光異性化の”ファントム状態”を暴く~最先端のフェムト秒分光と量子化学計算で化学反応の謎に決着~

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2024-01-05 理化学研究所,北海道大学

理化学研究所(理研)光量子工学研究センター 超高速分子計測研究チームの倉持 光 研究員(研究当時、現 理研 開拓研究本部 田原分子分光研究室 客員研究員)、開拓研究本部 田原分子分光研究室の田原 太平 主任研究員(理研 光量子工学研究センター 超高速分子計測研究チーム チームリーダー)、北海道大学 大学院理学研究院 量子化学研究室の堤 拓朗 アンビシャス特別助教(研究当時)、武次 徹也 教授らの共同研究グループは、光化学の分野で半世紀にわたって謎であった、光異性化の”ファントム状態”を観測し、その構造を明らかにすることに成功しました。

本研究成果は、分子の遷移状態での構造の解明や、それによって得られる反応経路の理解を通じて、化学反応の制御・効率化に貢献すると期待されます。

化学反応では化学結合の開裂や生成に伴って分子の構造が変化し、新しい物質が生まれます。分子が光を吸収して二重結合が回転する”シスートランス光異性化反応[1]“では、二重結合周りの回転が起きる途中に、一瞬だけ二重結合が切れて垂直構造をとる状態が現れると予想されてきました。しかし、その存在の有無は長い間謎で、「ファントム状態(幽霊状態)」と呼ばれていました。

今回、共同研究グループは、光異性化を起こす最も典型的な分子であるスチルベン[2]の誘導体に着目し、理研で開発したフェムト秒(フェムト秒は1,000兆分の1秒)で進む分子の構造変化を追跡できる紫外共鳴フェムト秒誘導ラマン分光法[3]を用いてこのファントム状態を観測することに成功し、最先端の量子化学計算[4]と組み合わせることでその存在と構造を確定しました。

本研究は、科学雑誌『Nature Chemistry』オンライン版(1月5日付:日本時間1月5日)に掲載されました。

光異性化の”ファントム状態”を暴く~最先端のフェムト秒分光と量子化学計算で化学反応の謎に決着~
光化学の分野で半世紀謎であった、光異性化の”ファントム状態”

背景

私たち生物の生命活動や光機能性デバイスの多くは、光によって引き起こされるさまざまな化学反応(光化学反応)によって支えられています。こうした光化学反応の最も代表的なものの一つが、分子が光を吸収してその二重結合が回転する、シスートランス光異性化反応です。この光反応は、私たちの身の回りのさまざまな場面で用いられているだけではなく、最先端の科学技術にも利用される重要な反応です。例えば、私たち動物の視覚は網膜中にあるレチナールタンパク質[5]、ロドプシンの中で起こる光異性化反応を利用しています。また、脳科学の新しい潮流である光遺伝学の中心的なツール、チャネルロドプシン[6]もその活性化に光異性化反応を利用しています。

光異性化反応はこのような広い分野において重要で、半世紀以上にわたって精力的に研究・利用されてきました。この反応では二重結合が切れて分子が回転するので、その途中で一瞬、垂直構造を持った分子が現れるはずです。しかしながら、この垂直状態の存在と構造は長い間明らかにされておらず、「ファントム状態(幽霊状態)」と呼ばれ、大きな謎とされてきました。

研究手法と成果

ファントム状態は超高速で進む光異性化反応の途中に、ほんのわずかな時間だけ現れると考えられています。共同研究グループは、ファントム状態を観測してその構造を明らかにするために、フェムト秒(フェムト秒は1,000兆分の1秒)で進行する分子の構造変化を解析できる「共鳴フェムト秒誘導ラマン分光法」を用いました。この方法では、フェムト秒光パルスによって分子に光反応を開始させた後に、ピコ秒(ピコ秒は1兆分の1秒)光パルスとフェムト秒光パルスを組み合わせた誘導ラマン散乱過程を反応中の分子に起こすことで、高いエネルギー分解能と高い時間分解能を両立させて分子の振動(ラマン)スペクトル[7]の変化を刻一刻と追跡できます。今回、この共鳴フェムト秒誘導ラマン分光法を紫外光領域で行うことができる新しい装置を理研で開発し、ファントム状態の観測に挑戦しました。

共同研究グループが、光異性化を示す最も典型的な分子として知られるスチルベンの誘導体に対して共鳴フェムト秒誘導ラマン分光法の測定を行ったところ、シス体、トランス体のいずれから光反応を始めた場合でも、同一のラマンスペクトルを示す反応中間体がフェムト秒領域に現れることが分かりました(図1)。

また、得られたスペクトルは、回転する二重結合部分の伸縮振動の振動数が大きく低下しているなど、垂直状態に予想される特徴を示していることが明らかになりました。これらはシスートランス光異性化反応の途中で現れる垂直構造を、初めて実験で確実に観測できたことを意味しています。

