がんの早期診断等に応用可能な「分子ニューラルネットワーク」の構築

ad

2022-10-20 東京大学生産技術研究所

○発表者:

奥村 周(研究当時:東京大学 工学系研究科 博士課程)

藤井 輝夫(東京大学 総長/研究当時:東京大学 生産技術研究所 教授)

アントニー ジュノ(東京大学 生産技術研究所 国際研究員)

○発表のポイント:

◆「DNAコンピューティング」では、一般的なコンピュータで用いる0と1の代わりに、4種類の塩基ATCGで情報を表現し、DNA分子の生化学反応をとおして演算を行う。今回、miRNA 分子を入力とする新たな計算回路として「分子ニューラルネットワーク」を構築した。

◆DNAコンピューティングに酵素反応を組み込むことにより、低濃度のmiRNA入力パターンの分類を可能にした。多数の極小の液滴内部で反応を行い、それぞれ濃度の異なるmiRNAに対する反応結果を網羅的に捉えることで、計算回路の性能評価を行った。

◆本手法に基づいて、miRNAを始めとするがんを含む疾患のバイオマーカーを対象とする分子ニューラルネットワークを設計すれば、低侵襲の早期診断や予後診断に用いることができる。

○発表概要:

東京大学 工学系研究科の奥村 周 大学院生(研究当時、現株式会社東芝研究開発センターフロンティアリサーチラボラトリー)、東京大学 生産技術研究所の藤井 輝夫 教授(研究当時、現東京大学 総長)、アントニー ジュノ国際研究員は、miRNA(注1)濃度を入力とする多層の分子ニューラルネットワークを実装することに成功した。さらに、極小の液滴を生成する装置により、含まれるmiRNA濃度の異なる大量の液滴を生成し、液滴中の反応を調べることで、その性能を網羅的に明らかにした。

具体的な機能を有するネットワークとして、(1)2つの入力濃度の線形和を識別するネットワーク、(2)入力の中に10種類のDNAのうち5種類以上のDNAが入っているかを判定する多数決判定ネットワーク、(3)2入力2段階分類器、すなわち2つの入力からなる濃度パターンについて2段階の分類すなわち3つのカテゴリへの分類を行う多層ネットワークなど、高度な機能を有する計算回路を構築し、実装した。

これらの化学反応からなる計算回路によって、診断に必要な複数のmiRNAの濃度の和や濃度比などのパターンを分子による計算のみで実行できるようになった。試料中に含まれるmiRNAの濃度計算が可能な本コンピューティング回路は、体液診断等による低侵襲的な診断に応用可能である。複数種のmiRNAを含む試料を対象とする計算回路を本手法に基づいて設計すれば、がんの早期診断や予後診断にも用いることができる。

○発表内容:

DNAはA(アデニン)T(チミン)C(シトシン)G(グアニン)の4種類の塩基が鎖状に並んで結合した構造をしており、対応する塩基の並び順でできているもう一本の鎖と結合することで、二重らせん構造をとる。近年、合成技術の発展により、人工的に合成したDNAを情報媒体とする研究が盛んに行われている。中でも、DNAの生化学反応によって濃度や配列などの分子情報の計算を行う技術はDNAコンピューティングと呼ばれ、ニューラルネットワーク構造の構成単位である線形分類器(注2)が先行研究にて発表されている。しかしながら、これまでに提案されてきたDNAコンピューティングによる線形分離の化学反応回路は、酵素を使わない、DNAの置換反応のみで組み立てられた回路であった。低濃度域の分子演算が困難なこと、線形分類器の分類境界付近の性能が低いことや、中間層の配列があらかじめ入れておかなければならないことに起因する、化学反応の漏れに関する脆弱性が課題であった。

今回、本研究グループはPEN DNA toolbox(注3)を用いて、DNAと酵素を利用した化学反応ベースの線形分類器の構築および、線形分類器を組み合わせた多層構造の分子ニューラルネットワークの構築を行った。PEN DNA toolboxはDNAと3種類の酵素(ポリメラーゼ・エキソヌクレアーゼ・ニッカーゼ)を組み合わせた、人工化学反応系を構築するためのツールボックスである。テンプレートDNAと酵素を組み合わせることにより、入力のDNA濃度を出力となるインジケータDNAの濃度で表現することが可能な生化学反応回路を構築することができる。このDNA反応回路は、おおまかに、weighted sumの生化学反応回路と、activation(threshold function)の生化学反応回路から成り立つ。Activationの回路は、本研究グループの先行研究の双安定スイッチ(注4)をベースにしている。

