超高速時間分解電子顕微鏡で音響波の生成メカニズムを解明
2020-06-12 理化学研究所
理化学研究所(理研)創発物性科学研究センター電子状態スペクトロスコピー研究チームの中村飛鳥基礎科学特別研究員、下志万貴博研究員、石坂香子チームリーダーらの共同研究グループは、超高速時間分解電子顕微鏡[1]を用いて、結晶構造にせん断歪み[2]を持つバナジウムテルル化物(VTe2)の薄片において、ナノメートル(1億分の1メートル)、ピコ秒(1兆分の1秒)の時空間スケールで伝搬するせん断音響波[3]が、光誘起構造相転移[4]をきっかけとして生成されることを明らかにしました。
本研究成果は、超高速かつ微小な領域における音響波の新たな生成メカニズムを明らかにするもので、今後の高速音響デバイス[5]の開発に役立つと期待できます。
音波や地震波などに代表される音響波は、物質内における音や熱の輸送を担っており、これまでの研究成果は超音波デバイス[5]や熱流制御などに利用されています。近年ではフェムト秒レーザー[6](1フェムト秒は1,000兆分の1秒)により、高速な音響波の制御が可能となり、より高度な応用への期待が高まっています。
今回、共同研究グループは、VTe2薄片にフェムト秒レーザーを照射し、この物質の結晶構造を瞬間的に変化させました。その後の様子を超高速時間分解電子顕微鏡で観察したところ、通常の物質ではほとんど生成されることのないせん断音響波を観測しました。このせん断音響波は、VTe2の結晶構造が持つ特有のせん断歪みが光により高速制御できることを反映しており、同様のメカニズムをさまざまな歪みを持つ物質に適用することで、微小高速領域における音響波の制御の可能性が広がると考えられます。
本研究は、科学雑誌『Nano Letters』(5月28日付)に掲載されました。
光誘起構造相転移とせん断音響波の時空間スケール
背景
音波や地震波など、物質中の変形が伝搬する波を音響波といいます。音響波は、物質中における音や熱の輸送を担っており、その制御は物理学の重要な研究課題の一つとなっています。特に近年では、フェムト秒レーザー(1フェムト秒は1,000兆分の1秒)を用いることにより、ナノメートル(1億分の1メートル)、ピコ秒(1兆分の1秒)といった超高速かつ微小な時空間スケールにおける音響波の制御が盛んに研究されています。
一般的には、フェムト秒レーザーを物質に照射した場合、照射領域の温度が瞬間的に上昇します。その結果、熱膨張によって物質中に歪みが生じ、この歪みが音響波として伝搬することが知られています。しかし、代表的な金属である金などの物質では、図1(a)のように等方的に熱膨張が起こるため、図1(b)のようなせん断歪みを持つ音響波を生成することが困難でした。
図1 結晶に生じる歪みの模式図
(a)通常の金属や半導体を熱した場合に生じる等方的な歪み。
(b)VTe2で見られるせん断歪み。
研究手法と成果
共同研究グループは、480K(約200℃)以下で構造相転移によりせん断歪みを生じる遷移金属ダイカルコゲナイド[7]の一つであるバナジウムテルル化物(VTe2)に着目しました。室温でこの物質の薄片に対してフェムト秒レーザーを照射することで、このせん断歪みを瞬間的に変化させ、その後の様子を超高速時間分解電子顕微鏡で観察しました。結晶の歪みの変化を引き起こす光パルスと、観察用の電子パルスが試料に到着する時間差を制御するポンププローブ法を用いることで、2ピコ秒程度の精度で電子顕微鏡像の動画を得ることができます(図2)。さらに、観察用の電子の回折[8]を利用することにより、膜厚方向に伝搬する音響波の観測が可能になります。
図2 超高速時間分解電子顕微鏡の模式
フェムト秒パルスレーザーを二つに分岐させ、一方を試料の構造変化を引き起こすために用いる。もう一方は電子顕微鏡内の陰極へと照射され、パルス電子線へと変換される。試料を透過した電子線がCCDカメラに記録されることで顕微鏡像を得る。光パルス、電子パルスが試料へ到着するタイミングを調整することにより、ピコ秒の精度で動画を撮影できる。
まず回折された電子の強度の変化を調べたところ、100ピコ秒程度の周期を持つ振動を観測しました(図3a)。この振動の周期を理論計算と比較すると、この振動は結晶のせん断歪みをともなう横波音響波(図3c)であることが分かりました。さらに照射する光パルスの強度を変化させたところ、このようなせん断音響波は、一定以上の強い光パルスを照射した場合にのみ生成されることが分かりました。この強度は、試料が低温の歪んだ状態から高温の歪みのない状態へと、光によって高速変化(光誘起構造相転移)するために必要な閾値と一致しており(図3b)、光誘起構造相転移によるせん断音響波の新たな生成メカニズムが明らかになりました。
図3 光照射したVTe2における回折強度変化と音響波
(a)VTe2における回折強度の時間変化。100ピコ秒程度の周期を持つ振動を観測した。
(b)せん断音響波(オレンジ)に起因した回折強度変化の励起密度依存性。灰色の線は、低温の歪んだ状態から高温の歪みのない状態へ構造相転移が起こる閾値を示す。
(c)せん断音響波の模式図。左のように、波の進行方向(上下)に対して垂直に原子(オレンジの丸)が運動する。これは、右のように、バネを左右方向へと揺り動かした場合の運動に対応している。
