2025-02-17 東京大学
発表のポイント
- 植物プランクトンの炭素・窒素同位体比マップを太平洋全域で初めて作成
- 植物プランクトンの同位体比に表層の硝酸塩濃度の情報を加えることで、太平洋の生態系を10のグループに分類
- 植物プランクトンの同位体比の特徴は一定の濃縮率で捕食者に伝わるため、本成果はマグロ類など捕食者の回遊履歴や摂餌海域の推定への応用が期待される
研究概要
マグロ・カツオ類や鯨類、サメ類の中には、太平洋を横断するほどの距離を回遊するものがいます。こうした高度回遊性の生物が、どの海域のどのような生態系を利用しているかを調べる方法として、対象生物の炭素・窒素安定同位体比分析が近年幅広く用いられています。この手法は、生態系の基盤となる植物プランクトンの炭素・窒素同位体比が、海域間で異なることを利用しています。海域ごとの同位体比の特徴は、食物連鎖を通じて一定の濃縮率で高次の消費者に伝えられることから、対象生物の同位体比を調べることで、その生物が過去に生息した海域の情報を得ることができます。
今回、水産研究・教育機構と東京大学大学院農学生命科学研究科、東京大学大気海洋研究所のグループは、太平洋全域における植物プランクトンの炭素・窒素安定同位体比の地理的パターンを、実測に基づき初めて明らかにしました。本グループは、様々な調査航海でサンプルを取得し分析を行うと同時に、過去に報告された値を収集し、太平洋全域をカバーする炭素・窒素安定同位体比のデータを得ました。さらに異なる海域の同位体比が反映している環境の違いを解析し、炭素・窒素同位体比と硝酸塩濃度の違いに基づき、太平洋の海域が10グループに分かれることを示しました。ここで得られた結果は、回遊性の生物の生態学的研究を行ううえで重要な基盤となることが期待されます。
研究内容
【研究の目的と背景】
マグロ・カツオ類や鯨類、サメ類の中には、太平洋を横切るほどの遠距離を移動するものがいます。こうした高度回遊性の生物の保全や資源管理を適切に行うためには、それぞれの種や系群がどの海域を移動し、どのような生態系を利用しているのかを明らかにする必要があります。そのため近年は、炭素・窒素安定同位体比*1分析が広く用いられています。この手法では、植物プランクトンの炭素・窒素同位体比が、海域ごとの様々な物理・化学・生物学的環境の違いを反映し、海域間で異なる値を示すことを利用しています。海洋生態系では一般に海域ごとの植物プランクトンの同位体比の特徴が、食物連鎖を通じて一定の濃縮率で高次の消費者へ伝えられます。そのため、対象とする生物の同位体比を調べることで、その生物が過去に生息した海域の情報を得ることができます。この手法をある生物の回遊履歴の推定に適用するためには、様々な海域で植物プランクトンの同位体比が明らかにされている必要がありますが、これまでのところ、断片的な実測値やモデルによる予測値以外は報告されていませんでした。そこで本研究では、太平洋全域において、植物プランクトンの同位体比マップを作成するとともに、それらの値がどのような生態学的な要因を反映しているのか明らかにすることを目的としました。
【研究成果の詳細】
植物プランクトンの炭素・窒素安定同位体比の分析には、表層を漂う細かな粒子(水中懸濁物と呼びます)のサンプルが一般に用いられます。私たちの研究グループにおいても、水中懸濁物を集めて植物プランクトンの炭素・窒素同位体比分析を行いました。また、同様の手法で得られた過去の研究から炭素・窒素同位体比の報告値を収集し、今回のデータに加えることで、太平洋全域の同位体比のマップを作成しました。得られた同位体比マップから、水中懸濁物の炭素同位体比(δ13C)は、高緯度域では低緯度域に比べて低い傾向が見られました(図1左)。これに対して窒素同位体比(δ15N)は、低緯度の海域で大きな違いが見られ、赤道湧昇域縁辺部や南太平洋東部で高く、亜熱帯循環域や赤道湧昇域内部で低くなっていることがわかりました(図1右)。
さらに詳しい解析を行うため、太平洋を緯度5°×経度5°のグリッドに分割し、炭素・窒素同位体比に基づき、似ているもの同士でグループ(クラスター)を作って分類する手法(クラスター解析)で解析を行いました。その結果、太平洋の生態系は大きく3つのクラスターに分かれ、これらのクラスターはさらにそれぞれ2つの小さなクラスター(合計6つ)に分かれました(図2a)。ただし、同じクラスターにもかかわらず、表層の硝酸塩濃度が高い海域と低い海域の両方が混在するクラスターがありました(図2b)。これは硝酸塩が十分に存在する海域と枯渇した海域の両方で、同位体比がよく似ているケースがあることを意味しています。硝酸塩は海洋において植物プランクトンの生育に影響を及ぼす重要な窒素栄養塩*2ですので、同位体比だけで対象生物が過ごした環境を推定することには問題があります。
