2021-02-09 理化学研究所
理化学研究所(理研)開拓研究本部田原分子分光研究室の田原太平主任研究員(理研光量子工学研究センター超高速分子計測研究チーム チームリーダー)、日下良二基礎科学特別研究員(研究当時)、二本柳聡史専任研究員(同専任研究員)は、典型的な光化学反応の一つであるフェノールの光化学反応を水表面で直接観測することに成功し、水表面ではこの反応が水中よりも1万倍以上も速く進行することを発見しました。
本研究成果は、水表面の化学反応が水中と大きく違うことを初めて直接的に明示するもので、環境化学の理解や触媒利用に向けた界面光化学反応の機構解明など広い分野に大きく貢献すると期待できます。
今回、研究チームは、界面選択的な(界面領域の化学変化だけを観測できる)超高速分光法「紫外励起時間分解ヘテロダイン検出振動和周波発生分光法[1]」を用いて、水の表面で進む反応を100フェムト秒(10兆分の1秒)の時間分解能で追跡することに成功しました。その結果、基本的分子であるフェノールの光化学反応(光酸解離反応)が水表面では水中より1万倍以上速く進むことを見いだしました。
本研究は、科学雑誌『Nature Chemistry』の掲載に先立ち、オンライン版(2月8日付:日本時間2月9日)に掲載されます。
背景
水は広く自然界に存在する最も重要な液体です。水の中にはさまざまな分子が溶け込んで、多種多様な化学過程が進行していることがこれまでの研究で明らかになっています。一方、分子が水の内部で完全に溶け込んだ状態と、水の表面にあって半分だけ水に囲まれている状態とでは、その分子の示す性質が少なからず異なっている可能性が近年のさまざまな研究で指摘されています。
つまり、水表面は水中とは異なるユニークな環境を提供している可能性があります。実際に、水中では反応しない分子が水表面では反応する例がいくつか報告されています。このため、水の表面で分子がどのように反応しているのかを知ることに高い興味が持たれていました。
しかし、水表面での化学反応が実際にどのように進んでいるのかはほとんど分かっていません。これを明らかにする最も確実な方法は、水表面に存在する反応物、反応中間体、反応生成物などを、分子が反応する時間スケールで分解して観測することです。しかし、分子レベルの薄い表面近傍を選択的にしかも時間分解で観測することは、現在の技術をもってしても極めて困難であり、水表面の化学反応を直接観測した例はほとんどありませんでした。
研究手法と成果
研究チームは、2016年に新しい界面選択的な超高速振動分光法「紫外励起時間分解ヘテロダイン検出振動和周波発生分光法」を開発しました注1)。この方法では、試料を紫外光励起[2]することで、1ナノメートル(nm、1nmは10億分の1メートル)程度の薄い表面・界面領域で起こる化学変化のみを(水中の分子の反応を無視して)、100フェムト秒(fs、fsは1000兆分の1秒)程度の極めて高い時間分解能で観測できます。(図1)しかも、分子の指紋ともいわれる振動スペクトル[3]を検出することで、観測される信号の由来となる分子を高い精度で同定できます。
図1 紫外励起時間分解ヘテロダイン検出和周波発生分光法の装置図
「ヘテロダイン検出振動和周波発生分光」では、可視光と赤外光のレーザー光を同時に水晶表面に集光し、参照光を作り出す。水晶を透過した三つの光を凹面鏡で集めて水表面のサンプルに再集光すると、水の表面のみから和周波光が発生する。参照光と和周波光の干渉パターンを解析することで、和周波光の強度のみならず位相も同時に決定できる。一方、「紫外励起時間分解ヘテロダイン検出振動和周波発生分光法」では、まずパルス紫外光によって水表面のサンプルを光励起する。そして、その後の水表面の様子をヘテロダイン検出振動和周波発生分光によって界面選択的に(界面領域の化学変化だけを)観察する。
今回、研究チームは、この最先端の分光法を水界面の化学反応研究に初めて適用し、基本的分子であるフェノールの光化学反応(光酸解離反応)が水表面でどのように進んでいるのかを明らかにしました(図2)。フェノールの水中における光化学反応はこれまで研究されており、紫外線吸収後約5ナノ秒(ns、1nsは10億分の1秒)程度で反応生成物(フェノキシラジカル)が生成されることが分かっています注2)。これに対して、水表面に吸着したフェノールに紫外線を当てた結果、光反応生成物が100fs(10兆分の1秒)以内で検出されました。つまり、フェノール分子は水表面では水中より5万倍も速く反応することが分かりました。
このような劇的な反応促進効果は、水表面に分子が半分だけ溶けた状態によって引き起こされたもので、フェノールに限らず多くの有機分子に起こり得る一般性の高い現象であると考えられます。
図2 水表面のフェノールの光酸解離反応の概念図
黒丸は炭素、青丸は水素、赤丸は酸素を示す。水中のフェノールに267nmの紫外線を照射すると、約5ナノ秒でプロトン(H+)と電子(e-)を放出され、フェノキシラジカルが生成される光酸解離反応を起こす。今回、同じ反応が水表面では5万倍も速く起こっていることが分かった。水表面でフェノールは、分子の下半分だけが部分的に溶媒和された状態で存在しており、この特殊な溶媒和状態によって反応性が高まっていると考えられる。
注1)2016年6月10日プレスリリース「水表面の電子を観測」
注2)J. Phys. Chem. Lett. 6, 4159-4164 (2015).
