2023-07-19 東京大学
石金 元気(物理学専攻 博士課程)
戸田 圭一郎(フォトンサイエンス研究機構 特任研究員)
井手口 拓郎(フォトンサイエンス研究機構 准教授)
発表のポイント
- 従来の中赤外フォトサーマル定量位相顕微鏡の信号対雑音比を数百倍向上させ、1秒間に50枚の画像を取得できる単一細胞中赤外イメージングを実現した。
- 開発した高強度中赤外パルスレーザーの使用により、信号となる位相変化量を約60倍に増大させ、また、高飽和電荷量カメラの使用により、光子数不確定性による位相ノイズを約7分の1に減少させた。
- 細胞内のシグナル伝達や液-液相分離など、秒以下の時間スケールで起こる細胞内分子ダイナミクスの観測への利用が期待される。
発表概要
東京大学大学院理学系研究科物理学専攻およびフォトンサイエンス研究機構の石金元気大学院生、戸田圭一郎特任研究員、井手口拓郎准教授らのグループは、従来の中赤外フォトサーマル顕微鏡(注1)の信号対雑音比(注2)を数百倍向上させ、サブマイクロメートルの空間分解能で1秒間に50枚の画像を取得できる、世界最速の単一細胞中赤外イメージングを実現しました。信号対雑音比の大幅な向上は、高強度中赤外パルスレーザーによる約60倍の信号増大と、定量位相顕微鏡(注3)に高飽和電荷量カメラ(注4)を用いたことによる約7分の1のノイズ低減という2点の改善に由来します。実現した時空間分解能は、分子振動顕微鏡の主流である最先端のラマン顕微鏡に匹敵します。ラマン顕微鏡と相補的な分子振動情報を取得できる中赤外顕微鏡の技術進展は、分子振動を用いた単一細胞イメージングに新たな応用をもたらします。例えば、細胞内のタンパク質の二次構造解析や、細胞内での液-液相分離の観測、細胞内水分子の解析など、従来技術では計測が困難であった現象の研究への利用が期待されます。
世界最高速の単一細胞中赤外顕微イメージング
発表内容
〈研究の背景〉
分子振動顕微鏡は光を用いて分子振動を選択的に観測することで、非標識の状態で分子の分布を画像化することができる技術であり、生命科学をはじめとしたさまざまな分野で幅広く用いられています。分子振動顕微鏡は主に中赤外顕微鏡、ラマン顕微鏡に分類されますが、ほとんどの単一細胞イメージングはラマン散乱顕微鏡を用いて行われています。特に、非線形光学効果を利用したコヒーレントラマン顕微鏡は、その検出感度の高さと高速性からリアルタイムのビデオ撮影(約30枚/秒)が可能であり、現在の分子振動イメージングの主流となっています。一方、中赤外顕微鏡は空間分解能が中赤外光の波長程度(2-10マイクロメートル)に制限されるため、10-20マイクロメートル程度のサイズの単一細胞の詳細なイメージングには適していませんでした。しかし、中赤外吸収過程はラマン散乱過程よりも高効率であり、さらに光吸収による分子中の電子の高エネルギー準位への遷移過程に伴う細胞内分子の損傷を引き起こす可能性が低いという特徴を有しています。また、ラマン散乱と相補的な分子情報を取得できるため、最先端ラマン顕微鏡に匹敵する性能を持つ中赤外顕微鏡を開発することは、今後の分子振動を用いた単一細胞イメージングの発展において非常に重要であると考えられます。
近年、中赤外光吸収による温度上昇に伴う試料の屈折率変化(フォトサーマル効果)を、可視光を用いて検出する中赤外フォトサーマル顕微鏡が開発されました。この顕微鏡の空間分解能は可視光の波長で決まるため(おおよそ数百ナノメートル)、単一細胞レベルでの詳細な中赤外イメージングが可能となります。例えば、我々が最近開発した中赤外フォトサーマル定量位相顕微鏡では、定量位相顕微鏡を用いてフォトサーマル効果を可視光の位相変化として検出します(図1)。十分な信号対雑音比が実現できていれば、この顕微鏡の画像取得レートはカメラの撮影レートまで向上させられるため、高速な単一細胞中赤外イメージングの実現が期待されます。しかしながら、検出感度の低さから現状では画像取得レートは0.1-1枚/秒にとどまり、その性能は最先端のラマン顕微鏡には及んでいませんでした。
図1:中赤外フォトサーマル顕微鏡の原理。中赤外光ONとOFFの状態の定量位相画像の差分をとることにより、フォトサーマル効果により生じる可視光の位相変化量を可視化する。
〈研究の内容〉
本研究グループは、高強度中赤外パルスレーザーと高飽和電荷量カメラを用いた低ノイズ定量位相顕微鏡を組み合わせることで、従来の中赤外フォトサーマル顕微鏡と比較して信号対雑音比を数百倍向上させ、1秒間に50枚の単一細胞画像を取得可能な中赤外イメージングを初めて実現しました。高強度中赤外パルス光は、光パラメトリック発振器(注5)を用いて生成し、従来のフォトサーマル顕微鏡で使用される中赤外量子カスケードレーザー(注6)の場合と比較して約60倍大きな位相変化を実現しました。また、定量位相顕微鏡の位相ノイズは光子数不確定性(注7)によって決まることが多いため、この位相ノイズを低減するためには、より多くの光子をカメラで検出することが望まれます。我々は通常のカメラが記録できる光子数の約100倍を記録可能な高飽和電荷量カメラを導入し、位相ノイズを約7分の1に低減させました。
