2020-06-17 東京大学
田中 純一(東京大学素粒子物理国際研究センター・教授)
澤田 龍(東京大学素粒子物理国際研究センター・准教授)
発表のポイント
- 東京大学素粒子物理国際研究センター(ICEPP)が運用する「ATLAS地域解析センター」(注1)はCERN & LHC Computingチーム(CERNチーム、注2・3)のメンバーとしてFolding@home(注4)プロジェクトに参加し、計算資源を提供しています。
- Folding@homeは、新型コロナウィルス感染症の治療法を確立する手がかりを発見するために分子動力学シミュレーションによるタンパク質のフォールディング(折りたたみ)の解析を行うボランティア・分散コンピューティングプロジェクトです。
- Folding@homeへの計算資源の提供は、国際協力により行われています。ICEPPが参加しているATLAS実験(注5)のコンピューティンググループは、素粒子・原子核実験のために開発されたWorldwide LHC コンピューティンググリッド環境を用いることで大規模な計算資源をスムーズに提供することを可能にしました。
- CERNで行われている国際的な素粒子・原子核実験グループの多数の計算機センターが、学術研究に用いている計算資源の一部を提供することで、本来の研究を行いながら、同時に新型コロナウィルス感染症対策にもCERNチーム全体としてスーパーコンピュータに匹敵する計算能力を提供しました。
(図1)Folding@homeでシミュレーションしたCOVID-19(新型コロナウィルス感染症)の原因となるウィルスのスパイクとよばれる突起状のたんぱく質の分子構造(CERN提供)
発表内容
新型コロナウィルス感染症の治療法を確立するうえで、ウィルスの基本的な性質を理解することが重要です。世界中で、生化学的な手法、化学的な手法で治療法の発見に迫っています。物理化学的な手法として、分子動力学シミュレーションによりタンパク質のフォールディングを解析する(図1)ために、ICEPPは東京大学大学院理学系研究科のメンバーとともにCERNチームの一員として、4月10日からFolding@homeに参加し、新型コロナウィルスのタンパク質解析に貢献しています。
Folding@homeは分子動力学シミュレーションによりタンパク質のフォールディングを解析するためのボランティア・ 分散コンピューティングプロジェクトです。新型コロナウィルスは、他のウィルスと同様に、宿主細胞の免疫に抵抗したり、宿主細胞の中で増殖するためのタンパク質を持っています。Folding@homeでは、世界中から提供される計算資源を使ってコンピュータシミュレーションを行い、これらのタンパク質の構造をよりよく理解するための解析を行っています。これは新薬開発のための重要なステップです。
Folding@homeの計算能力は、4月14日時点で約2.4エクサフロップスに達しています。これは、世界のスーパーコンピュータの上位500の計算能力の合計(注6)を上回るものです。CERNとLHC実験のための世界各地の計算機センター(図2)は計算能力の一部をFolding@homeに常時提供し、CERNチームとして6月15日の時点で10番目 (注4)に大きな貢献をしています。ICEPPの「ATLAS地域解析センター」はATLAS実験グループとしてこのチームに計算能力を提供しています。ATLAS実験グループはピーク時に合計約8万CPUコアを提供(図3)し、CERNチームの約30%の貢献をしています。ICEPPはCERNチームの約1%の貢献を行っています。
(図2)Google Earthを用いたATLAS実験のWorldwide LHC Computingモニター。世界規模で分散した計算資源を接続して仮想的な大規模なひとつの計算機として稼働している。緑色の線はデータのやりとりを示す。本センター(東京)もグリッドの中でLHCデータ解析を行っている。
(図3)各国のATLAS実験に参加する計算機センターがFolding@homeジョブのために利用したCPUコアの数。Folding@homeプロジェクトへは4月初旬に参加し始めた。本センターはFRグループに所属している。CERNチームとしてはこの約3倍の計算資源を提供している。
CERN発表関連
CERNのプレスリリース:
News Topic, CERN contributes computers to combatting COVID-19
用語解説
注1) ATLAS地域解析センター:ATLAS実験で発生する大量のデータを解析するための日本の拠点であり、その計算機システムは2007年(平成19年)1月から稼働している。CERNと本学との覚書に基づいて、WLCGというグリッドのための計算資源を提供するとともに、ATLAS日本グループのメンバーが物理解析を行うためのシステムとして用いられる。
注2) 欧州合同原子核研究機構(CERN):ヨーロッパ諸国により設立された素粒子物理学のための国際研究機関。設立は1954年。所在地はスイス・ジュネーブ郊外。加盟国はヨーロッパの23カ国。日本は、米国、ロシア等とともに、オブザーバー国として参加している。世界の1万人以上の素粒子物理研究者が施設を利用している。
注3) Worldwide LHC コンピューティンググリッド(WLCG):CERNが採用した実験参加国が平等に負担し提供する世界分散解析の構想・計画。この構想・計画を実現するために導入されたのがコンピューティンググリッド技術である。計算機センターに設置された計算機群にグリッドミドルウェアと呼ばれるソフトウェアを導入することで、それらの計算機がある仮想的な単一の計算機システムの一部であるように見せることができる。
注4) Folding@home:世界中にあるパーソナルコンピュータなどの計算機を、分散コンピューティング技術によって研究に利用するプロジェクトのひとつである。このプロジェクトでは、分子動力学シミュレーションによりタンパク質の立体構造の分析を行い、その知見を治療法の開発に役立てることが目的である。本発表では特に新型コロナウィルスを形作るタンパク質の構造を解析するプロジェクトを意味する。提供した計算資源はウェブサイト”Folding@home Team Statistics”に公開されており、CERN & LHC Computing(team id 38188)は月別カテゴリーで6月15日、10位にランキングされている。
注5) ATLAS実験:フランスとスイスの国境にあるCERNのLHC(大型ハドロン衝突型加速器)に設置されたATLAS測定器で行われている実験。13-14TeVという高い衝突エネルギーによって新粒子を作り出し、原始宇宙の謎に迫ることを目的としている。本プロジェクトはCERN加盟国による共同事業で、LHCとその測定器の初期投資だけで約5,000億円の費用がかかり、日本はオブザーバー国ながらも、建設費用の一部負担だけでなく、加速器、実験装置の製造、データ解析、研究など様々に協力してきた。特に、日本が協力したATLASは、衝突で生じた新粒子の崩壊をとらえる巨大な測定器で、2012年夏、同じLHCのCMS測定器の結果と合わせ、ヒッグス粒子と見られる信号を見つけたと発表し、世界中で大きなニュースとなった。
ATLAS日本グループは、東京大学、高エネルギー加速器研究機構、筑波大学、お茶の水女子大学、早稲田大学、東京工業大学、東京都立大学、信州大学、名古屋大学、京都大学、京都教育大学、大阪大学、神戸大学、九州大学、以上の14大学、約150人の研究者(大学院生を含む)からなる。
注6) 世界のスーパーコンピュータの計算性能上位500:線形代数の数値計算をベンチマークとするコンピュータの計算性能の上位500が毎年2回(6月と11月)公開される(ウェブサイト”TOP500″)。2019年11月の発表では米国オークリッジ国立研究所にあるサミットが約0.15エクサフロップスを記録し世界最速、日本では産総研のABCIが8位にランキングされている。1エクサフロップスは1秒間に100京回の浮動小数点演算が可能なことを示す。上位500のすべての計算機の性能を合わせると約1.6エクサフロップスである。