であるシステインが連なったポリマー。システインはチオール基(–SH)有する。ポリシステイン中のチオール基はpH8-11よりもpHが高くなるとイオン化して–S–になる。
8)圧電材料、光電材料
圧電材料は外から受けた力を電気エネルギーに変換する材料。光電材料は光エネルギーを電気エネルギーに変換する材料。
掲載論文情報
Takahiro Fujisaku, Ryotaro Tanabe, Shinobu Onoda, Ryou Kubota, Takuya F. Segawa, Frederick T. -K. So, Takeshi Ohshima, Itaru Hamachi, Masahiro Shirakawa and Ryuji Igarashi
“pH nanosensor using electronic spins in diamond”
ACS Nano (2019)
参考文献
- Fujiwara M., Tsukahara R., Sera Y., Yukawa H., Baba Y., Shikata S., Hashimoto H. (2019). Monitoring spin coherence of single nitrogen-vacancy centers in nanodiamonds during pH changes in aqueous buffer solutions. RSC Advances 9(22) 12606-12614
- Terada, D., Sotoma, S., Harada, Y., Igarashi, R., Shirakawa, M. (2018). One-pot synthesis of highly dispersible fluorescent nanodiamonds for bioconjugation. Bioconjugate chemistry, 29(8), 2786-2792.
- Terada D., Segawa T.F., Shames A.I., Onoda S., Ohshima T., Osawa E., Igarashi R., Shirakawa M. (2019). Monodisperse Five-Nanometer-Sized Detonation Nanodiamonds Enriched in Nitrogen-Vacancy Centers. ACS Nano, 13(6) 6461-6468.