2023-09-28 分子科学研究所
発表のポイント
●0.5ミクロン間隔で格子状に整列させた3万個の原子の人工結晶を超高速レーザーで操作する革新的手法を用いて、磁性材料の超高速量子シミュレーションに成功
●同研究グループが昨年世界に先駆けて実現した全く新しい「超高速量子コンピュータ」の手法を量子シミュレーションへ応用
●従来のシミュレーション速度を一気に3桁加速し、量子シミュレータにとって最大の懸念であった外部ノイズの問題を解決
●実際の磁性材料では測定が困難な「量子もつれ」の形成ダイナミクスを世界最速となる数百ピコ秒スケールでシミュレートすることに成功(ピコ = 1兆分の1)
図1.磁性材料の超高速量子シミュレーションの概念図
0.5ミクロン間隔で格子状に整列させた3万原子を10ピコ秒だけ光る特殊なレーザーによって操作する。3万個の原子の人工結晶に超高速レーザーパルスを照射後、僅か600ピコ秒の間に大規模な「量子もつれ*9」が形成される。(ピコ = 1兆分の1秒)
概要
自然科学研究機構・分子科学研究所の素川靖司助教(研究当時、現・東京大学大学院総合文化研究科 准教授)、Vineet Bharti研究員、溝口道栄大学院生(研究当時)、大森賢治教授らの研究グループは、ほぼ絶対零度*2に冷却した3万個の原子を0.5ミクロン間隔で格子状に整列させ(図1)、10ピコ秒(ピコ = 1兆分の1)だけ光る特殊なレーザー光で高精度に操作することによって、磁性材料の超高速量子シミュレーションに成功しました(図1)。同研究グループが昨年世界に先駆けて実現した全く新しい「超高速量子コンピュータ」の手法を量子シミュレータ*1へ応用したもので、これまで量子シミュレータ*1にとって最大の懸念であった外部ノイズの問題を解決できるなど、この新しい「超高速量子シミュレータ」が画期的なプラットフォームであることを実証する成果です。今後、さらなる高度化を行い、機能性材料の設計や社会問題の解決へ貢献することが期待されます。
この成果は米国物理学会を代表する旗艦誌「Physical Review Letters」のオンライン版に2023年9月22日に掲載されました。
1.研究の背景
1-1. 量子シミュレータ*1について:
量子コンピュータ*5・量子シミュレータ*1・量子センサ*6など、近年開発競争が激化している「量子テクノロジー」は、電子や原子の「波の性質*11」を活かした質的に新しいテクノロジーです。機能性材料・薬剤・情報セキュリティー・人工知能などに革命を起こし得るため、世界主要各国の科学技術政策において莫大な投資が行われています。量子シミュレータ*1は、固体中の電子をはじめとする、多数のミクロな粒子が力を及ぼし合うことで現れる複雑な振る舞いを、制御性の高いモデル物質にマッピングして模擬実験を行う装置です。世界最速スパコンでさえ10の何百乗年もかかるような問題を1秒以内で解くことができ、物流や交通渋滞など社会問題の解決や超伝導材料・磁性材料の開発などに破壊的なイノベーションを起こし得る機械として期待されています。
一方、電子や原子などの量子力学的な粒子がつくる量子状態やその操作は、外部環境や操作レーザーなどが及ぼすノイズによって容易に劣化され、これが、例えば「量子テクノロジー」のひとつである量子コンピュータ開発などを困難にしています。2022年、自然科学研究機構・分子科学研究所の大森賢治教授らの研究グループは、わずか6.5ナノ秒(ナノ = 10億分の1)で動作する超高速2量子ビットゲート*4を冷却原子を用いて実現し、従来の冷却原子型量子コンピュータの2量子ビットゲート*4を一気に2桁加速するとともに、ノイズの影響を無視できる超高速量子コンピュータ実現の道を拓きました。もし、超高速2量子ビットゲートの手法を量子シミュレーションへ応用できれば、これまでの最大の懸念であったノイズの問題を一気に解決し、信頼性の高い革新的な量子シミュレータ*1が実現できると期待されます。
2.研究の成果
2-1.成果の概要:
