2024-05-17 分子科学研究所
【発表のポイント】
- ポリイソプロピルアクリルアミド(PNIPAM、プニパム)(1)は、水とメタノールには溶けるが、水とメタノールを混ぜた溶液には溶けなくなる共貧性溶媒効果(2)を示すことが知られている。
- PNIPAM周辺の分子間相互作用を選択的に調べることができる軟X線吸収分光計測(3)と計算機シミュレーションを用いて、共貧性溶媒効果のメカニズムを調べた。
- 溶液中で形成される微小なメタノールの塊とPNIPAMの間の疎水性相互作用(4)により、PNIPAMの疎水性水和(4)が壊されることが、共貧性溶媒効果が出現する原因であることを明らかにした。
【概要】
自然科学研究機構 分子科学研究所/総合研究大学院大学の長坂将成助教、高エネルギー加速器研究機構 物質構造科学研究所/総合研究大学院大学の足立純一講師、高エネルギー加速器研究機構 物質構造科学研究所の熊木文俊博士研究員、浙江大学(中国)の望月建爾教授、Yifeng Yao大学院生は、軟X線吸収分光計測と計算機シミュレーションを基にして、ポリイソプロピルアクリルアミドが、水とメタノールそれぞれに溶けるのに対して、水とメタノールを混ぜた溶液には溶けなくなる共貧性溶媒効果のメカニズムを明らかにしました。
本研究成果は、国際学術誌『Physical Chemistry Chemical Physics』に速報として、2024年4月17日付でオンライン掲載されました。
1.研究の背景
ポリイソプロピルアクリルアミド(PNIPAM)は、水とメタノールには溶けますが、水とメタノールを混ぜた溶液(メタノール水溶液)には溶けなくなる共貧性溶媒効果を示すことが知られています。これまでにも多くの研究が行われてきましたが、この共貧性溶媒効果のメカニズムは未だ明らかになっていませんでした。研究グループは、溶液中のPNIPAMと溶媒分子である水とメタノールの分子間相互作用がどのように変化するのかが、そのメカニズムを解明するうえで重要であると考えて、メタノール水溶液中のPNIPAMの軟X線吸収分光(XAS)計測を行いました。酸素K吸収端の光エネルギーを選んでXAS測定することで、PNIPAMのカルボニル基(C=O基)周りの水とメタノールの様子が分かるので、ここから共貧性溶媒効果が出現する要因について明らかにすることを目指しました。
2.研究の成果
メタノール水溶液中のPNIPAMの共貧性溶媒効果を調べるために、水とメタノールの割合を変えた溶媒を用いた、PNIPAM溶液の酸素K吸収端XAS測定を行いました。実験は、高エネルギー加速器研究機構 物質構造科学研究所フォトンファクトリーの軟X線ビームラインBL-7Aに、研究グループが開発した溶液XAS測定システム(5)を接続することで行いました。図1に示すように、純メタノールと純水において、PNIPAMは溶けていますが、メタノール割合が中間の濃度領域では、PNIPAMは溶けずに白濁した溶液になっていることが分かります。酸素K吸収端XASスペクトルにおいて、PNIPAMのC=O π*ピーク(6)は、水やメタノールのピークよりも低エネルギー側にあるので、溶媒の寄与に埋もれることなく、そのピークを観測できます。PNIPAMのC=O π*ピークのエネルギーシフトを、異なる割合のメタノール水溶液ごとに求めました。メタノールの割合が多い時には、C=O π*ピークは水の割合が増えるほど、緩やかな高エネルギーシフトを示します。これは、PNIPAMのC=O基とメタノールの水素結合が、水の水素結合に置き換わることを表します。一方、純水ではC=O π*ピークが、純メタノールのときよりも大きく高エネルギー側にシフトしていることが分かりました。これは、巨視的には水とメタノールに同じように溶けてみえるPNIPAMが、分子レベルでは異なった描像を示していることを表します。
図1 : メタノール水溶液中の高分子PNIPAMの酸素K吸収端XAS計測の結果。メタノール水溶液の割合が変わると、PNIPAMのC=O π*ピークがエネルギーシフトする。中間の濃度領域でPNIPAMが溶けなくなる共貧性溶媒効果を示す。
