量子の世界に「傷跡」を残す数理モデルを無限に構成する方法を発見

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2020-05-08 東京大学

柴田 直幸(物理学専攻 博士課程2年)
吉岡 信行(現:理化学研究所 特別研究員/研究当時:物理学専攻 博士課程大学院生)
桂 法称(物理学専攻 准教授)

発表のポイント

  • 直感に反して熱平衡化しない「量子多体傷跡状態」と呼ばれる状態を持つ新たな数理モデルを、無限に構成する方法を発見した。
  • 乱れがあり対称性の低いモデルでの量子多体傷跡状態を初めて厳密に示し、より一般的な状況でも傷跡状態が生じうることを明らかにした。
  • 本研究は、今後の量子多体傷跡状態に関する研究について新たな方向性を開拓するだけでなく、量子系の熱平衡化に関する本質的な理解を促進する。これにより、物性論から工学まで幅広い応用をもつ統計力学の基盤の理解を深めることに寄与することが期待される。本研究成果は、Physical Review Letters 誌に掲載決定され、さらにEditors’ Suggestion に選ばれた。

発表概要

温水の中に氷を入れると、やがて氷が解け一様な冷水へと落ち着くように、自然界に存在する通常の物質は、時間とともに然るべき状態へと落ち着いていきます。この過程は熱平衡化と呼ばれ、マクロな系で普遍的に見られる現象であると信じられてきました。ところが、近年、異様な長時間のあいだ熱平衡化しない量子多体系(注1)が実験的に発見されたことを契機として、熱平衡化が著しく遅い、あるいは全く起こらない「量子多体傷跡状態(quantum many-body scar states)」と呼ばれる不思議な状態についての理論的研究が盛んに行われるようになりました。量子多体傷跡状態は、熱平衡化を示さないという点で、従来の統計力学の常識に反しているうえ、中には「温水中の氷が解けたり凍ったりを繰り返す」ような異様な振る舞いをするものもあり、大きな注目を集めています。

東京大学大学院理学系研究科博士課程の柴田直幸大学院生、吉岡信行大学院生(研究当時)、および桂法称准教授は、オンサーガー(注2)代数と呼ばれる数学的構造を応用して、従来報告されてきたものとは異なる機構で量子多体傷跡状態が生じる模型が構成可能であることを示しました。従来の量子多体傷跡状態の模型は並進対称性(注3)と呼ばれる構造を有する乱れのない模型が主流でしたが、本研究ではある種の乱れに対しても安定な量子多体傷跡状態を世界で初めて厳密に示しました。

この研究により、今後の量子多体傷跡状態や熱平衡化に関する研究について新たな方向性が開拓され、それらの分野のさらなる発展につながることが期待されます。

発表内容

【研究背景】
周囲から完全に断絶されているためにエネルギーが保存する、孤立した量子多体系がどのようなメカニズムによって熱平衡状態に至るのかという問題は、ミクロな量子力学とマクロな統計力学を繋ぐ非常に重要な問題として古くから認識され、精力的に調べられてきました。理論的に熱平衡化を説明する機構として、「エネルギー固有状態は全て熱平衡状態である」とする固有状態熱化仮説(Eigenstate Thermalization Hypothesis, ETH)と呼ばれる仮説があります。ETHが成立することは多くの非可積分系(注4)と呼ばれる系で確認されており、また並進対称な局所相互作用する系ではそれより弱い「(全てとは限らない)ほとんどのエネルギー固有状態は熱平衡状態である」という形で証明されています。しかし、近年、熱平衡化が極めて遅い実験系が報告されたことを受けて、非可積分系にも関わらずETHを満たさない系に大きな注目が集まっています。このような系における熱的でない特異な状態を量子多体傷跡状態と呼びます。この例外的な状態を理解することは、熱平衡化の機構をより深く解明するために重要ですが、一般的な構成手法を含めた全容はいまだ謎に包まれています。これまで、傷跡状態が生じる模型は理論的にいくつか個別に提案されてきましたが、並進対称性を仮定したものが主流でした。また、この特別な空間構造が傷跡状態の存在のために本質的に重要なのか、などといった問いにも答えのない状況でした。