紫外共鳴フェムト秒誘導ラマン分光によるファントム状態の観測の図
図1 紫外共鳴フェムト秒誘導ラマン分光によるファントム状態の観測
フェムト秒紫外パルス光によってスチルベン誘導体のシス体とトランス体それぞれから反応を開始させた後、1ピコ秒後に得られた誘導ラマンスペクトル。両スペクトルは実験誤差の範囲内で完全に一致する。スペクトルは、垂直状態の決定的な特徴である、大きく振動数が低下した二重結合部分の伸縮振動を捉えている。


共同研究グループはさらに、実験結果を最先端の量子化学計算である第一原理分子動力学計算[4]を用いて解析することで、シス体、トランス体いずれの状態から反応が開始しても確かに同一の垂直状態が生成すること、そしてその振動スペクトルが実験で得られたスペクトルと良く一致することを確かめました(図2)。また理論計算の結果から、光異性化反応が進行する電子励起状態では、分子は単に最もエネルギーが低くなる反応経路をとりながら徐々に構造を変えているのではなく、フェムト秒で進行する構造変化の大きな速度(モーメント)を反映してポテンシャルエネルギー曲面[8]上で反応経路を決めるために、今回観測された垂直状態が生成されることが明らかになりました。

このように、本研究では最先端のフェムト秒分光法と量子化学計算により、光化学の長年の謎であった光異性化反応におけるファントム状態の姿を突き止め、その生成過程の詳細な描像を得ることに成功しました。

スチルベン誘導体光異性化反応の第一原理分子動力学計算の図
図2 スチルベン誘導体光異性化反応の第一原理分子動力学計算
上段)第一原理分子動力学計算により、シス体とトランス体それぞれから反応を開始させて得られた反応中間状態の構造の比較。両者はほぼ同一の垂直構造を示している。水色は量子化学計算により得られた垂直構造の最安定構造。
下段)計算により得られた振動スペクトルは、二重結合部分の伸縮振動の振動数の大きな低下(通常1650cm-1程度が1450cm-1まで低下)を示しており、実験結果をよく再現している。

今後の期待

化学反応では、反応前の分子と反応後の生成分子とを隔てる大きなエネルギー障壁(活性化エネルギー)があります。エネルギー障壁に達するまでの分子の変化は比較的緩やかな一方、エネルギー障壁を越えた後の分子は、一気に生成分子へと変化すると考えられています。このエネルギー障壁を越える瞬間の分子の状態は「遷移状態」と呼ばれ、その電子状態、エネルギー、構造は、反応の速度、収率、分岐比など化学反応の重要な特性に決定的な役割を果たします。このため、遷移状態の構造の決定は、化学における最も大きな課題です。

本研究によりその存在と構造が初めて明らかとなったファントム状態は、これまで実験的に観測されたもののうち、遷移状態に最も近い反応中間状態と考えられます。本研究成果は今後、遷移状態での構造の解明や、それによって得られる反応経路の理解を通じて、化学反応の制御・効率化などに新しい道を切り開くと期待されます。

補足説明

1.シスートランス光異性化反応
二重結合を有する化合物には、二つの置換基が同じ側にあるシス体と、異なる側にあるトランス体があり、シス体とトランス体は互いに構造異性体である。光を照射することによって起こる、シス体からトランス体またはその逆の変換(異性化)をシスートランス光異性化反応という。

2.スチルベン
中央に炭素原子間の二重結合を持ち、それぞれの炭素原子に水素原子とフェニル基が一つずつ結合した構造を持つ化合物。フェニル基はベンゼンから水素1原子を除いた残基が置換基になったもの。二重結合に対してフェニル基が同じ側にある配置をシス型、反対側にある配置をトランス型と呼ぶ。スチルベンに紫外光を照射すると、シス型からトランス型へ、またトランス型からシス型へというように、両方向に異性化反応が起こることが知られている。

3.共鳴フェムト秒誘導ラマン分光法
ピコ秒光パルスとフェムト秒光パルスの二つの光パルスを同時に分子に照射して、フェムト秒光パルスで反応を開始させた後の任意のタイミングでラマン効果を強制的にスタートさせ、分子の振動(ラマン)スペクトルの変化をフェムト秒の時間分解能で刻一刻と追跡する方法。理研で開発した紫外共鳴フェムト秒誘導ラマン分光装置は紫外光を吸収する反応中間体の超高速変化を選択的に観測することができる。

4.量子化学計算、第一原理分子動力学計算
量子力学の基礎方程式であるシュレディンガー方程式を分子に適用し、そのエネルギーや構造、反応性などを電子状態から解析する手法を量子化学計算という。また、この量子化学計算を用いて、化学反応の途中でどのように分子の構造が刻一刻と変化するのかを計算する手法を第一原理分子動力学計算という。

