2022-11-17 農研機構
ポイント
農研機構は、遺伝子組換えカイコ1)を用いて、望みの機能分子をクリックケミストリー2)で簡単につなげられる「結合の手」を組み込んだシルクの実用化に向けた生産技術を確立しました。「結合の手」はアジド基3)という原子団(官能基)をもつ人工のアミノ酸であり、色素や薬剤などの機能分子をつなげることでシルクの性質を簡単に改変できます。2014年に基礎技術を開発し、2018年には「結合の手」の組み込み効率を大幅に向上させ、今回、カイコの系統改良によって織物の生産を実現しました。本成果により、センシング機能をもつシルク繊維や薬剤を付加した医療用シルク素材の社会実装へ向けた取り組みが加速されます。
概要
農研機構では、様々な分野・用途へのシルクの利用拡大を目指し、新しい機能をもったシルク素材の開発研究に取り組んでいます。今回、遺伝子組換えカイコを用いて、機能分子を簡単につなげられる「結合の手」をもつシルクの実用化に向けた生産技術を確立しました。「結合の手」はアジド基という原子団(官能基)であり、2022年ノーベル化学賞を受賞したクリックケミストリーで中心的な役割を果たしています。クリックケミストリーの手法をシルクに適用することで、色素や薬剤などの様々な機能分子をつなげた高機能シルク素材を誰でも簡単に作出できるようになりました。
2014年に、カイコの遺伝子組換え技術を用いて、アジド基をもつ人工アミノ酸4)を組み込んだシルクを世界で初めて開発しました。2018年には人工アミノ酸のシルクへの組み込み効率を当初の約30倍に高めることに成功(https://www.naro.go.jp/publicity_report/press/laboratory/nias/079965.html)し、実用生産への道が開けました。しかし、遺伝子組換えカイコは小型の実験用品種を元に作出されたためシルクの生産量が少なく、シルク自体も大量生産に必要な機械加工に適した品質ではありませんでした。
そこで今回、戻し交配5)と呼ばれる育種法を用いて系統の改良を行い、カイコ1頭あたりのシルク生産量が約3倍に向上した結果、改良前よりも太く長い良質なシルクが得られるようになりました。これにより、汎用的な機械を用いて織物にまで加工することが可能となりました。また、機能分子の結合テストにより、加工後も「結合の手」が保持されていることを確認しました。
本成果により、血糖値等の生体情報を計測する機能をもつシルク繊維や、抗生物質等の薬剤を付加した医療用シルク素材の開発に向けた取り組みが加速されます。
本成果は2022年11月24~25日に茨城県つくば市で開催される「第69回日本シルク学会研究発表会」で発表されます。
関連情報
予算 : 一般財団法人大日本蚕糸会貞明皇后蚕糸記念科学技術研究助成,運営費交付金
特許 : 特許第7128525号
問い合わせ先など
研究推進責任者 :
農研機構生物機能利用研究部門 所長吉永 優
研究担当者 :
同 絹糸昆虫高度利用研究領域 グループ長補佐寺本 英敏
上級研究員伊賀 正年
上級研究員小島 桂
広報担当者 :
同 研究推進室笠嶋 めぐみ
詳細情報
開発の社会的背景
シルクはカイコによって産生される天然タンパク質で、衣料用素材としてだけでなく縫合糸として医療現場でも利用されています。近年では石油由来素材による海洋・土壌汚染といった地球規模の課題を背景に、サステナブルな天然素材であるシルクへの関心が世界的に高まっています。
農研機構は、産業資材、保健・衛生用資材、医療用素材、電子材料などへ利用できる新しい機能をもったシルクの開発研究を通して国内新産業の創出を目指しています。シルクに新たな機能を付加する既存の手法としては、機能分子をシルクのタンパク質に化学的に結合させる化学修飾法6)と、遺伝子レベルでシルクに機能分子を融合させる遺伝子組換え法7)があります。しかし、化学修飾法では副反応や残留毒性の懸念があり、遺伝子組換え法では機能分子としてペプチド・タンパク質成分しか付加できないという制限があります。そのため、ペプチド・タンパク質成分のみならずポリマーや薬剤などの機能分子を簡単かつ安全にシルクに付加させる手法が求められていました。