さらに、光照射により生じた音響波が薄片に沿って伝わる動画を撮影したところ、音響波の伝わる方向によって音速が大きく異なることが明らかになりました(図4)。この音速を理論計算と比較すると、この音波は上述のせん断歪みを薄片に沿って輸送する特徴的な音響波であることが分かりました。このような音響波は、通常の材料における等方的な熱膨張メカニズムではほぼ生成されないことが知られており、光誘起構造相転移を利用した音響波の新たな生成メカニズムの有用性を示すものです。
図4 VTe2における顕微鏡像の時間変化
VTe2の電子顕微鏡像。黄色から濃い青は電子顕微鏡像の強度(明るさ)を示す。
(a)の緑および青色の線に沿った強度の時間変化。黒色の斜め線が音速に対応している。音響波の伝わる方向によって、音速が4.1km/s、2.8km/sと大きく異なることが分かった。
今後の期待
本研究では、超高速時間分解電子顕微鏡を用いることにより、VTe2における光誘起構造相転移とそれに起因するせん断音響波の生成メカニズムおよび伝搬過程をピコ秒・ナノメートルスケールで明らかにしました。今後、同様にさまざまな構造不安定性を持つ物質を探究することで、より高度で複雑な音響制御が可能になると期待できます。
補足説明
1.超高速時間分解電子顕微鏡
電子顕微鏡では、電子線を観察したい対象に照射し、透過した電子線を拡大、記録することで像を得る。物質の構造を変化させるパルスレーザーと観察用のパルス電子線を用い、両パルスの時間差を制御(時間分解)することで、電子顕微鏡像の動画を得られる。
2.せん断歪み
歪みとは物体の変形を表す量であり、垂直歪みとせん断歪みが存在する。例えば、正方形が長方形に変形するのが垂直歪みであり、ひし形に変形するのがせん断歪みである。
3.せん断音響波
音響波は、音波や地震波など物質中の変形が伝搬する弾性波のことであり、この変形がせん断歪みを伴う場合にはせん断音響波と呼ばれる。
4.光誘起構造相転移
物質の構造が光によって他の構造へと変化(相転移)すること。
5.高速音響デバイス、超音波デバイス
通常人間が聞き取ることができる音響波の周波数は2万ヘルツ程度までであり、これ以上の周波数の音響波は超音波と呼ばれる。フェムト秒レーザーを用いた場合には、10億ヘルツ以上の非常に高い周波数の音響波を生成できる。これは、時間に変換すると数十から数百ピコ秒に対応しており、非常に高速に動作するデバイスへの利用が期待されている。
6.フェムト秒レーザー
パルス幅が数十~数百フェムト秒のレーザー。パルス幅が極めて短いため、非常に高いピークパワー(パルスエネルギー/パルス幅)を持つ。
7.遷移金属ダイカルコゲナイド
バナジウムやモリブデン、タンタルなどの遷移金属と、硫黄、セレン、テルルいずれかのカルコゲン元素が1対2の割合で結合した化合物。組成によってその性質が大きく変化することを特徴とする。
8.電子の回折
電子線を結晶に照射して得られる散乱パターン(電子回折像)から、結晶内の原子の配列の仕方を調べる手法。電子顕微鏡を用いることで、非常に微小な領域からの回折パターンを得られる。
共同研究グループ
理化学研究所
創発物性科学研究センター 電子状態スペクトロスコピー研究チーム
基礎科学特別研究員 中村 飛鳥(なかむら あすか)
研究員 下志万 貴博(しもじま たかひろ)
チームリーダー 石坂 香子(いしざか きょうこ)
(東京大学 大学院工学系研究科 附属量子相エレクトロニクス研究センター 教授)
特別研究員(研究当時) 上谷 学(かみたに まなぶ)
東京大学
大学院工学系研究科 物理工学専攻
博士課程 千足 勇介(ちあし ゆうすけ)
博士課程(研究当時) 李 瀚(り はん)
大阪大学
基礎工学研究科 物質創成専攻
教授 石渡 晋太郎(いしわた しんたろう)
大学院理学研究科 物理学専攻
准教授 酒井 英明(さかい ひであき)
研究支援
本研究は、日本学術振興会(JSPS)科学研究費補助金新学術領域研究(研究領域提案型)「量子液晶の制御と機能(研究代表者:小林研介)」、同基盤研究(B)「超高速電子顕微鏡によるスキルミオンダイナミクスの観測と制御(研究代表者:下志万貴博)」、同挑戦的研究(萌芽)「光渦を用いた固体の新規励起現象の探索(研究代表者:下志万貴博)」、文部科学省光・量子飛躍フラッグシッププログラム(Q-LEAP)技術領域「次世代レーザー」のFlagshipプロジェクト「先端レーザーイノベーション拠点」などの支援を受けて行われました。
原論文情報
A. Nakamura, T. Shimojima, Y. Chiashi, M. Kamitani, H. Sakai, S. Ishiwata, H. Li, and K. Ishizaka, “Nanoscale Imaging of Unusual Photoacoustic Waves in Thin Flake VTe2“, Nano Letters, 10.1021/acs.nanolett.0c01006
発表者
理化学研究所
創発物性科学研究センター 電子状態スペクトロスコピー研究チーム
基礎科学特別研究員 中村 飛鳥(なかむら あすか)
研究員 下志万 貴博(しもじま たかひろ)
チームリーダー 石坂 香子(いしざか きょうこ)
報道担当
理化学研究所 広報室 報道担当