5.レチナールタンパク質
発色団としてレチナールを持つ膜タンパク質のこと。レチナールは、下図の構造をした共役アルデヒドである(図は11-シス型で、6員環のC6に四つの二重結合を持つアルデヒド基が結合している)。オプシン(視物質のタンパク質部分)を作っているアミノ酸のリジン残基と反応してロドプシンとなる。ロドプシンは、二重結合を巧みに異性化させることにより、視細胞で光を感知する鍵分子である。

共役アルデヒドの図

6.チャネルロドプシン
レチナールタンパク質の一つ。内包している全トランス型レチナールの光異性化をトリガーとするイオンチャネルとして機能するため、光によって神経細胞の活動を制御することができる。光遺伝学で欠かせないタンパク質である。

7.振動(ラマン)スペクトル
多原子分子には各原子の動きの組み合わせにより、一定数の基準振動と呼ばれる分子の振動(伸び縮みの繰り返し運動)モードがある。振動スペクトルは分子がどのような振動数の基準振動を持つかを示す。これら基準振動の振動数はその分子の構造、状態、置かれた周りの環境に対して鋭敏に変化するので、振動スペクトルから分子に関する詳細な情報が得られる。

8.ポテンシャルエネルギー曲面
分子のエネルギーが、分子を構成する原子の位置座標に対してどのように変化するかを空間的に表したもの。

共同研究グループ

理化学研究所
光量子工学研究センター 超高速分子計測研究チーム
研究員(研究当時)倉持 光(クラモチ・ヒカル)
(科学技術振興機構(JST)さきがけ研究員、現 開拓研究本部 田原分子分光研究室 客員研究員)
特別研究員(研究当時)プラディープ・クマール(Pardeep Kumar)
開拓研究本部 田原分子分光研究室
特別研究員(研究当時)ジェンロン・ウェイ(Zhengrong Wei)
特別研究員(研究当時)リ・リウ(Li Liu)
専任研究員(研究当時)竹内 佐年(タケウチ・サトシ)
(現 開拓研究本部 田原分子分光研究室 客員主管研究員)
主任研究員 田原 太平(タハラ・タヘイ)
(理研 光量子工学研究センター 超高速分子計測研究チーム チームリーダー)

日本工業大学 基幹工学部 応用化学科
教授 大澤 正久(オオサワ・マサヒサ)

北海道大学 大学院理学研究院 量子化学研究室
アンビシャス特別助教(研究当時)堤 拓朗(ツツミ・タクロウ)
特任助教 斉田 健一郎(サイタ・ケンイチロウ)
教授 武次 徹也(タケツグ・テツヤ)

研究支援

本研究は、科学技術振興機構(JST)戦略的創造研究推進事業さきがけ「極限的電子分光法の開発による反応研究の革新(研究代表者:倉持光)」、同CREST「光を用いたヒト生体深部での分子制御(研究代表者:小川美香子)」、日本学術振興会(JSPS)科学研究費助成事業基盤研究(B)「電子と水素結合の連動ダイナミクスを可視化するアト秒化学研究をめざした実験的試み(研究代表者:竹内佐年)」、同新学術領域研究(研究領域提案型)「先端的な超高速分光と非線形分光による多自由度複雑分子系の研究(研究代表者:田原太平)」、同挑戦的研究(萌芽)「反応分子の本質的性質を明らかにする多パルス超高速分光の開発と応用(研究代表者:田原太平)」による助成を受けて行われました。

原論文情報

Hikaru Kuramochi, Takuro Tsutsumi, Kenichiro Saita, Zhengrong Wei, Masahisa Osawa, Pardeep Kumar, Li Liu, Satoshi Takeuchi, Tetsuya Taketsugu, Tahei Tahara, “Ultrafast Raman Observation of the Perpendicular Intermediate Phantom State of Stilbene Photoisomerization”, Nature Chemistry, 10.1038/s41557-023-01397-6

発表者

理化学研究所
光量子工学研究センター 超高速分子計測研究チーム
研究員(研究当時)倉持 光(クラモチ・ヒカル)
(現 開拓研究本部 田原分子分光研究室 客員研究員)
開拓研究本部 田原分子分光研究室
主任研究員 田原 太平(タハラ・タヘイ)
(光量子工学研究センター 超高速分子計測研究チーム チームリーダー)

北海道大学 大学院理学研究院 量子化学研究室
アンビシャス特別助教(研究当時)堤 拓朗(ツツミ・タクロウ)
教授 武次 徹也(タケツグ・テツヤ)

報道担当

理化学研究所 広報室 報道担当
北海道大学 社会共創部広報課 広報・渉外担当

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