MR-TADF分子のフロンティア分子軌道を可視化~高効率有機EL材料開発の基盤となる電子構造解明~

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2024-08-30 理化学研究所

理化学研究所(理研)開拓研究本部 Kim表面界面科学研究室の裵 宰玄 テクニカルスタッフⅠ、今井 みやび 基礎科学特別研究員、金 有洙 主任研究員らの共同研究グループは、単一の多重共鳴熱活性化遅延蛍光(MR-TADF)分子[1]において、フロンティア分子軌道(FMO)[2]を走査トンネル顕微鏡(STM)[3]を用いて可視化することに成功しました。

本研究成果は、MR-TADF分子の電子構造[4]の理解につながり、高効率な有機発光分子の設計および有機EL素子の開発に貢献することが期待されます。

MR-TADF分子は電子構造が複雑なため、電子構造を正確に理解することは困難です。このことはMR-TADF分子を用いた有機発光デバイスの効率的な設計の障壁となっていました。特に、計算化学で得られた理論値と実験で得られた値が一致しないことが多く、この不一致を防ぐために実際の分子内での電子分布を正確に把握することが重要とされています。

今回、共同研究グループは、STMを利用して、MR-TADF分子のFMOを原子レベルで可視化し、分析しました。その結果、窒素(N)およびホウ素(B)原子による共鳴効果によってFMOが空間的に分離していることを実験的に確認しました。

本研究は、科学雑誌『ACS Nano』オンライン版(6月27日付)に掲載されました。

MR-TADF分子のフロンティア分子軌道を可視化~高効率有機EL材料開発の基盤となる電子構造解明~
MR-TADF分子のFMO理論モデルとSTM像

背景

有機分子に可視光を照射すると、分子は光を吸収して電子励起状態に遷移します。励起された分子は、電子励起状態から基底状態に戻る過程で発光や電荷分離などさまざまな現象を示します。有機ELは、電気エネルギーによって有機物を励起状態にし、それが基底状態に戻る際に放出される発光を利用します。しかし、この励起状態の75%を占める三重項励起状態は、発光しにくいため大きなエネルギー損失となります。この課題を解決するために、三重項励起状態を一重項励起状態に変換する材料として、熱活性化遅延蛍光(TADF)分子[1]やMR-TADF分子があります。

しかし、TADF分子は、分子のFMOである最高被占軌道(HOMO)と最低空軌道(LUMO)の空間的な分離度合いによって、スピン統計[5]的制約を克服し、遷移金属イオンを使用せずに高い内部量子効率(IQE)[6]を達成しますが、色純度が低い(発光スペクトル幅が広い)という問題がありました。

一方、MR-TADF分子は、窒素やホウ素のような電子供与原子と電子受容原子を分子内に戦略的に配置することで、複数の位置で共鳴効果を引き起こすこと(多重共鳴効果)により、FMOの空間的な分離状態を達成します。このような構造特性により、MR-TADF分子は高い発光効率に加え、優れた色純度の特性を併せ持つ有機EL材料として注目されています。

高効率な有機EL素子の設計と開発をするためには、MR-TADF分子の電子構造と発光メカニズムを理解し、分子レベルでのFMOの空間分布の分析が必要です。しかし、今までMR-TADF分子の複雑なFMOの空間分布と電子状態について、計算化学で得られる理論値と実験結果が一致しないという課題がありました。

金主任研究員らは、これまでに原子スケールの空間分解能(約0.1ナノメートル(nm、1nmは10億分の1メートル))を持つSTMを用い、単一分子の電子状態を精密に視覚化する技術を開発してきました注1、2)。今回、共同研究グループは、この技術を使って、多環芳香族炭化水素[7]内部において、MR-TADF分子の多重共鳴効果により細密に分離されたFMOを可視化することに挑みました。

注1)M.I-Imada et al. 2018, Energy-level alignment of a single molecule on ultrathin insulating film, Physical Review B.
注2)I. Zoh et al. 2021Visualization of Frontier Molecular Orbital Separation of a Single Thermally Activated Delayed Fluorescence Emitter by STM, The Journal of Physical Chemistry Letters.