研究の経緯
農研機構は、様々な機能をもつ分子を誰でも簡単に合成するための新たな手法であるクリックケミストリーに着目し、2014年に、クリックケミストリーで中心的な役割を担うアジド基をもつ人工アミノ酸をシルクに組み込む方法を開発しました。副反応がなく安全性の高いクリックケミストリーを用いて機能分子をつなげることで、単一のシルクから様々な性質をもつシルクを簡便・迅速に作出できます(図1)。開発当初はシルクへの人工アミノ酸の組み込み効率が低くコスト面での課題がありましたが、2018年に人工アミノ酸の組み込み効率を当初の約30倍に高めることに成功し、実用生産への道を拓くことができました。しかし、人工アミノ酸を組み込んだシルクの生産量が少ないという点が実用生産に向けた課題として残されていました。そこで今回、カイコの系統改良による生産量の向上と、織物などの実用化に向けた生産技術の確立とを目的に研究開発を進めました。
研究の内容・意義
2014年に開発したシルクには、「結合の手」として機能するアジド基をもつ人工アミノ酸4-アジドフェニルアラニン(AzPhe)が組み込まれています。このようなシルクは、AzPheをタンパク質中に組み込むことができる酵素の遺伝子を導入した遺伝子組換えカイコにAzPheを含む飼料を与えることで得られます(図2)。2018年にはAzPheのタンパク質への組み込みに優れる新たな酵素を導入した遺伝子組換えカイコ(H06系統)を作出し、シルクへのAzPheの組み込み効率を約30倍に高めることに成功しました。しかし、H06系統は小型の実験用品種を元に作出されており、通常はカイコ1頭あたりのシルク生産量が約300mgであるところ約100mgと少なく、かつ、得られるシルクの品質も機械加工に適したものではないため、実用生産に向けては系統の改良が必要でした。
そこで今回、H06系統を大型の実用品種(MCS4)と交配し、その交雑種をMCS4に5世代にわたって戻し交配することにより、AzPheをシルクに組み込む能力を保持し、シルク生産量が約3倍に増大した改良系統(H06-MCS4)を作出しました(図3)。カイコは一般的に交雑種とすることでより病気になりにくいなど飼育が容易になるため、H06-MCS4を別の実用品種(MN2)と交配した交雑種を作出し、(一財)大日本蚕糸会蚕糸科学技術研究所の協力を得て5,000頭のスケールアップ飼育試験を実施しました。そして、得られたまゆから通常のシルクと同じ加工工程を用いて織物を試作しました(写真1)。織物への加工工程を経た後でも「結合の手」が保持されており機能分子の結合が可能であることを確認しました(図4)。
<本技術の特長>
1.「結合の手」(アジド基)に、副反応がなく安全性の高いクリックケミストリーを用いて機能分子をつなげることで、単一のシルクから様々な性質をもつシルクを簡便・迅速に作出できます(図1)。
2.通常の遺伝子組換え法では導入が不可能な、合成色素や薬剤、合成ポリマーなどペプチド・タンパク質以外の物質を結合できるため、より多様な機能化が可能です。
3.系統改良により、シルク生産に用いられる一般的な実用品種に近い量と品質のシルクを生産できます。これにより通常シルクと同じ工程で織物までの加工が可能となりました。
4.「結合の手」をもつシルクは、通常の遺伝子組換えシルクに対して10~50%程度のコスト増で生産が可能です。これは飼料にAzPheを添加する必要があることによる追加コストです。
今後の予定・期待
本研究により、新たな機能をもつシルクを作出するためのプラットフォームとなる「結合の手」をもつシルクを実用スケールで生産するための技術が確立されました。クリックケミストリーを用いて薬剤、酵素、ポリマーなどの機能分子を安定的に結合させることにより、産業資材、保健・衛生用資材、医療用素材、電子材料などへ利用できる新しい機能をもったシルクの開発が期待されます。
今後は、センシング機能をもつシルク繊維や薬剤を付加した医療用シルク素材の社会実装へ向けた取り組みを加速し、民間企業との共同研究や外部資金の活用により、本研究の成果を社会に還元するための取り組みを積極的に進めます。
用語の解説