研究グループは、ほぼ絶対零度*2に冷却した3万個の原子を0.5ミクロン間隔で格子状に整列させ(図1)、10ピコ秒(ピコ = 1兆分の1)だけ光る特殊なレーザー光で高精度に操作することによって、磁性材料の超高速量子シミュレーションを行い、量子力学的な粒子に特有の相関である「量子もつれ*9(昨年のノーベル物理学賞)」が形成される過程を、世界最速の600ピコ秒でシミュレートして解き明かすことに成功しました。超高速量子シミュレータは、同研究グループが昨年、世界に先駆けて実現した「超高速レーザーによってリュードベリ・ブロッケード*8を回避する」という全く新しい超高速量子コンピュータの手法を、量子シミュレータ*1へ応用したものです。信頼性のある量子シミュレーションを実現するには、ノイズに打ち勝ち高速・高精度に行うことが鍵となります。今回実現した世界最速の量子シミュレーションは、従来のシミュレーション速度を3桁加速し、ノイズよりも1000倍以上速いので、ノイズの影響を無視することができます。
物質を構成する原子や電子などの量子力学的な粒子に現れる特有の相関である「量子もつれ*9」は、大規模なシステムや実際の材料では測定することが非常に難しいとされている一方で、「量子」の世界を理解するためには欠かせない概念です。大規模な「量子もつれ*9」の形成を超高速にシミュレートした今回の成果によって、量子コンピュータ・量子ネットワークに必要不可欠なリソースである「量子もつれ」を、将来の実用レベルに近い大規模なシステムで理解し、量子テクノロジーの発展に貢献することが期待されます。
また、磁性材料の量子シミュレーションによって、今後、磁性など物質の物理的な性質の起源について理解が進み、量子力学的な効果を利用することで飛躍的な機能を示す次世代デバイスや機能性材料の設計に対して指針を与えることが期待されます。
2-2.実験方法(図1、2):
実験はルビジウム原子*12を使って行われました。まず、レーザー光を用いた特殊な冷却方法*13を用いて気体のルビジウム原子3万個を絶対温度1ケルビンの1000万分の1以下の超低温に冷やし、これを光格子*3と呼ばれる格子状に整列した光トラップ列で0.5ミクロン間隔に並べて人工結晶を作りました。さらに、100億分の1秒だけ光る超短パルスレーザー光を照射し、原子の5s軌道に閉じ込められた電子を巨大な35d電子軌道(リュードベリ軌道*7)にたたき上げて、どのような変化が起こるかを観察しました。すると、離れた原子の間に働く巨大な相互作用によって、量子力学的な粒子に特有の相関である「量子もつれ*9」が数百ピコ秒スケール(ピコ = 1兆分の1)で形成されていく様子が観測されました。
今後の展開・この研究の社会的意義
今回、冷却原子型ハードウェアで達成した磁性材料の超高速量子シミュレーションは、ほぼ絶対零度*2に冷却した3万個の原子配列を超高速レーザーで操作する分子研独自の方式によって世界で初めて実現したものであり、超高速量子シミュレータが画期的なプラットフォームであることを実証するものです。
新たに研究グループが開発した革新的な超高速量子シミュレータを、今後さらに高度化することで、磁性などの物質の物理的な性質の起源を解明し、飛躍的な機能を示す量子材料(量子力学的な効果を利用する次世代デバイスや機能性材料)の設計指針を与え、材料開発にイノベーションを起こすことが期待されます。また、量子コンピュータ・量子ネットワークに必要不可欠なリソースである「量子もつれ」を、将来の実用レベルに近い大規模なシステムで理解することで、量子テクノロジーの発展に貢献することが期待されます。さらに、スパコンでも解くことが難しい社会問題を量子力学的な効果を利用してシミュレートし、物流や交通渋滞、電力輸送などの社会課題を解決するツールとしても発展していくことが期待されます。
4.用語解説
*1量子シミュレータ