研究手法と成果

本研究では、MR-TADF分子のFMOを視覚化し、その電子構造を理解するために、STMと密度汎関数理論(DFT)[8]計算を組み合わせた手法を採用しました。まず、研究対象としてMR-TADF分子の一例である「DABNA-1」を選定しました。金(Au)の単結晶基板上の塩化ナトリウム(NaCl)薄膜上にDABNA-1孤立分子を吸着させました(図1)。

金属基板およびNaCl薄膜上に蒸着されたDABNA-1孤立分子の図
図1 金属基板およびNaCl薄膜上に蒸着されたDABNA-1孤立分子
左)金(Au)の単結晶基板および塩化ナトリウム(NaCl)薄膜上に吸着したDABNA-1孤立分子のSTM像。NaCl薄膜は、分子と金基板との相互作用を抑え、分子本来の電子構造を観察できるようにするために使用している。本研究では、NaCl薄膜上のDABNA-1孤立分子のFMOを可視化した。
右)NaCl薄膜上におけるDABNA-1孤立分子の吸着構造を示すSTM像。電子密度変化を色の変化として表現している。白:高電子密度、黄:中電子密度、オレンジ:低電子密度。DABNA-1の分子モデルでは、灰色の球が炭素原子、白い球が水素原子、青い球が窒素原子、そして中央のピンクの球がホウ素原子を示している。


原子分解能のSTMを用いて、従来の金属STM探針に代えてSTM探針の先端に塩素原子を付着させた探針を使用して、超高真空かつ極低温の条件下でDABNA-1孤立分子の電子構造を観察しました。特にSTMを用いて微分コンダクタンススペクトルを取得することで、分子のFMOであるHOMOとLUMOに対応するバイアス電圧を確認し(図2左上)、このデータを基にFMOの分布を詳細に可視化しました(図2右上)。これにより、DABNA-1孤立分子のFMOが多重共鳴効果によって多環芳香族炭化水素内部でどのように分離されているかを確認しました。この結果は、MR-TADF分子が持つ特異な電子構造を理解する上で重要な知見を提供しています。

さらに、実験結果と理論値を比較するために、STM観測結果を基にDFT計算を行いました(図2下)。DFT計算を用いて局所状態密度(LDOS)[9](図2左下)を予測することにより、MR-TADF分子のFMOのエネルギー準位と空間的分布(図2右下)が理論的に説明できることが分かりました。これらの結果から、実験で観察された状態密度分布が理論的に予測されたエネルギーレベル分布と一致することを確認できました。

MR-TADF単一分子の電子状態の解析の図
図2 MR-TADF単一分子の電子状態の解析
MR-TADF単一分子の電子状態分析を示す。
(左上)バイアス電圧に対する微分コンダクタンス(電流の流れやすさ)の値を測定したグラフ。
(左下)DFT計算を通じて予測された局所状態密度グラフ。
(右上)STM像。最高被占軌道(HOMO)が左、最低空軌道(LUMO)が右。
(右下)DFT計算を通じて予測された電子状態の分布結果。HOMOが左、LUMOが右。ナトリウム(Na)原子は紫、塩素(Cl)原子は緑、ホウ素(B)原子はオレンジ。


なお、これらの結果を比較することで、HOMOとLUMOに対応する電子状態のエネルギーに該当するバイアス電圧を確認した。実験で得たSTM像(右上)では、オレンジ色→黄色→白色の順で電子密度が高くなっているが、HOMOとLUMOでは電子密度の分布が異なっている。一方、DFT計算で予測された(理論的な)電子状態の分布結果(右下)を見ると、HOMOではホウ素原子の周辺に状態密度分布が多く、LUMOではホウ素原子とその近郊に状態密度分布が多くなっている。これらの結果から、実験で観察された状態密度分布が理論的に予測されたエネルギーレベル分布と一致することが確認できる。

STM観察から得た実験データ(図3左下)は、従来の理論的予測(図3左上)とよく一致していました。特に、多重共鳴効果によりHOMOとLUMOが窒素原子とホウ素原子周辺で分離されていました。HOMOとLUMOの空間分布のSTM像を重ね合わせることにより、MR-TADF分子内の電子分布をナノメートル単位で視覚化しました(図3右)。この実験は、多重共鳴効果による分子軌道の空間的分離を視覚的に観察することに初めて成功したものです。

