1秒間に約1億回の計測が可能な分子分光法を開発~世界最高速の赤外分光法を実現~

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2020-09-01 東京大学

川合 暁(物理学専攻 修士課程2年生(研究当時))
橋本 和樹(フォトンサイエンス研究機構 特任研究員)
道垣内 龍男(浜松ホトニクス株式会社中央研究所 研究員)
Venkata Ramainh Badarla(フォトンサイエンス研究機構 特任助教)
今村 翔之(物理学専攻 修士課程2年生)
枝村 忠孝(浜松ホトニクス株式会社中央研究所 副研究室長)
井手口 拓郎(フォトンサイエンス研究機構 准教授)

発表のポイント

  • 毎秒80,000,000スペクトルの速さで分子振動の情報を計測可能な赤外分光手法を開発した。
  • 小さな雑音下で大きな信号を取得できる手法を開発することで、従来の最高速手法に対して約100倍の計測速度の向上を実現した。
  • 分子を対象とする広範な基礎科学、および、産業において、高速現象の解明や多数の計測による統計的な解析への利活用が期待される。

発表概要

光による計測は、物質を壊さずに分析できるという特徴を持っています。特に、分子の種類を見分けることができる赤外光を用いた分光計測(注1)は、物質の成分を非破壊的に調べることに利用できます。赤外分光計測を高速化することができれば、短時間内に起こる現象の分析や、短時間内に多くの計測を要する統計的な分析など、計測の応用範囲が広がります。現存する最も速い赤外分光手法を用いると、1秒間に約100万回の計測が可能でした。今回、東京大学大学院理学系研究科の井手口拓郎准教授らは、従来手法よりも約100倍速い計測を可能にするタイムストレッチ赤外分光法(time-stretch infrared spectroscopy, TS-IR)の開発に成功し、1秒間に約1億回の計測を実現しました。この手法は、様々な波長の光を含んだ超短パルス光(注2)を時間的に引き延ばすことで、光の波長情報を時間波形に焼き直して、その時間波形を計測することで分光を行う手法です。1つの光パルスで1回の分光計測が可能であるため、1秒間に約1億個の光パルスを出力するレーザーと約50億分の1秒で応答する高速光検出器を用いることで、上記の高速計測を実現しました。この超高速赤外分光手法により、分子を対象とする様々な基礎研究、産業での新たな応用可能性が開かれると期待されます。

発表内容

私たちが生活している世界は物質で構成されています。光を用いた計測は、非破壊的に物質を分析する手法として広く用いられる手法です。中でも、赤外光を用いた分光計測は、分子の振動に由来する吸収を計測するため、物質の成分を調べる目的において特に重要です。広い赤外光スペクトルを計測する手法としては、フーリエ変換赤外分光法(Fourier-transform infrared spectroscopy, FT-IR)(注3)が広く知られており、その発明と商業化以来、約50年間にわたり標準的手法として利用されています。標準的なFT-IRは1秒間に1スペクトル程度の計測速度であるため、主に、変化のない静的な試料の計測に用いられています。近年、光周波数コム(注4)と呼ばれる超短パルスレーザーを用いて、赤外分光の計測を劇的に高速化するデュアルコム分光(注5)と呼ばれる計測手法の開発が盛んに行われ、1秒間に100万スペクトルの計測が可能であることが示されてきました。しかしながら、信号対雑音比(注6)を考慮すると、その計測速度は頭打ちであり、この手法ではこれ以上の高速化を見込むことができません。

東京大学大学院理学系研究科附属フォトンサイエンス研究機構の井手口拓郎准教授らは、信号対雑音比の高い(雑音に対して信号が大きい)波長掃引型の赤外分光法である、タイムストレッチ赤外分光法(time-stretch infrared spectroscopy, TS-IR)を開発し、デュアルコム分光法よりも約100倍速い、1秒間に約1億スペクトルの計測が可能であることを実証しました(図1、図2)。

1秒間に約1億回の計測が可能な分子分光法を開発~世界最高速の赤外分光法を実現~

図1:タイムストレッチ赤外分光の概念図。

図2:タイムストレッチ赤外分光計のシステム概略図。

タイムストレッチ分光法は、パルス光のスペクトル形状をパルスの時間波形に焼き直して、その時間波形を計測することによりスペクトルを計測する手法です。この手法を実現するには、(1)フェムト秒パルス光、(2)フェムト秒パルス光をナノ秒パルス光に時間的に伸張する機構、(3)ナノ秒パルス光の波形を計測する高速光検出器の3つの要素が必要です。赤外領域ではこれらのすべての要素における技術が不足していたため、これまで本手法は実現されていませんでした。本研究では、要件を満たす3つの先端技術、(1)自作の光パラメトリック発振器(注7)による赤外フェムト秒パルスレーザー、(2)free-space angular-chirp-enhanced delay (FACED)(注8)と呼ばれるパルス伸張機構、(3)浜松ホトニクスが開発した極めて高い応答速度(数ギガヘルツ)を持つ量子カスケード光検出器(注9)を用いることで、この手法を実現しました。開発したシステムの原理検証実験として、有機溶媒であるフェニルアセチレンのC-C三重結合の基準振動の4.7μm帯の赤外吸収スペクトルを毎秒80,000,000スペクトルの速度で明瞭に計測することに成功しました(図3)。