力を及ぼし合う多数のミクロな粒子(例えば固体中の電子など)のシミュレーションに特化した量子コンピュータ*5。スパコンなどの古典コンピュータで計算する代わりに、原子などの量子力学的*1な粒子を使って制御性の高い人工的なモデル物質を組み立て、そこでの模擬実験によって多数のミクロな粒子の集団的な性質を理解しようとする新しいコンセプト。世界最速スパコンでさえ10の何百乗年もかかるような問題を1秒以内で解くことができ、超伝導材料・磁性材料の開発や物流・交通渋滞など社会問題の解決に破壊的なイノベーションを起こし得る機械として期待されている。
*2 絶対零度
原子・分子の運動が止まった状態を0度とする温度を絶対温度と呼ぶ。単位はケルビン。ゼロ・ケルビンのことを絶対零度という。絶対温度0ケルビンは摂氏-273.15℃で、摂氏0℃は絶対温度+273.15ケルビン。
*3 光格子
対向するレーザー光の干渉でできた光の定在波を利用して、超低温の原子を捕捉する光トラップを周期的に並べたもの。本研究では6方向からレーザー光を対向させることによって、3次元の正方格子状に0.5ミクロン間隔で3万個の原子を並べている。
*4 2量子ビットゲート
2つの量子ビットの量子状態を操作する演算。2量子ビットゲートは、量子コンピュータの高速性の源泉である量子もつれ*9を、2つの量子ビットの間に発生させる。
*5 量子コンピュータ
量子力学的な波の性質*11を情報処理に応用したコンピュータ。原子などの量子力学的な粒子の集団に対して、個別粒子の状態操作や複数粒子の間で論理演算を行うことによって情報処理を行う。異なった状態を同時にとる「量子重ね合わせ*10」という波の性質*11を使うことによって超並列計算が可能となり、通常のコンピュータでは非常に長い時間がかかる計算を一瞬で行うことができると期待されている。
*6 量子センサ
原子や電子などのミクロな物質や光の量子力学的な性質*2を利用して物理量を計測する装置。従来の計測装置よりも高感度な計測が可能になると期待される。
*7 リュードベリ軌道
原子核から遠く離れた電子軌道。原子核からリュードベリ軌道までの距離はナノメートルからマイクロメートルに達する。リュードベリ軌道上を運動する電子をリュードベリ電子、リュードベリ電子を持った原子をリュードベリ原子と呼ぶ。
*8 リュードベリ・ブロッケード
2つの近接する原子の中の電子をリュードベリ軌道*7にレーザー励起するときに、同時励起が強く抑制され、どちらか一方の原子の中の電子のみがリュードベリ軌道*7に励起される現象。リュードベリ原子の間に働く長距離相互作用に起因する。
*9 量子もつれ
量子重ね合わせ*10があるときに、2つの量子系の状態間で生じる特殊な相関のこと。2つの量子ビット間に量子もつれがある場合、片方の量子ビットの状態(“0”or“1”)は、もう片方の量子ビットの状態(“0”or“1”)に依存し、互いの状態を考慮せずに片方だけの状態を決めることはできなくなる。複数の量子ビットの間に相互に関係を持たせるこの量子もつれは、量子コンピュータ*4の高速性の源泉の一つであるとされている。2022年、光子を用いて「量子もつれ」の存在を明らかにする研究を行った3氏にノーベル物理学賞が授与されている。
*10 量子重ね合わせ
複数の異なった状態を同時にとることができるという量子力学特有の性質。通常の古典的なコンピュータでは、情報の単位であるビットは、ある瞬間に“0”か“1”のどちらかの状態にある。しかし、量子コンピュータ*5の量子ビット(例えば原子のような量子力学的な粒子)は、“0”と“1”の2つの状態を同時にとることができる。また、2つの状態の重ね合わせ方にもさまざまな方法がある。量子状態を波ととらえると、2つの波の山同士が揃うように重ねた状態:“0”+“1”状態、2つの波の山と谷が揃うように重ねた状態:“0”-“1”状態、というように、“0”と“1”で構成される状態にも、異なる重ね合わせ状態が存在する。
*11 波の性質
電子や原子などミクロな粒子はサッカーボールなど私達の身の回りの目に見える粒子にはない波の性質を持っている。波は粒子と違って重なり合うことや、空間的に広い範囲に同時に存在することができる。従って、電子や原子などミクロな粒子は、異なった状態を同時にとったり、別の場所に同時に存在できるなど、私達の目に見える粒子にはない不思議な性質を持っている。