今後の期待
今回の研究成果により、水表面の化学反応を実時間で直接観測することが可能になりました。この方法は、フェノールのみならず液体界面で進行するさまざまな化学反応の観測に応用できることから、界面における化学反応の本質が明らかになると期待できます。
また、フェノールのような基本的な有機分子が水中と水表面で1万倍以上も反応速度が異なるという事実は、化学反応の促進やコントロールを目的とする学問分野である触媒化学においても非常に重要です。さらに、自然界の水は海水(泡も含む)やエアロゾルとして存在し、広大な表面積を持っています。この水表面にはフェノール類を含むさまざまな天然の有機分子が吸着し、化学反応を起こしていると考えられるため、水表面の化学反応は地球環境にも多大な影響を与えていると思われます。
このように本研究成果は、今後触媒化学的、環境科学的に重要な多くの水表面化学反応を解明し、広い学問分野における水表面の効果と役割を明らかにする道を拓くと期待できます。
補足説明
1.紫外励起時間分解ヘテロダイン検出振動和周波発生分光法
振動和周波発生分光法とは二次非線形分光法の中で最も利用されている分光法で、液体や薄膜の界面構造解析などに使われている。周波数Aの可視レーザー光と、周波数Bの赤外レーザー光を入射し、和の周波数(A+B)の光(和周波光)を検出する。この方法は、ほとんどの物質の内部で信号がゼロになる性質があるため、物質の表面・界面だけを選択的に調べることができる。従来の振動和周波発生分光法は「ホモダイン検出」と呼ばれる方式で、和周波光の強度を測定するために、二次非線形感受率の絶対値の2乗、つまりスペクトルの強度のみしか得られなかった。しかし、理研田原分子分光研究室が2008年に開発した「ヘテロダイン検出」という方式によって、信号光の位相と振幅を一度に決定できるようになった。その結果、界面の分子構造について物質内部と同レベルの詳細な情報が得られるようになった。その後、田原分子分光研究室は2016年に「紫外励起時間分解ヘテロダイン検出振動和周波発生分光法」を独自開発し、さらに紫外線が引き起こす界面の変化を100フェムト秒(10兆分の1秒)程度の間隔で追跡できるようになった。
2.紫外光励起
光のうち、波長が約400nmの紫色の可視光よりも少し波長が短いものを紫外光という。本実験に用いた紫外光は波長267nmで、紫外光を吸収したフェノール分子は、紫外光のエネルギーの分だけ通常よりも高いエネルギー状態に遷移する。このように紫外光を使って物質を高いエネルギーに遷移させることを紫外光励起という。
3.振動スペクトル
分子がどのような赤外光の波長に応答するかを示すグラフ。分子の赤外光応答は、分子の振動(伸び縮みの繰り返し運動)に対応しているため、振動スペクトルと呼ばれる。分子の振動数は、その分子の状態や周りの環境に対して鋭敏に変化するので、詳細な分子情報が得られる。
研究支援
本研究は、日本学術振興会(JSPS)科学研究費補助金基盤研究(S)「最も先進的な計測と理論の協奏による革新的界面研究の推進(研究代表者:田原太平)」による支援を受けて行われました。
原論文情報
Ryoji Kusaka, Satoshi Nihonyanagi, Tahei Tahara, “The photochemical reaction of phenol becomes ultrafast at the air-water interface”, Nature Chemistry, 10.1038/s41557-020-00619-5
発表者
理化学研究所
開拓研究本部 田原分子分光研究室
主任研究員 田原 太平(たはら たへい)
(兼 理研光量子工学研究センター超高速分子計測研究チーム チームリーダー)
基礎科学特別研究員(研究当時) 日下 良二(くさか りょうじ)
専任研究員 二本柳 聡史(にほんやなぎ さとし)
(兼 理研光量子工学研究センター超高速分子計測研究チーム 専任研究員)
報道担当
理化学研究所 広報室 報道担当