- 1)遺伝子組換えカイコ
- カイコが紡ぎ出すシルクはタンパク質でできています。一頭で300mgものシルクを作り出すカイコの優れたタンパク質生産能力が注目され、2000年にカイコでの遺伝子組換え技術が開発されました。この技術により、目的とする機能をもつペプチドやタンパク質の遺伝子をシルク遺伝子に融合・改変し、これを遺伝子組換えカイコで発現させることによってシルクの性質を改変したりすることができるようになりました。
- 2)クリックケミストリー(click chemistry)
- 安定な結合を作ることができる簡単な(高度な熟練を要しない)いくつかの化学反応を用いて新たな化合物を創出する手法のことを指します。米国スクリプス研究所のシャープレス教授らによってその概念が提唱され、シートベルトのバックルなどが「カチッと音を立てて(clicking)」簡単かつ確実につながるさまをたとえて命名されました。その化学反応の代表例がアジド基とアルキン基との間で起こる選択的な反応です。穏和な条件下で進行し副反応や副生成物のないクリーンな反応のため、生きた細胞内で行うこともできます。本手法は化学や生物学の基礎研究のみならず材料開発や創薬分野に多大な影響を及ぼしており、実社会への還元がなされつつあります。これらの成果を称え、2022年ノーベル化学賞がシャープレス教授ら3名に授与されました。
- 3)アジド基
- 窒素原子3つが連なった構造をもつ天然には存在しない官能基です。1)で解説したクリックケミストリーにおける中心的な存在であり、創薬や素材開発などの幅広い分野で利用されています。
- 4)人工アミノ酸
- タンパク質は20種類の標準アミノ酸が連なってできています。一部の例外を除いて、それら以外のアミノ酸がタンパク質合成に用いられることはありません。人工アミノ酸とは、通常はタンパク質合成に用いられることのないアミノ酸を指し、天然のアミノ酸には存在しない様々な官能基をもつものが知られています。
- 5)戻し交配
- 異なる品種間の交配によって得られる雑種(子供)に親品種の片方を交配することを指します。ある品種のもつ特性を別の品種に取り込まれるために行われる育種法の一種です。
- 6)化学修飾法
- アミノ基やチオール基などタンパク質中の官能基に対する化学反応により、目的とする機能分子をタンパク質に結合させる方法です。様々な反応が開発されてきていますが、タンパク質中の狙った部分だけを選択的に反応させるのは一般的に困難です。
- 7)遺伝子組換え法
- ある生物由来のタンパク質の遺伝子を取り出し、必要に応じて改変し、それを宿主となる生物(大腸菌・酵母・カイコなど)に導入して発現させることにより目的のタンパク質を生産する方法です。
発表論文
1.寺本英敏, 伊賀正年 “「結合の手」をもつクリッカブルシルクの実用生産に向けた取り組み” シルクレポート, No.74(2022年7月号), 6-8.
2.Tian Y, Iga M, Tsuboi H, Teramoto H “A novel transgenic silkworm line for mass production of azido-incorporated silk fiber” J. Silk Sci. Tech. Jpn. (2022) 30, 75-85.
3.寺本英敏, 伊賀正年, 田雅茜, 坪井弘美 “アジド基導入クリッカブルシルクのスケールアップ生産と織物試作” 第69回日本シルク学会研究発表会(発表予定)
参考図
図1. クリックケミストリーによるシルクへの機能付加の模式図
図2. 「結合の手」をもつ人工アミノ酸を組み込んだシルクの生産方法
図3. 戻し交配による系統の改良
写真1. 試作した「結合の手」をもつシルクの織物
織物の試作は、(株)宮坂製糸所、東北撚糸(株)、井上リボン工業(株)の協力により、一般的な機械加工方法を用いて行った。
図4. 試作した織物への機能分子結合テスト
一般的な加工工程を経て得られた織物に、機能分子として緑色蛍光色素を結合させた後の顕微鏡写真を示す(左:明視野、右:蛍光)。「結合の手」をもつよこ糸のシルクは緑色蛍光色素と結合し蛍光を発している。