【研究内容】
本研究グループは、今まで提案されてきたものとは異なる新しい機構で量子多体傷跡状態が生じる数理モデルを構成しました。この構成において重要な役割を果たすのが、オンサーガー代数と呼ばれる数理的概念で、統計力学では非常に有名な2次元イジング模型が初めて厳密に解かれた際に、ラルス・オンサーガーによって見出された構造です。オンサーガーによる厳密解以降、オンサーガー代数は物理学の問題にはあまり積極的には用いられてきませんでしたが、本研究ではそれを量子多体傷跡状態の研究に上手く応用しました。具体的な構成の出発点となるのは、オンサーガー対称性を持つ量子多体系の数理モデルです。これ自体は可積分な模型であり、熱的でない固有状態を厳密に書き下すことができます。この模型に対して、可積分性を破壊するが非熱的な固有状態は残すような摂動(注5)を加えることにより、熱平衡化せずに完璧な周期的振動を繰り返す傷跡状態が構成可能であることを示しました。

加える摂動は並進対称性を有しない乱れがあるようなものでもよく、そのような乱れに対しても安定な傷跡状態を厳密に構成したのは本研究が初めてです。これにより量子多体傷跡状態がより一般的な状況でも生じうることが分かりました。また、スピン量子数と呼ばれる数を任意の整数もしくは半奇整数にとることができたり、より多くの傷跡状態が現れるようにできたりなど、極めて柔軟に一般化できるという点も従来提案された模型にはない特長です。

【研究の意義】
実験による観測を契機として生まれた、最近の量子多体傷跡状態の研究の潮流は、熱平衡化のメカニズムの解明に向けて一石を投じるものです。本研究は今後の量子多体傷跡状態や熱平衡化に関する研究の新たな方向性を開拓し、それらの分野のさらなる発展を促すことが期待されます。例えば、今後の方向性として、可積分な模型を出発点として適当な摂動を加えるという本研究の構成法を別の模型に応用することが考えられます。また、並進対称性のない状況下では証明されていない弱いETHとの関連性も調べていきたいと考えています。

図 1 量子多体傷跡状態のイメージ。水色の球の表面で表された状態空間の中で、熱平衡化しない傷跡状態(図のオレンジ色の小さい丸)は、他の熱的な状態から分離した部分空間上で周期的運動を繰り返す。

図 2 本研究の数理モデルの全固有状態エネルギーとエンタングルメント・エントロピー(EE)。ほとんどの状態のEEは、体積則と呼ばれるスケーリング則(上部の山なりのカーブ)を満たす一方で、下部の赤丸で示されている量子多体傷跡状態はそれらから完全に分離している。

図 3 さまざまな初期状態から出発した量子状態の、初期状態とのフィデリティ(状態の似ている度合いを表す量)の時間発展。|1010…>やrandomと表記された状態を含む、ほとんどの状態は急速に0に減衰し熱平衡に達するが、量子多体傷跡状態(|ψ(0.1, 1.0, 2.0)>)は周期的運動を繰り返し熱平衡化しない。

発表雑誌

雑誌名
Physical Review Letters論文タイトル
Onsager’s Scars in Disordered Spin Chains

著者
Naoyuki Shibata *, Nobuyuki Yoshioka, and Hosho Katsura

DOI番号

10.1103/PhysRevLett.124.180604

論文URL

https://journals.aps.org/prl/abstract/10.1103/PhysRevLett.124.180604

用語解説

注1 量子多体系

量子力学に従う多数の粒子が相互作用しあう系のこと。

注2 ラルス・オンサーガー/Lars Onsager (1903 – 1976)

1ノルウェーで生まれ、アメリカで活躍した理論物理学者および理論化学者。2次元イジング模型の厳密解を初めて示した。「オンサーガーの相反定理」の発見の功績により、1968年、ノーベル化学賞を受賞。

注3 並進対称性

空間的な並進操作に対して系が不変であること、すなわち、空間的に均一であること。

注4 非可積分系

無限系であっても保存量が高々有限個しかないような系のこと。逆に、十分な数の保存量が存在することによって系の詳細が調べられる系を可積分系という。

注5 摂動

運動を定める主要な部分に副次的な項の影響が加わり、元の運動がかき乱されること。また、その副次的な項のこと。

―東京大学大学院理学系研究科・理学部 広報室―

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