図3:原理検証実験で計測した4.7μm帯のフェニルアセチレンの炭素三重結合の赤外吸収スペクトル。(上)12.5 nsおきに連続的にスペクトルが計測できていることを示す時間波形データ。タイムストレッチ機構により、スペクトルが時間波形として計測されている。(中)一つのスペクトルの拡大図。(下)同じ試料を従来手法(FT-IR)で計測した参照スペクトル。

赤外分光法は様々な科学技術分野の研究開発活動を支える汎用的な標準計測手法の一つです。今回開発した世界最高速の手法は、これまで赤外分光法を利用してきた分野におけるあらゆる計測を高度化するばかりではなく、これまで不可能であった計測を可能にするものでもあります。例えば、ナノ秒からマイクロ秒の時間スケールで不可逆的な構造変化をする分子のダイナミクスを計測することや、単位時間あたりに多くの計測を必要とする分析(広いエリアをスキャンするイメージングや、多数の細胞を計測するフローサイトメトリー(注10)などへの応用が期待されます。今回の原理検証実験では、比較的狭い領域のスペクトルを低い分解能(注11)で取得しています。さらに広い領域のスペクトルを高い分解能で取得できるシステムを開発することで、用途の幅がいっそう広がることが期待されます。一方で、長時間の計測により、極めて広いスペクトルを極めて高い分解能で取得する用途には、従来型のフーリエ変換赤外分光法やデュルコム分光法に分があるため、これらの手法が引き続き用いられることが予想されます。

*本研究は、科学技術振興機構(JST)戦略的創造研究推進事業 さきがけ(JPMJPR17G2)、科学研究費助成事業((17H04852, 17K19071)、光科学技術研究振興財団、村田学術振興財団からの支援を受けて行われました。

発表雑誌

雑誌名
Communications Physics論文タイトル
Time-stretch infrared spectroscopy

著者

Akira Kawai, Kazuki Hashimoto, Tatsuo Dougakiuchi, Venkata Ramaiah Badarla, Takayuki Imamura, Tadataka Edamura, and Takuro Ideguchi*

DOI番号

用語解説
注1 赤外光を用いた分光計測

赤外光(波長が2-20μm帯の光)を用いて物質の種類・状態を特定する手法。単に赤外分光とも呼ばれる。光を物質に当てると、物質によって光は波長ごとに異なる変調を受ける。この性質を利用すると、物質に当てた光を波長ごとに分けて測定することにより、物質の様子を知ることができる。特に、光として赤外光を用いた手法は、その反応の豊かさから、科学・工学・医学でよく利用されている。

注2 超短パルス光

ごく短時間に局在する光のこと。通常、ピコ秒(1兆分の1秒)やフェムト秒(1千兆分の1秒)、あるいはそれ以下の時間幅を持つ光がこう呼ばれる。

注3 フーリエ変換赤外分光法

光の干渉を利用した赤外分光法。はじめに、入力光を2つに分割・再結合して出力するマイケルソン干渉計に広いスペクトルを持つ赤外光を入力し、出力光を光検出器に導入する。次に、干渉計で分割された光の相互遅延量を変えながら光の強度を計測することで、光の自己相関干渉波形を得る。最後に、得られた波形をフーリエ変換することで入力光のスペクトルを得る手法。

注4  光周波数コム

周波数軸上に等間隔に並んだ櫛(コム)状のスペクトルを持つ特殊な超短パルスレーザー光源のこと。応用の範囲が広く、2005年のノーベル物理学賞の対象技術になっている。

注5 デュアルコム分光

光周波数コムを2台用いることで実現するフーリエ変換分光法。繰り返し周波数のわずかに異なるパルスレーザー2台から出射されるビームを空間的に重ね合わせて光検出器で干渉光の強度を計測する。パルス間の相互遅延量が自動的に増加(または減少)するため、高速なフーリエ変換分光が可能である。

注6 信号対雑音比

物理量の測定における、所望の物理量の信号とその他の望ましくない雑音信号の大きさの比のこと。雑音が大きい場合、微弱な信号を観察したい場合や信号の微小な変化を捉えたいときに問題となるため、測定系の設計の際には重要なパラメーターとなる。

注7 光パラメトリック発振器

ある波長の光を、より長い波長の光に変換する装置。非線形光学効果と呼ばれる、物質に光を入射した時の分極が光電場に対し非線形に応答する現象を利用すると、光の波長を変換することができる。光パラメトリック発振器では、非線形光学効果を光共振器内で起こし、長波長光を共鳴増幅させることにより、高強度の長波長光を発生させる。

注8 free-space angular-chirp-enhanced delay (FACED)

超短パルスの時間幅を広げる手法。わずかに並行からずらした2枚の合わせ鏡に、波長ごとに異なる角度でパルス光を入射させると、異なるタイミングで各波長の光が元の位置に戻ってくるため、それを再び一つにすることでパルス時間幅を実効的に広げられる。

注9 量子カスケード光検出器

高速に動作する赤外光検出器。様々な厚さの量子井戸と呼ばれる半導体微小構造が周期的に作製されており、光が入射すると励起した電子が構造に沿って一方向に移動していく仕組みになっている。それによって生まれる電流を測定することにより光検出ができる。

注10 フローサイトメトリー

微小流路に細胞を次々に流し、定点でそれを光計測することによって多量の細胞を短時間のうちに測定する手法。

注11 分解能

スペクトルの細かい構造を識別できる能力。細かなスペクトル構造を識別できることを分解能が高いという。

―東京大学大学院理学系研究科・理学部 広報室―

1700応用理学一般
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