STMにより可視化されたMR-TADF単一分子のFMOの図
図3 STMにより可視化されたMR-TADF単一分子のFMO
(左上)多重共鳴効果による最高被占軌道(HOMO)と最低空軌道(LUMO)の理論的なイメージ図。空間的分離の程度を確認するために、STM像を重ね合わせ、HOMOとLUMOの区別を明確にするために、それぞれの微分コンダクタンスの値を青色と赤色で表現した。
(左下)STMにより可視化されたHOMOとLUMOのSTM像。微分コンダクタンスの値はバイアス電圧に対する電流の変化率を示す。
(右)左下の図に示したHOMOとLUMOの空間分布を反映したSTM像を重ね合わせたSTM像。MR-TADF分子内の電子分布をナノメートル単位で示しており、HOMOとLUMOの空間的分離を視覚的に理解することができる。

今後の期待

本研究成果は、多重共鳴効果による分子軌道の空間的分離を視覚的に観察することに初めて成功したものです。特に、MR-TADF分子の多重共鳴効果により細密に分離されたFMOを原子レベルで視覚化・分析することで、MR-TADF分子を用いた有機発光材料の高効率な設計・開発へ貢献するとともに次世代ディスプレイや照明技術の性能向上につながることが期待されます。

補足説明

1.多重共鳴熱活性化遅延蛍光(MR-TADF)分子、熱活性化遅延蛍光(TADF)分子
熱活性化遅延蛍光(TADF)分子とは、三重励起項状態から逆項間交差(RISC)と呼ばれるスピン反転を経て一重項励起状態へと変換して発光する分子。多重共鳴熱活性化遅延蛍光(MR-TADF)分子とは、多重共鳴(MR)効果と呼ばれる分子機構を組み込んだTADF分子。多重共鳴効果により、分子内の電子が特定の位置に集中し、分子のFMO([2]参照)を空間的に分離できる。例えば、MR-TADF分子では、窒素(N)やホウ素(B)のような異なる原子を戦略的に配置することで、電子が特定の位置に集中しやすくなる。これにより、電子交換エネルギーを低下させ、三重項励起状態が一重項励起状態にスピン転移するための条件である低い一重項-三重項エネルギーギャップを達成できる。この特性を利用することで、高い内部量子効率(IQE)([6]参照)を実現し、有機ELダイオードの発光効率を向上させることができる。

2.フロンティア分子軌道(FMO)
分子の中で最も反応性の高い電子軌道。主に、最高被占軌道(HOMO)と最低空軌道(LUMO)の二つの軌道が含まれる。HOMOは電子が存在する最高のエネルギー状態であり、LUMOは電子が占有する可能性がある最低のエネルギー状態。分子の反応性や物理的特性に大きな影響を与え、化学反応や電子移動の過程で重要な役割を果たす。FMOはFrontier Molecular Orbitalの略。

3.走査トンネル顕微鏡(STM)
原子レベルで物質の表面を観察するための高解像度顕微鏡。鋭い探針を物質表面に近づけ、その間に流れるトンネル電流を測定することで、表面の原子や分子を分析する。STMを通じて得られるデータは、表面の形状だけでなく、電子状態や局所的な状態密度分布も明らかにする。STMはScanning Tunneling Microscopeの略。

4.電子構造
分子や物質内の電子の配置やエネルギーレベルのこと。電子状態ともいう。電子構造は、物質の物理的および化学的特性を決定し、反応性、導電性、光学特性などに大きな影響を与える。分子の電子構造を理解することで、どのようにして化学反応が起こるか、あるいは物質がどのようにして光を吸収または放出するかを予測することができる。

5.スピン統計
電子のスピンに基づいて、粒子の分布や振る舞いを説明する理論。エレクトロルミネセンス(EL)デバイスでは、電子と正孔の再結合によって生成されるエキシトンは、スピン統計によると、一重項状態(約25%)と三重項状態(約75%)に分かれる。通常の有機ELデバイスでは、三重項エキシトンは発光に寄与しないため、内部量子効率(IQE)が制限される。しかし、TADF分子では、三重項エキシトンが熱活性化によって一重項エキシトンに変換されるため、三重項エキシトンも発光に寄与し、ELデバイスの発光効率が大幅に向上する。