*12 ルビジウム原子
アルカリ金属原子の一つで、原子番号37の原子。原子核の周りの電子のつまった電子軌道のうち、一番外側の5s軌道に一つの電子を持つ。
*13 レーザー光を用いた特殊な冷却方法
レーザー光を利用して気体原子の持つエネルギーを取り去り、原子の温度を冷却する技術をレーザー冷却と呼ぶ。原子はレーザー光を吸収する際にレーザー光の持つ運動量を受け取り、レーザー光の進行方向に対して力を受ける。原子がレーザー光に対向して進んでいる場合には、その力によって原子が徐々に減速され原子の持つエネルギーが下がる。これによって、原子集団を絶対温度1ケルビン*1の10万分の1程度まで冷やすことが可能となる。さらにここから温度の高い原子を蒸発させることによって1000万分の1ケルビン以下の超低温まで冷やすことができる。
論文情報
掲載誌:Physical Review Letters
論文タイトル:“Picosecond-scale ultrafast many-body dynamics in an ultracold Rydberg-excited atomic Mott insulator”(和訳:「リュードベリ励起された極低温原子モット絶縁体で起こるピコ秒スケールの超高速多体ダイナミクス」)
著者:V. Bharti, S. Sugawa, M. Mizoguchi, M. Kunimi, Y. Zhang, S. de Léséleuc, T. Tomita, T. Franz, M. Weidemüller, and K. Ohmori
掲載日:2023年9月22日(オンライン公開)
DOI:https://doi.org/10.1103/PhysRevLett.131.123201
研究グループ
自然科学研究機構・分子科学研究所
総合研究大学院大学
Universität Heidelberg, Germany
Shanxi University, China
研究サポート
本研究は、以下の支援を受けて行われました。
文部科学省 光・量子飛躍フラッグシッププログラム(Q-LEAP)
JPMXS0118069021
科学技術振興機構 ムーンショット型研究開発事業
研究開発プログラム:ムーンショット目標6「2050年までに、経済・産業・安全保障を飛躍的に発展させる誤り耐性型汎用量子コンピュータを実現」(プログラムディレクター:北川 勝浩)
研究開発プロジェクト:「大規模・高コヒーレンスな動的原子アレー型・誤り耐性量子コンピュータ」(JPMJMS2269)
プロジェクトマネージャー:大森 賢治 自然科学研究機構 分子科学研究所 研究主幹/教授
日本学術振興会 科研費
研究種目:「特別推進研究」
研究番号:「16H06289」
研究課題名:「アト秒精度の超高速コヒーレント制御を用いた量子多体ダイナミクスの探求」
研究代表者:(自然科学研究機構 分子科学研究所 大森 賢治 研究主幹/教授)
研究期間:平成28年4月~令和3年3月
独・アレクサンダー・フォン・フンボルト財団および独・ハイデルベルグ大学
「フンボルト研究賞」
日本学術振興会 科研費
研究種目:「基盤研究B」
研究番号:「21H01021」
研究課題名:「強相関リュードベリ原子を用いた非平衡量子開放系の量子シミュレーション」
研究代表者:(東京大学 大学院総合文化研究科 素川 靖司 准教授)
研究期間:令和3年4月~令和6年3月
日本学術振興会 科研費
研究種目:「若手研究」
研究番号:「20K14389」
研究課題名:「Rydberg原子系で実現する高次元、高スピン系における非平衡ダイナミクスの研究」
研究代表者:(東京理科大学 國見 昌哉 助教)
研究期間:令和2年4月~令和5年3月
問い合わせ先
大森 賢治(おおもり けんじ)
自然科学研究機構 分子科学研究所 光分子科学研究領域 研究主幹/教授