1分子1分子の乱雑さからエントロピー変化を定量する~統計力学的手法を用いたナノスケールでの融解エントロピー測定~

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2024-05-31 東京大学

中村 栄一 (化学専攻 特任教授/東京大学特別教授/東京大学名誉教授)
中室 貴幸(化学専攻 特任准教授)

発表のポイント

  • 高校生から科学者まで人々を悩ませてきた「エントロピー」、つまり分子の「乱雑さ」の度合いを直接的に測定して、結晶融解に伴うエントロピー増加を定量する新手法を開発した。
  • 結晶中の分子の乱雑さの度合いの変化を、電子線回折信号の変化を通して測定する本法は、ボルツマンの統計力学的な定義に従ってエントロピーを定量する新しい実験手法である。
  • 有機半導体からタンパク質にわたる多様な分子の「乱雑さ」を超微量の試料を用いて測定するこの手法は、ナノスケールでのエントロピー測定を可能とする画期的な手法である。

1分子1分子の乱雑さからエントロピー変化を定量する~統計力学的手法を用いたナノスケールでの融解エントロピー測定~
乱雑さはどうやって測るの?

発表概要

2023年度以降の高校化学では、「乱雑さ」の尺度としてのエントロピーが導入されるという歴史的な大改訂が行われた。今後は、氷から水への融解現象を、エントロピー増大則(注1)の枠組の中で教えることになる。1877年にボルツマンは、物質を構成する粒子の乱雑さを、その微視的な状態の数と関連付けた。しかし、微視的な状態とは具体的に何を指すのか、についてその明確な定義がないことが、研究者や教育者を悩ませてきた。東京大学大学院理学系研究科の中村栄一特別教授らの研究グループは、結晶の電子回折(注2)信号の時間変化を定量解析することで、結晶中の分子の取りうる構造多様性、すなわちボルツマンの微視的状態の数を反映し、電子回折パターンの減少とエントロピーの増加の対応を実証した。有機半導体からタンパク質にわたる多様な分子の超微量の結晶を用いる本手法は、巨視的な量の試料が必要な従来の熱力学測定法と異なり、ナノサイエンスでの展開を可能とする画期的な手法である。

発表内容

研究の歴史的背景
蒸機機関の効率化に端を発した熱力学研究成果の金字塔が、クラウジウスが1854年に提案したエントロピーの概念(式1、Q は系に供給される熱量、T は絶対温度)である。
(式1) ΔS = Q/T (Clausius 式)

原子や分子の概念が行き渡るに従い、1877年にボルツマンは、物質のエントロピー(S)を微視的な状態数と関連付けた(式2)。しかし、ボルツマンは微視的な状態を具体的に定義せず、それ以後も実験化学におけるクラジウス式とボルツマン式の関係についての十分な検証はなされてこなかった。
(式2) ΔS = kBlnΩ (Boltzmann 式)(kBはボルツマン定数)
モルエントロピーを書き直すと(kB = R/NAΩ = WNANAはアボガドロ定数)
(式3) ΔS = RlnW

今回の実験とその解釈
有機結晶の三次元構造決定法のひとつである電子回折の測定の途中で回折信号が段々弱くなることは古くから知られており(図1A)、有機分子の化学分解に起因するとされてきた。2004年以来、単分子原子分解能時間分解電子顕微鏡法(SMART-EM 注3)に携わってきた中村教授はこの定説に疑問を持ち、化学教室の中室貴幸特任准教授、山内薫教授、テルアビブ大学のBarak Hirshberg(バラク ヒルシュベルク)准教授と一緒に5年間にわたり研究を進めた結果、電子回折信号の減衰が分子配列の無秩序化に起因するという今回の発見に到達した(図1B)。この発見により、これまで特段の注目を引くことのなかった電子回折信号の減衰の中に、結晶の性質に関する有益な情報が隠されていることが明らかとなった。


図1:本研究の概念図
(A)水色の範囲に電子線を照射し回折信号を得る。(B)回折信号の減衰は電子と分子の相互作用による分子配列の無秩序化に由来する。図中のスケールバーは1マイクロメートル、200 keVの電子線照射に伴う電子回折信号の減少速度を100−296 Kの温度範囲で速度論的に解析した。


本研究で、巨視的結晶の融解エントロピー(ΔSf)が報告されている14の結晶(図2、赤)について、電子線照射に伴う電子回折信号の減少速度を速度論的に解析した(図1)。その結果、アレニウスの頻度因子(A)と、ΔSfが線形関係にあることを発見した(式4および図3A)。なおAINTは図3Aのy−切片であり、電子線と分子の散乱断面積に対応する定数である。

式4とボルツマン式の式3を参照すれば、微視的状態数の増分WdA/AINTから求まることが分かる。低温の結晶中で固定された分子の微視的状態の数Wdは1と考えられるので、無秩序化後に求まったWdは、測定後にその分子がとりうる立体配座の総数を示していることがわかる。イスラエルのBarak Hirshberg准教授のグループが行った分子動力学計算はこの結論を定性的に支持した。