Weighted sumの回路は、入力の濃度の重み付き線形和の計算を行う。この時、正の重みづけでは、入力配列はインジケータ配列に変換する化学反応が行われ、逆に負の重みづけでは、疑似テンプレートに変換される化学反応が行われる。入力配列は複数設定することが可能であり、変換効率を調整する疑似テンプレートを同時に入れることにより、任意の重みづけをすることが可能となる。従来の線形分類器と異なり、酵素反応を利用した化学反応回路では、中間層となるインジケータDNAを反応開始後に合成する。それゆえに、より化学反応のリークの少ない、ロバストな反応回路を実装できる。

上記の線形分類器の動態を高解像度で解析するために、藤井 輝夫 研究室で開発した極小液滴(注5)プラットフォームによる、ハイスループット解析を行った。極小液滴は、細かい流路がパターニングされたポリジメチルシロキサン(PDMS)とガラスを張り合わせたマイクロ流体デバイスによって生成され、生化学反応回路のマイクロスケールの化学反応場としての役割を果たしている。送液の比率を変えながら流すことにより、一度の実験で、入力濃度が一つ一つ異なるサンプルを数千から数万ほど生成することができる。

この技術を用いて、まずDNA濃度平面を分割する線形分類器を構築し、重みづけとバイアスの調整を行った。その結果、変換テンプレートと疑似テンプレートの濃度比をコントロールして正の傾きの濃度を調整できることを確認した。また、温度をコントロールすることで、負の線形分類器の傾きを調整できることを示した。さらに、疑似テンプレート濃度を調整することで、バイアスの値をコントロールできることを示した。また、この時の線形分類器の閾値は数百pM(モル濃度)、マージンは数十pM(モル濃度)であり、従来DNA線形分類器と比較して、低濃度の閾値を設定可能、かつ分類境界付近の分類性能を大幅に向上できることを示した。

また、miRNAの濃度が一定以上一定未満のときのみ、インジケータDNAが増幅する多層回路を構築し、疑似テンプレート濃度で幅を調節することを確認した。

10種類のDNAのうち、半数以上の種類のDNAがサンプル中に入っているかどうかを判定する多数決回路を実装した。さらに、この多数決回路と負の線形分類器とを組み合わせることにより、特定の核酸が入っている時のみインジケータDNAが増幅しない動態を示す、拒否権の性質を持たせることに成功した。最後に、前述の線形分離の境界線の符号が正の線形分類器と、符号が負の線形分類器とを並列化し、さらに分類後の背反領域を出力する、3層目の化学反応回路を連結した多層の化学反応ネットワークを構築した。多層化させたネットワークにより、濃度平面を3分割する動態を実装することができた。

本研究で開発した分子ニューラルネットワークは、miRNAをはじめとしたバイオマーカーを対象とする、がんなどの疾患の早期診断に応用することができる。miRNAは体液中から採集可能なRNAの一種であり、近年、リキッドバイオプシーのマーカーとして注目を集めている。しかし、体内中のmiRNA濃度は微量であること、さらに、1種類のmiRNAの濃度からがん診断を行うことは困難であり、複数のmiRNAをマーカーとして使用することが求められており、診断技術の実用化のハードルとなっている。本技術を応用した生化学反応回路をベースとして、がんに関連する数十以上のmiRNAを入力とする診断用化学反応ネットワークを構築し、化学反応によって一度で複数のmiRNA濃度を同時計算することで、診断時間とコストの大幅な短縮が可能となり、miRNAを利用した診断技術の実用化につながっていくことが期待される。

本研究は、文部省科学研究費 特別研究員奨励費(18J22815)、特別研究員奨励費(17F17796)、研究拠点形成事業(Core-to-Core Program)、French ANR (grant SmartGuide)、Japanese MEXT studentship、ERC (CoG ProFF 647275 ならびに StG MoP-MiP 949493)の支援を受けてなされたものである。

○発表雑誌:

雑誌名 :「Nature」(10月20日)

論文タイトル:Nonlinear decision-making with enzymatic neural networks

著者 :S. Okumura, G. Gines, N. Lobato-Dauzier, A. Baccouche, R. Deteix, T. Fujii, Y. Rondelez & A. J. Genot*

DOI番号 :10.1038/s41586-022-05218-7

○問い合わせ先:

<研究に関すること>

東京大学 生産技術研究所

国際研究員 Anthony Genot(アントニー ジュノ)

学術専門職員 岩本 慶子(イワモト ヨシコ)

<報道担当>

東京大学 生産技術研究所 広報室

○用語解説:

(注1)miRNA

20塩基程度(6nm前後)の長さを持つ、小さなRNA。タンパク翻訳機能を持たないが、遺伝子発現の調整を行う重要な役割を持ち、血液や尿などの体液から採取可能である。近年、特定の種類のmiRNAの増減が、がんなどの疾患に関連することがわかってきており、有用な診断指標として注目を集めている。