そこで、これらの同位体比の変動がどのような要因によるものかを明らかにするため、水温や硝酸塩濃度、窒素固定*3活性等の様々な環境パラメータと同位体比の関係を調べました。その結果、水中懸濁物のδ13Cは水温と最もよく対応していました。一方でδ15Nは、高緯度域では表層の硝酸塩濃度が高いほどδ15Nが低く、低緯度域では窒素固定の活性が高いほどδ15Nが低い傾向がありました。このことから水中懸濁物のδ15Nは、硝酸塩が余りがちな高緯度域では硝酸塩の残存程度を示すのに対し、硝酸塩が枯渇しがちな低緯度域では、様々な窒素源(大気からの窒素固定に由来する窒素、および下層から、もしくは水平的に供給された硝酸塩)の生態系への寄与を示すと考えられました。
以上を踏まえ、図2で得られたクラスターをさらに高硝酸塩海域(>0.5 µM)と低硝酸塩海域(<0.5 µM)に分類することで、太平洋の生態系を、硝酸塩の残存程度や窒素供給プロセスが異なる10グループに分類できることがわかりました(図3)。
【今後の展望】
本研究により、太平洋の植物プランクトン(水中懸濁物)における炭素・窒素同位体比の地理的分布パターンが明らかになりました。この知見は、マグロ類など太平洋の重要な魚種の回遊履歴や摂餌海域の推定に役立ち、効率的な資源管理や保護につながることが期待されます。さらに本研究では、異なる窒素供給プロセスに依存する海域であっても、よく似た同位体比が見られるケースがあることも示されました。そのため、炭素・窒素同位体比分析の結果は単独で解釈するよりも、データロガーや耳石酸素同位体比分析など、異なる研究手法の結果と組み合わせることで、マグロ類等の回遊性生物の移動生態の解明により有効に働くことが期待されます。
図1. 太平洋における水中懸濁物炭素・窒素安定同位体比での分布
黒点はサンプリングが行われた地点を示す。
図2. 太平洋における水中懸濁物δ13Cおよびδ15Nのクラスター分析結果(a)および各クラスターの硝酸塩濃度の頻度分布(b)
解析には5°×5°グリッドにおける同位体比の平均値を用いた。
図3. 高硝酸塩、低硝酸塩海域それぞれにおける各クラスター分布図(左)と、水中懸濁物δ15Nの変動要因を示す概念図(右)
クラスター分けは水中懸濁物δ13Cおよびδ15Nに基づく(図2参照)。 高硝酸塩海域においては、植物プランクトンによる硝酸塩の消費に伴いδ15Nが上昇する。ただしクラスター1Aについては海氷からの窒素供給により硝酸塩濃度に対し高いδ15Nが見られた可能性がある。低硝酸塩海域においては、δ15Nは窒素源の違い(下層硝酸塩、水平輸送された硝酸塩、窒素固定)を反映する。低硝酸塩海域のクラスター1Bおよび2Aでは窒素固定の寄与が大きく、3Bでは水平輸送された硝酸塩の寄与が大きいと考えられる。
論文情報
- 雑誌
- Global Biogeochemical Cycles
- 題名
- Carbon and nitrogen isoscapes of particulate organic matter in the Pacific Ocean
- 著者
- 堀井幸子・黒木洋明・宮本洋臣・巣山哲・冨士 泰期・安倍大介・市川忠史(水産研究・教育機構水産資源研究所)・谷田巌(水産研究・教育機構水産技術研究所)・加藤慶樹(水産研究・教育機構開発調査センター)・児玉武稔・佐藤拓哉*1・古谷研*2・高橋一生(東京大学大学院農学生命科学研究科)・塩崎拓平(東京大学大気海洋研究所)
現在所属:*1京都大学化学研究所、*2創価大学プランクトン工学研究所
研究助成
本研究は、水産庁事業「国際資源評価等推進委託事業」、「水産資源調査・評価等推進委託事業」、文部科学省科学研究費助成事業(JP24121005, JP24121001, JP16H04959, JP16J06708, JP20KK0240)、およびアサヒグループ財団研究助成「温暖化に伴う外洋窒素固定量増加が食物網に与える影響の解明」の支援を受けて行われました。
用語解説
注1) 炭素・窒素安定同位体
同じ種類だが重さ(質量数)が異なる原子のうち、放射線を放出せず環境に安定して存在しているものを安定同位体という。重い同位体(13Cや15Nなど)やそれを含む分子、化合物は、軽い同位体(12Cや14N)のものと比較し化学反応の速度が遅い。結果として、植物プランクトンの炭素や窒素の安定同位体の存在比(同位体比)は、生育環境や代謝状態、光合成系の特徴等を反映して様々な値となる。一般に同位体比は、元素ごとの標準試料と比べたときの差を用いて表記され、炭素同位体比はδ13C(デルタ13シー)、窒素同位体比はδ15N(デルタ15エヌ)と表される。
注2) 栄養塩
植物の増殖に必要な窒素、リン、ケイ素などの水中の無機塩類。海洋表層の生態系では、栄養塩の中でも硝酸塩等の窒素が枯渇しやすく、植物プランクトンの増殖を左右する因子となりやすい。
注3) 窒素固定
一部の原核生物によって行われる、窒素ガスを還元してアンモニアを生成する過程。窒素ガスは化学的に非常に安定であるため、ほとんどの植物プランクトンは直接養分として利用することができない。しかし窒素栄養塩が枯渇した海域では、しばしばシアノバクテリア等による活発な窒素固定がみとめられ、生成された窒素化合物が植物プランクトンの重要な窒素源となっていると考えられている。
問い合わせ先
国立研究開発法人 水産研究・教育機構
(研究担当者)水産資源研究所(長崎庁舎)
水産資源研究センター海洋環境部暖流第3グループ
堀井幸子
(広報担当者)経営企画部広報課