2024-09-23 量子科学技術研究開発機構,広島大学,科学技術振興機構
本研究成果のポイント
- 次世代超高速・省エネ情報(スピントロニクス)デバイス材料内部の電子スピン計測は、放射光を利用しても非常に長い時間を要し、実用性に乏しいものであった。
- 人工知能(AI)導入により計測時間の大幅な短縮(1/10)に成功した。
- 3GeV高輝度放射光施設NanoTerasuに本成果を展開することで、スピントロニクス材料開発に大きく貢献することが期待される。
概要
量子科学技術研究開発機構(理事長 小安重夫、以下「QST」)関西光量子科学研究所 放射光科学研究センターの岩澤英明プロジェクトリーダー、上野哲朗主幹研究員らは、広島大学(学長 越智光夫)大学院先進理工系科学研究科の黒田健太准教授、広島大学放射光科学研究所の奥田太一教授らと共同で、「スピントロニクス※1)」デバイス材料内部でその機能を担う電子スピンの計測技術の実用化に向けた大幅な計測時間の短縮に成功しました。
超スマート社会(Society 5.0)の実現には、超高速・超低消費電力の次世代情報デバイスが不可欠です。その中でも従来のエレクトロニクスよりはるかに省エネ性能が高くなるものとして、電子の持つスピン(自転運動)の状態(向きと動き)を利用した「スピントロニクス」デバイスが注目されています。これは、デバイス材料内部のスピンの状態によって演算・記憶機能を実現するものであるため、その状態を計測できるようにすることが開発に役立ちます。これまでに本研究グループは、最先端の計測技術である「軟X線※2)スピン・角度分解光電子分光法(SARPES)※3)」を用いてスピンの状態を計測する装置を開発してきましたが、計測に長い時間がかかり、その間に試料が劣化して精度が下がることから、実用レベルに至っていませんでした。
そこで、本研究では、計測プロセスに新たにAI技術を導入し、計測時間が短くノイズの多いデータからでも正しい情報を抽出できるようにすることで、計測時間を従来の1/10と実用レベルにまで短縮することに成功しました。本計測技術を、QSTが整備・運用する高輝度な軟X線が利用できる3GeV高輝度放射光施設NanoTerasu※4)(以下「NanoTerasu」という。)に導入することによって、1日以内で十分な精度の計測が実施可能となり、次世代情報デバイス開発を強力に推進できる環境が世界に先駆けて整うことになります。
本研究は、Scientific Reports誌に2024年9月23日(月)10:00(英国、現地時間)にオンライン掲載される予定です。
【研究開発の背景と目的】
大量の情報通信を伴うスマート社会の実現には、超高速かつ超低消費電力の次世代情報デバイスが不可欠です。その中でも、「スピントロニクス」デバイスが注目されています。スピントロニクスでは、電子の持つスピン(自転運動)の状態(向きと動き)を利用することで、デジタル情報記憶を電源オフの状態でも保持できる「不揮発性」を実現できるため、既存のエレクトロニクスが抱える待機電力の課題をクリアし、小型・省エネ化が期待できます。また、電子のスピンの向きを操作することは、電子を移動させることと比べて非常に高速に行うことができることから、エレクトロニクスよりも高速なデータ処理・演算が実現できます。従って、スピントロニクスの応用が進めば、従来のエレクトロニクスよりも高速に動作し、電池が桁違いに長持ちするノートパソコンやスマートフォンも実現できる見込みです。
スピントロニクスデバイスの代表例として、磁気トンネル接合(MTJ)素子があります。MTJ素子では、スピンの向きによって磁性体薄膜から非磁性体薄膜への電流の流れやすさ(磁気抵抗比:MR比)が異なるため、「0」と「1」を読み出す磁気センサーとして機能し、次世代の超高密度ハードディスクのリードヘッドへの応用が期待されています。しかし、低温では巨大なMR比が得られる一方、室温ではMR比が大幅に低下してしまうことが、高性能化の障害となっています。このMR比は、積層界面(異なる物質を積層させた際の境界部分)の状態に強く依存していると予想されていることから、室温でのMR比低下の原因を明らかにするため、デバイス材料内部の界面におけるスピンの状態を調べることが強く望まれていました。
このデバイス材料内部のスピンの状態を計測できる技術として期待されているのが、「軟X線スピン・角度分解光電子分光法」です(図1)。軟X線を用いることで、デバイス材料の表面だけでなく内部の界面のスピン状態をも計測できるようにするものですが、極端に長時間の測定を必要としてしまうという課題がありました。これまで本研究グループは、装置開発を重ねて実用化に近づいてはいたものの、もう一歩届いていませんでした。
図1 軟X線スピン・角度分解光電子分光法を用いて、「磁気トンネル接合(MTJ)素子」の内部に埋もれた界面のスピンを検出する模式図。MTJ素子中の界面に存在する電子に軟X線を照射すると、電子を外部へと取り出すことができる(光電効果の利用)。こうして取り出した電子の「スピン」の向きと動きを決定する。
【研究の手法と成果】
本研究グループは、「軟X線スピン・角度分解光電子分光法」の実用化に必要な高速化を、計測プロセスにAI技術を導入することによって達成しました。本AI技術の実証実験では、従来の方法では一つの計測プロセスを600回繰り返して積算することで計測結果を得ていたところを、その1/10以下となるわずか57回繰り返すだけで、同等の情報を抽出できることを明らかにしました。これはつまり、これまでの10倍の高速化が可能であることを示します(図2)。
実証実験は、スピントロニクス材料として期待されるトポロジカル絶縁体※5)を対象に行いました。スピンの状態を知るには、スピン偏極度※6)を決める必要があります。従来の方法では、熟練の研究者がスピン偏極度のデータのばらつきを判断し、十分な品質のデータが得られるまで積算をしていたため、計測プロセスを多数回繰り返す必要がありました。