(注2)線形分類器

N次元空間をN-1次元の超平面で分割する分類器のこと。ニューラルネットワークの構成単位として利用される。

(注3)PEN DNA toolbox

PEN DNA toolboxは藤井研究室とロンドレーズ研究室の共同研究で開発された生化学反応のアセンブリのためのツールボックスである。ポリメラーゼ、ニッカーゼ、エクソヌクレアーゼの3種類の酵素を組み合わせることで、2種類の異なるDNAの濃度が交互に振動するプレデタープレイ振動子やDNAの双安定スイッチなどの複雑な動態をインジケータDNAと呼ばれる、出力を表現する人工DNAの濃度変化で表現することが可能である[1][2]。

[1] T.Fujii et al. “Predator-Prey Molecular Ecosystems” ACS Nano 7 (1), 27-34, 2013

[2] K.Montagne et al. “Boosting functionality of synthetic DNA circuits with tailored deactivations” Nature communications 7, 13474, 2014

(注4)双安定スイッチ

インジケータとなるDNA配列の濃度によって増幅、もしくは非増幅を行うスイッチ回路[2]。インジケータDNAの指数関数増幅を示す自己増幅テンプレートと、インジケータDNAの減少の役割をもつ、疑似テンプレートを同時に加える。この疑似テンプレートは、インジケータDNAが自己増幅テンプレートによる自己増幅反応に関与しない(=不活化)ようにさせる効果があり、特に低濃度にてインジケータDNAの減少速度を大きくする。これに適当な濃度の自己増幅テンプレートを加えると、インジケータDNAは低濃度の時と高濃度の時で、減少速度と増幅速度のパワーバランスが逆転するような化学反応系を設計することができる。つまり、低濃度域では減少の方が強く、高濃度域では増幅の方が強くなる。この時、双方向の速度が同じになる点(濃度)が存在し、この点が双安定スイッチの閾値となる。この点は漸近安定ではなく、この点より高濃度であれば高濃度側の安定点、低濃度であれば低濃度側の安定点に推移する。

(注5)極小液滴

またはマイクロ液滴とも呼ばれる、数十マイクロメートルスケールの微小液滴のこと。オイルの中に界面活性剤を入れ、水溶液と合流させることでラプラス圧によりマイクロ液滴が生成される。本研究では液滴をマイクロリアクターとして用いており、生成のためのマイクロ流体デバイスの合流部の上流に複数の水溶液の流入口があることが特色である。水溶液の合計圧力を一定にしながら、複数の水溶液にかける圧力比を線形的に変化させていくことにより、様々な混合レートの水溶液を内包する液滴を大量に生成することが可能となる。得られた極小液滴は専用のチャンバの中に単層で封入されたのちに加熱され、その蛍光強度を見ることにより、それぞれの液滴の入力濃度、出力濃度を測定する[3][4]。

[3] A.J.Genot et al. “High-resolution mapping of bifurcations in nonlinear biochemical circuits” Nature Chemistry 8, 760-767, 2016

[4] A. Baccouche et al.”Massively parallel and multiparameter titration of biochemical assays with droplet microfluidics” Nature Protocols, 12, 1912-1932, 2017

○添付資料:

がんの早期診断等に応用可能な「分子ニューラルネットワーク」の構築

図1 本研究で開発したDNA線形分類器の概要。入力DNA、もしくはmiRNA濃度(X1およびX2と表記される)に閾値を設ける。この化学反応では、一定濃度以上であれば出力DNAであるαが増幅される。入力の濃度が一定未満であれば、増幅が起きない。

奥村さん図2.jpg

図2 a)極小液滴観察のためのプラットフォームの模式図。X1とX2は、それぞれ異なる種類のDNAもしくはmiRNAを表す。ここでは、3種類の溶液をマイクロ流体内部で極小液滴化した。液滴の中のX1およびX2の組成は、圧力コントローラを用いて、加える圧力を変化させることで制御した。液滴を回収したのち、イメージング用のチャンバに移した。生成した液滴を単層にして観察するために、シリコンチャンバー内で液滴を単層化した。このチャンバはシリコンとガラススライドから構成されており優れた熱伝導性、機械的剛性、光観測性を有している。加熱素子と接続されており、チャンバ内で均一な等温を作り出すことができる他、線形性に優れた温度勾配を作り出すことができる。b)顕微鏡で観察された液滴の顕微鏡写真。それぞれの蛍光の色が異なる入力の濃度、および出力の濃度と紐づけられており、極小液滴の数だけのパターンを一度の実験で網羅的に解析することができる。

奥村さん図3.png

図3 多層化システムのハイスループット解析。入力のDNAの濃度を示す2色と、OutputのDNAの濃度を示す3色、合計5色の同時観察を行い、インキュベーションの時の温度は45℃の等温で行った。蛍光観察画像から約25000液滴を解析してプロットを行った。濃度平面を3分割する動態を確認することができる。

1601コンピュータ工学
ad
ad
Follow
ad
タイトルとURLをコピーしました