2020-07-28 分子科学研究所
発表のポイント
- 分子モーターは、化学エネルギーを使って1方向に運動する
- 1分子観察による運動データから、ベイズ推定法*1に基づいて、分子モーターの運動モデルを推定する新規手法を開発した
- 糖鎖を分解して1方向に運動するキチナーゼ*2に適用することで、その運動メカニズムを明らかにした
概要
分子科学研究所の岡崎圭一特任准教授、飯野亮太教授、静岡大学の中村彰彦准教授からなる研究チームは、1分子観察による動きのデータから、ベイズ推定法に基づいて、分子モーターの運動モデルを推定する新規手法を開発することに成功しました。さらに、糖鎖を分解して1方向に運動するキチナーゼに適用することで、その運動メカニズムを明らかにしました。本研究成果は、国際学術誌The Journal of Physical Chemistry Bに、2020年7月6日付でオンライン掲載されました。
研究の背景
分子モーターは、生体内でATP加水分解エネルギーなどの化学エネルギーを消費して、1方向性の運動をするタンパク質です。このような自然が作り上げたナノマシンである分子モーターの作動原理には、大きな注目が集められてきました。その作動原理を解明するため、分子モーターの運動を直接観察する実験手法である1分子観察が用いられてきました。しかし、化学エネルギーの消費、つまり化学状態の変化、がどのようにして分子モーターの1方向性の運動を生み出しているのかについては、まだよく分かっていません。そこで、我々は、1分子観察データから、分子モーターの運動を支配する自由エネルギープロファイル*3の化学状態依存的な変化を導き出すことを目指して、研究を進めました。
研究の成果
まず、分子モーターの運動をモデル化する必要があります。分子モーターの運動とは、化学状態に応じて切り替わる自由エネルギープロファイル上の拡散運動であると考えることができます。具体的には、図1Aで示すように、1分子の運動の軌跡の中で、化学状態1の自由エネルギー面上で運動する部分(赤色)と化学状態2の自由エネルギー面上で運動する部分(青色)があるということです。しかし、この化学状態の切り替えは、通常1分子観察では観測されません。そこで、化学状態を「隠れた」状態として、隠れマルコフモデル*4によりその状態遷移を取り扱いました(図1B)。
図1. (A) 1分子の運動の軌跡と、対応する化学状態依存的自由エネルギープロファイル。(B) 化学状態を「隠れた」状態として扱う隠れマルコフモデル。
この隠れマルコフモデルに基づいて、モデルがどれだけ実際の1分子の運動の軌跡に適合しているかを評価する確率:尤度を計算することができます。また、自由エネルギープロファイルについてあらかじめ予想されることを事前確率としてモデリングすることができます。この尤度と事前確率の積で表される事後確率を用いたモンテカルロ・サンプリング*5により、ベイズ推定の枠組みで、化学状態依存的自由エネルギープロファイル、拡散係数、状態間遷移速度定数を推定する手法を開発しました。
次に、開発した手法をリニア分子モーターであるキチナーゼに応用しました。キチナーゼが糖鎖を分解しながら1方向に運動する軌跡のデータに、この手法を応用した結果、その背後にある特徴的な自由エネルギープロファイルを推定することができました(図2)。これによると、キチナーゼは、まず、比較的低い自由エネルギー障壁を超えてブラウン運動することで糖鎖を触媒サイトに引き込みます。そして、糖鎖の加水分解反応と生成物解離により化学状態が切り替わることで、1方向性運動を実現していることが分かりました。これにより、以前我々が提唱したBurnt-bridgeブラウニアンラチェット機構*6に、物理的な基礎を与えることができました。
図2. (A) キチナーゼ1分子実験における1方向性運動。
(B) 推定された化学状態依存的自由エネルギープロファイル。
今後の展開・この研究の社会的意義
今回開発した手法を様々な分子モーターに適用することで、それぞれの運動メカニズムの共通点や違いを明らかにしたいと思っています。そこで得られた知識が、分子モーターの一般的原理の解明や、新規分子モーターのデザインに将来的に役に立つと考えています。
用語解説
*1 ベイズ推定:
ベイズの定理に基づいて、観測データからその事象についてのモデルを推定する手法
*2 キチナーゼ:
カニやエビなどの甲殻類や昆虫の外骨格を構成する糖鎖であるキチンを分解する酵素であり、分解しながら1方向に進むリニア分子モーターである
*3 自由エネルギープロファイル:
分子モーターの進行方向に沿った位置の関数としての自由エネルギー
*4 隠れマルコフモデル:
観測されない隠れた状態が、マルコフ過程で記述されるモデル
*5 モンテカルロ・サンプリング:
乱数を用いて変数をランダムに変化させて、目的の確率分布(ここでは、ベイズの定理の事後確率)に従ったサンプリングを行う手法
*6 Burnt-bridgeブラウニアンラチェット機構:
後方のレールを取り除いて後退運動を阻止することで、熱ゆらぎによるブラウン運動から1方向性運動を実現する仕組み
論文情報
掲載誌:The Journal of Physical Chemistry B
論文タイトル:“Chemical-State-Dependent Free Energy Profile from Single-Molecule Trajectories of Biomolecular Motors: Application to Processive Chitinase”
(生体分子モーターの1分子トラジェクトリから化学状態依存的自由エネルギープロファイルの推定:プロセッシブ・キチナーゼへの応用)
著者:Kei-ichi Okazaki, Akihiko Nakamura and Ryota Iino
掲載日:2020年7月6日(オンライン公開)
DOI:https://dx.doi.org/10.1021/acs.jpcb.0c02698
研究グループ
分子科学研究所、静岡大学
研究サポート
自然科学研究機構・融合発展促進研究プロジェクト J281002
科研費・基盤研究(B)18H02415
科研費・基盤研究(B)18H02418
新学術・発動分子科学 18H05424
科学技術振興機構 計算物質科学人材育成コンソーシアム
研究に関するお問い合わせ先
岡崎 圭一(おかざき けいいち)
分子科学研究所、特任准教授
報道担当
自然科学研究機構 分子科学研究所
研究力強化戦略室 広報担当
国立大学法人静岡大学
総務部 広報室