これらの要素を組み合わせた高感度中赤外フォトサーマル定量位相顕微鏡を用いて、細胞内の脂質(図2)や水の分子振動画像(図3)を1秒間に50枚の速度で撮影しました。図3では、アクアポリンと呼ばれる細胞膜上の膜タンパク質を通じて細胞内外の水分子が交換するダイナミクスを可視化しています。水環境下に置かれた細胞にマイクロ流路を用いて速やかに重水を流し込んだところ、細胞外の水分子が全て重水分子に入れ替わった後でも、細胞内の水分子は数百ミリ秒間は細胞内に留まる様子が観測されています。水のダイナミクスを捉えることは分子振動顕微鏡以外では難しく、特に中赤外吸収は水分子に対して高い感度を持つことが知られているため、この顕微鏡は水のダイナミクスを観察する強力なツールとなり得ると考えられます。
図2:COS7生細胞内の脂質分子のフォトサーマル観察。矢印:細胞内の脂質球。
図3:生細胞における水-重水交換の観測。細胞外の水分子を瞬間的に重水分子に置換し(0 ms)、水分子の中赤外光吸収によるフォトサーマル信号の時間変化を追うことで、細胞膜全体に広く存在するアクアポリンを通じて細胞内の水分子が重水分子と置き換わるダイナミクスを観測している。
〈今後の展望〉
今後の展開としては、高強度中赤外光の波長帯域をさらに拡張し、“分子指紋領域”と称されるさまざまな生体分子の特徴的な吸収が存在する波長帯での高感度中赤外イメージングを実現することが挙げられます。これにより、細胞内のタンパク質の二次構造解析や、細胞内での液-液相分離(注8)の観測といった、従来技術では困難であった生体現象の観測が期待できます。
〈関連のプレスリリース〉
「光で分子を振動させて、細胞の形態と分子分布を同時に見る光学顕微鏡を開発 ~標識不要な定量位相顕微鏡と分子振動顕微鏡のコラボレーション~」(2020/04/20)
「光の波面制御により計測画像を消す技術で顕微鏡を高感度化 ~従来の定量位相顕微鏡の位相検出限界を突破~」(2021/01/01)
論文情報
- 雑誌名
Light: Science & Applications論文タイトル
Label-free mid-infrared photothermal live-cell imaging beyond video rate
著者
Genki Ishigane, Keiichiro Toda, Miu Tamamitsu, Hiroyuki Shimada, Venkata Ramaiah Badarla, Takuro Ideguchi*
DOI番号
研究助成
本研究は、科研費「基盤研究(A)(課題番号:20H00125、23H00273)」、科学技術振興機構(JST) 戦略的創造研究推進事業 さきがけ 「量子技術を適用した生命科学基盤の創出」研究領域 研究課題名「超高感度ラベルフリーイメージング法の開発」(課題番号:JPMJPR17G2)平成29年度採択(研究者:井手口 拓郎)、精密測定技術振興財団、光科学技術研究振興財団、中谷医工計測技術振興財団、UTEC-UTokyo FSI Research Grant Programの支援により実施されました。
用語解説
注1 中赤外フォトサーマル顕微鏡
中赤外光吸収に伴う試料の屈折率変化(中赤外フォトサーマル効果)を、可視光を用いた顕微鏡で検出することで、中赤外光に共鳴して振動する結合を持つ分子を可視化する顕微鏡。
注2 信号対雑音比
測定における信号強度をノイズの大きさで割った値であり、測定の検出感度の高さを示す。ここでは、中赤外フォトサーマル効果による可視光の位相変化量を位相ノイズの大きさで割った値。
注3 定量位相顕微鏡
試料の屈折率分布に起因する照明光の位相遅れの空間分布を定量する顕微鏡。
注4 高飽和電荷量カメラ
通常のカメラよりも1画素あたりに貯められる電子数が多く、1フレーム間により多くの光子を検出することができるカメラ。
注5 光パラメトリック発振器
二次非線形光学効果によって波長変換したレーザー光を発生させる発振器。
注6 量子カスケードレーザー
半導体量子井戸中に形成されるサブバンド間の光学遷移を利用したレーザー。
注7 光子数不確定性
量子効果に由来する光子数の統計的変動による光子数のゆらぎ(ショットノイズ)。
注8 液-液相分離
2つの液体が混ざり合うことなく、互いに排除しあうことで2相に分離する現象。