図2:本研究の測定対象
赤色で名前が示されている化合物は、熱力学的測定で求めた文献既知の融解エントロピー(ΔSf)が既知であり、本研究の参照データとした。残りの化合物は熱的な不安定性などの理由で融解エントロピーの文献記載がない。


実験値Wdから無秩序化エントロピーΔSdを式5に従って求められる。図2に示した14の結晶について、電子回折から求まるΔSdが熱測定で求まるΔSfと一致することが分かった(図3B)。
(式4) ln (A) = ΔSf/R + ln (AINT) すなわちΔSf = Rln (A/AINT)
(式5) WdA/AINT すなわちΔSd = Rln (A/AINT)


図3:14種類の結晶に関する文献既知の融解エントロピーΔSfと微視的状態数および無秩序化エントロピーΔSdの関係
(A)融解エントロピーとアレニウスの頻度因子ln(A)がガス定数Rを介して1:1関係を示した。赤い点は有機結晶、黒い点は無機結晶。(B)ΔSfとΔSdの1:1の直線関係。実測されたAAINTから、ボルツマン式に基づいて微視的状態の増分とΔSdが計算できる。

生体高分子の構造自由度測定への展開
上記14個の結晶に加え、タンパク質、tRNAなどの生体高分子(図4の赤)など全部で24の結晶で同様の測定を行い、得られたWdを図4に示した。典型的な膜タンパク質のアクアポリン4(20)とバクテリオロドプシン(21)、および水溶性タンパク質のカタラーゼ(24)のWdを示した。比較的堅い構造を持つ膜タンパク質は小さなペプチド分子であるグルタチオン(16)より数倍小さなWdを示すが、比較的緩い構造を持つカタラーゼは逆に大きなWdを示す。このことは電子回折から得たWdの情報がタンパク質などの巨大分子の持つ構造自由度の評価に活用できることを意味している。

本研究は、有機結晶に電子線を当てると速やかに分解するというこれまでの常識とは異なり、電子線照射がまず引き起こすのは結合の切断ではなく、結合の回転であることを明確に示したものである。この結果は、クライオ電子顕微鏡法などにおける生体分子の観察結果の解釈にも役に立つであろう。


図4:24種類の結晶のln(A)およびWdのまとめ。青は無機物または有機小分子、赤は高分子の結晶構成成分を示す。

〇関連情報:
「プレスリリース①量子力学が予言した化学反応理論を初めて実験で証明」(2017/11/27)
「プレスリリース②結晶はどうやってできる?その瞬間を見た!」(2021/01/22)

論文情報
雑誌名
Science論文タイトル
Melting entropy of crystals determined by electron-beam-induced configurational disordering

著者
Dongxin Liu, Jiarui Fu, Oren Elishav, Masaya Sakakibara, Kaoru Yamanouchi, Barak Hirshberg*, Takayuki Nakamuro*, Eiichi Nakamura*

DOI番号:10.1126/science.adk3620

研究助成

本研究は、科学研究費助成金「特別推進研究(課題番号:JP19H05459)」、科学技術振興機構「さきがけ(課題番号:JPMJPR23Q6)」、The Pazy Foundation of the IAEC-UPBC(課題番号:415-2023)、公益財団法人福岡尚彦記念財団の支援により実施されました。アクアポリン4、バクテリオロドプシンの電子回折データは東京医科歯科大学 藤吉好則特別栄誉教授により提供されたものであり、ここに深く感謝する。

用語解説

注1  エントロピー増大則
高校物理の教科書で触れられている熱力学第2法則が保証することであり、孤立系のエントロピーは不可逆過程では増大し、可逆過程の進行中は一定に留まることを示す。どんな自発変化も全エントロピーを増加させるような仕方で起こるため、物質とエネルギーの混沌とした状態を作り出すように進行する。

注2  電子回折(Electron Diffraction, ED)
試料に電子線を照射し、得られる回折信号から試料の構造状態に関する情報を得る分析手法。非晶質試料に対しても分析が行われるが、本研究では厚さサブマイクロメートルの結晶試料に対して電子回折実験を行うことで、原子配列の周期性に対応した結晶構造情報を抽出した。電子線と分子の相互作用の大きさは、X線と分子との相互作用の大きさよりはるかに大きいことから、本研究ではEDによって局所的な領域からの情報抽出が可能となった。

注3  単分子原子分解能時間分解電子顕微鏡法(SMART-EM)
原子1つ1つを区別して観察可能な性能を持つ透過電子顕微鏡(TEM)に基づいた、新しいイメージング分析手法。中村教授らの研究グループにより独自に開発された手法で、カーボン材料を担体とすることで有機分子を長時間安定して観察することが可能である。透過電子顕微鏡は光より波長の短い電子線を用いる顕微鏡で、物質を透過してきた電子線により像を結ぶことによって物質の形状を視覚的に知ることができる。近年の収差補正技術の進歩とカメラの高速化により、有機材料の観察に適した低加速電圧を用いたTEMにおいても原子分解能でのミリ秒高速撮影が可能になった。静止画に比べて訴求力の高い映像を利用することで、化学現象を映像として撮影して解析する「映像化学」の確立が見込まれる。

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