6.内部量子効率(IQE)
物質が吸収したエネルギーのうち、実際に光として放出される割合。具体的には、発光デバイスや材料が吸収した電気エネルギーが、どれだけ効率的に光エネルギーに変換されるかを表す指標。高いIQEは、デバイスや材料が効率的に光を生成することを意味し、発光材料や有機EL素子の性能を向上させる上で重要な役割を果たす。IQEはInternal Quantum Efficiencyの略。

7.多環芳香族炭化水素
複数のベンゼン環が融合した構造を持つ化合物。これらの化合物は、高い安定性と特異な電子特性を持ち、さまざまな応用ができる。炭素と水素のみで構成されており、分子内のπ電子が共鳴効果によって広がっているため、高い化学的安定性と電気伝導性を示す。

8.密度汎関数理論(DFT)
物質の電子構造を計算する理論であり、電子の密度分布に基づいて物質のエネルギーと電子状態を予測する。電子密度を計算することで、分子や固体の特性を理解し、化学反応や物理現象を予測するのに効果的である。計算コストが比較的低いため、複雑な分子や物質の電子構造を効率的に予測することができる。DFTはDensity Functional Theoryの略。

9.局所状態密度(LDOS)
物質の特定の位置での電子のエネルギー状態の密度。電子が特定のエネルギーでその位置にどれだけ存在するかを表し、物質の局所的な電子特性を理解するのに重要である。これを測定することで、表面や単一分子の特定部位などの電子状態を詳細に分析することができる。LDOSはLocal Density Of Statesの略。

共同研究グループ

理化学研究所 開拓研究本部
Kim表面界面科学研究室
テクニカルスタッフⅠ 裵 宰玄(ベ・ジェヒョン)
(九州大学 大学院工学府 物質創造工学専攻 博士後期課程)
基礎科学特別研究員 今井 みやび(イマイ・ミヤビ)
上級研究員 今田 裕(イマダ・ヒロシ)
主任研究員 金 有洙(キム・ユウス)

東京大学工学部 応用化学科 金研究室
助教 李 民喜(イ・ミンヒ)

九州大学最先端有機光エレクトロニクス研究センター
センター長 安達 千波矢(アダチ・チハヤ)
(九州大学 応用化学部門 教授)
特任准教授 土`屋 陽一(ツチヤ・ヨウイチ)

九州大学 安達千波矢・中野谷一研究室
JSPS外国人特別研究員 金 亨錫(キム・ヒョンソク)

京都大学大学院 理学研究科化学専攻 有機合成化学研究室
教授 畠山 琢次(ハタヤマ・タクジ)

研究支援

本研究は、日本学術振興会(JSPS)国際共同研究加速基金(国際先導研究)「先端材料化学と量子物性物理の融合による量子分子エレクトロニクスの創製(研究代表者:安達千波矢)」、同挑戦的研究(萌芽)「単一分子光電流分光法を用いたモデル光合成系おける光電変換機構の解明(研究代表者:今井みやび)」、同基盤研究(S)「原子スケール分光による分子科学の新展開(研究代表者:金 有洙)」、科学技術振興機構(JST)戦略的創造研究推進事業CREST「含BNナノカーボン分子の自在合成と配向制御(研究代表者:畠山琢次)」、同戦略的創造研究推進事業さきがけ「原子精度での光合成色素分子の配列形成と光電変換機能の評価(研究代表者:今井みやび)」による助成を受けて行われました。

原論文情報

Jaehyun Bae, Miyabi Imai-Imada*, Hyung Suk Kim, Minhui Lee, Hiroshi Imada, Youichi Tsuchiya, Takuji Hatakeyama*, Chihaya Adachi*, and Yousoo Kim*, “Visualization of Multiple-Resonance-Induced Frontier Molecular Orbitals in a Single Multiple-Resonance Thermally Activated Delayed Fluorescence Molecule”, ACS Nano, 10.1021/acsnano.4c04813

発表者

理化学研究所
開拓研究本部 Kim表面界面科学研究室
テクニカルスタッフⅠ 裵 宰玄(ベ・ジェヒョン)
基礎科学特別研究員 今井 みやび(イマイ・ミヤビ)
主任研究員 金 有洙(キム・ユウス)

報道担当

理化学研究所 広報室 報道担当

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