一方で、今回は、AI技術を用いることで、積算回数が少なく人間の目では一見ばらついているように見えるデータからでも情報を抽出できるようにしました。ガウス過程回帰※7)(GPR: Gaussian Process Regression)という機械学習法を用いて、各計測プロセスでデータ(計測スペクトル)を取得するたびに、ノイズのないスペクトルを推定し、実際の計測スペクトルとの一致度(GPRスコア)を評価します。このGPRスコアがデータの確からしさの指標になります。これにより、従来難しかった「データの質の定量的な判断」が、初めて可能になりました。その結果、従来の1/10以下の繰り返しで一致度が95%(GPRスコア:0.95)に到達し、スピン偏極度を従来と同等の精度で決定できることが分かりました(図3)。
世界の高輝度軟X線放射光施設においても、従来手法により典型的な計測を行う場合、1週間以上かかると見積もられていましたが、その間に計測試料の質の劣化や、計測環境の変動が生じるために、高精度の計測を行うことが実質的に不可能でした。しかし、本手法により、計測時間を従来の1/10にまで短縮できるようにしたことで、十分な精度を担保し得る1日以内での計測が可能となります。
図2 計測プロセスの積算回数とデータの確からしさの指標(GPRスコア)との関係。従来手法では、600回の計測プロセスを必要としていたが、今回、AI技術を活用することで、同等の情報がわずか57回の積算で得られることが分かった。
図3 スピン偏極度の計測スペクトルとGPRを用いた推定スペクトル、スピン偏極度の平均値、およびGPRスコア(計測スペクトルと推定スペクトルの一致度)と計測プロセスの繰り返し回数の関係。
【今後の展開】
今後、本AI技術を世界トップクラスの輝度を有する次世代の放射光施設であるNanoTerasuに導入することにより、世界初の「軟X線スピン・角度分解光電子分光法」の実用展開が可能になります。スピントロニクスデバイス開発への活用とともに、スピンの働きが重要である次世代量子マテリアルデバイス全般の研究開発で世界を牽引していくことが期待されます。
【謝辞】
本研究は、科学技術振興機構の戦略的創造研究推進事業さきがけ(JPMJPR23J1)、防衛装備庁の安全保障技術研究推進制度(JPJ004596)、日本学術振興会の科学研究費助成事業(JP19K03749, JP23K17671, JP22H01943, JP21H04652, JP16H02114, JP20H00347)ならびに二国間交流事業(JPJSBP120209941, JPJSBP120239943)の支援を受けて実施しました。
【用語解説】
※1) スピントロニクス
従来の半導体や電子部品といったエレクトロニクスでは、電子の持つ電荷のみが利用されているのに対して、スピントロニクスでは電子のスピンを利用する。エネルギー効率の向上や情報伝達の高性能化などが見込めるため、次世代エレクトロニクスとして期待されている。
※2) 軟X線
軟X線は、波長が約0.1 nmから数10 nmの電磁波のことで、物質の化学状態や電子状態などの詳細な観察に適している。軟X線よりも波長の長い真空紫外線も同様の目的でよく用いられるが、真空紫外線が試料の表面付近の状態に敏感であるのに対して、軟X線は表面より内部や界面の状態を調べるのに適している。
※3) スピン・角度分解光電子分光法(SARPES)
物質に光を入射して、光電効果により物質外部に放出される電子の「エネルギー」・「角度」・「スピン」を計測することで、物質内の電子とスピンの運動の様子を調べる実験技術のこと。SARPESはSpin- and angle-resolved photoemission spectroscopyの略。
※4) 3GeV高輝度放射光施設NanoTerasu
1メートルの10億分の1というナノの世界を観察することができる世界最高水準の先端大型研究施設で、従来に比べて100倍明るい放射光を発生できる最新の円型加速器設計を国内で初めて採用(世界では4例目)した次世代の放射光施設。高輝度な軟X線を用いて、物質の機能に影響を与える電子状態の可視化が可能な施設であり、学術研究だけでなく産業利用も含めた広範な分野での利用が可能。
施設等の詳細:2023年7月14日プレスリリース
※5) トポロジカル絶縁体
結晶内部が絶縁体であるのに対して、表面(エッジ)では電気伝導体となる新種の物質のこと。表面で伝導する電子は、スピン偏極しており、散乱の無いスピン流を示すため、スピントロニクスなどへの応用が期待されている。
※6) スピン偏極度
スピンの向きの偏りの度合いのこと。例えば、スピンの向きに偏りがなく、スピンがランダムに分布している場合、互いに逆向きのスピンが打ち消し合い、全体としてスピンの偏りは平均化されるため、スピン偏極度はゼロになる。スピンの向きが揃っている場合、スピン偏極度は大きくなる。全てのスピンが一方向に完全に揃っている場合、スピン偏極度は1となる。スピン偏極度の実験的決定には長時間を要する。
※7) ガウス過程回帰
多次元の正規分布(ガウス分布)に基づく曲線を観測データに当てはめる手法のことで、観測データから未観測の情報とその不確実性の度合いを予測することができる。
【掲載論文】
掲載誌名:Scientific Reports
論文タイトル:“Efficiency improvement of spin-resolved ARPES experiments using Gaussian process regression”
著者:Hideaki Iwasawa, Tetsuro Ueno, Takuma Iwata, Kenta Kuroda, Konstantin A. Kokh, Oleg E. Tereschenko, Koji Miyamoto, Akio Kimura, and Taichi Okuda
DOI:10.1038/s41598-024-66704-8