研究グループは、異なる割合のメタノール水溶液中のPNIPAMの構造を分子動力学計算(7)で調べました。さらに、得られたモデル構造を基にして、内殻励起計算(8)を行い、実験で得られたXASスペクトルと比較しました。その結果、純メタノール中では、メタノールとの疎水性相互作用によりPNIPAMの鎖構造は伸びているのに対して、純水中では、PNIPAMが丸まっていることを見出しました。純水で観測されたC=O π*ピークの高エネルギーシフトは、PNIPAMが丸まった構造のためだと分かりました。純水中では、疎水性水和によりPNIPAMに水が配位するので、PNIPAMは完全に固まらず、水に溶けています。一方、共貧性溶媒効果を発現する濃度領域のメタノール水溶液中では、PNIPAMにメタノールの塊が疎水性相互作用することで、PNIPAMの疎水性水和が壊されて、PNIPAMが凝集することが分かりました。
3.今後の展開・この研究の社会的意義
溶液中の高分子の挙動は特徴的なものが多く、まだそのメカニズムは完全には解明されていません。本研究で用いたPNIPAMは刺激応答性高分子として、環境変化によりその構造が大きく変化しますので、薬物送達やバイオセンサなど、多くの化学・生物学的な応用が期待されています。共貧性溶媒効果の他にも、低温では溶けるが高温で溶けなくなる、通常の溶液とは異なる挙動である下部臨界温度という現象もあり、PNIPAMの全容を明らかにするには、これからも更なる研究が必要です。
本研究により、軟X線吸収分光計測による溶液中の分子間相互作用の解析から、共貧性溶媒効果のような高分子の相転移現象を明らかにできることを示すことができました。これは、軟X線吸収分光計測により、タンパク質フォールディング(9)などの生物学的な相転移現象を調べることができることも意味しています。今後、軟X線吸収分光計測により、化学・生物学的な様々な相転移現象が解明されることが期待されます。
4.用語解説
(1) ポリイソプロピルアクリルアミド(PNIPAM)
刺激応答性高分子であり、温度、pH、イオン濃度などの化学環境の変化により、高分子鎖が伸びたり、丸まった構造になることが知られている。図1にこの化学式を示した。
(2) 共貧性溶媒効果
個々の液体では溶ける物質が、その液体を混ぜ合わせると溶けなくなる現象。高分子に多く見られる現象であるが、小さな有機分子でも出現することが近年分かってきている。
(3) 軟X線吸収分光計測
2 keV以下の軟X線を試料に照射して、その透過量を計測する手法である。軟X線照射により、炭素、窒素、酸素などの軽元素の内殻電子が励起されるため、元素選択的に物質の電子状態を調べることができる。例えば、酸素1s電子が励起される光エネルギー領域を酸素K吸収端と呼び、酸素原子周辺の電子状態を調べることができる。測定には高強度の軟X線が必要なため、一般的に軟X線吸収スペクトルは、加速器が生み出す放射光を用いて測定される。
(4) 疎水性相互作用、疎水性水和
メタノール分子のメチル基などは疎水性であり、水が近づきにくい。水が排除されることで、疎水基同士が近づきやすくなることを疎水性相互作用という。一方、疎水基に水が配位する現象も知られていて、これを疎水性水和という。
(5) 溶液XAS測定システム
軟X線は大気や液体に強く吸収されるため、溶液のXAS測定を行うには、液体層の厚さを数マイクロメートル以下にする必要があり、測定が非常に困難であった。長坂らは、分子科学研究所UVSORにおいて、液体層を2枚の窒化シリコン膜(100 nm厚)で挟んで、その厚さを精密に制御する方法を独自に開発することで、溶液のXAS測定を実現した。現在、分子研UVSORと高エネルギー加速器研究機構フォトンファクトリーに、開発した溶液XAS測定システムを設置している。
(6) PNIPAMのC=O π*ピーク
酸素K吸収端XASスペクトルで観測されるPNIPAMのC=O π*ピークは、PNIPAMのC=O基の酸素原子の内殻電子(1s軌道)が、C=Oのπ*軌道に励起する過程に対応する。π*軌道は周辺に存在する水やメタノールと相互作用するので、PNIPAMのC=O基周りの水素結合などの分子間相互作用を調べることができる。
(7) 分子動力学計算
分子間の相互作用を基にして、その分子配置の時間発展を計算する手法である。
(8) 内殻励起計算
XASスペクトルに対応する内殻励起スペクトルを、目的の分子構造から量子化学計算により求める手法である。モデル構造ごとに内殻励起スペクトルを得られるので、実験で得られたXASスペクトルと比較することで、溶液中の分子構造を調べることができる。
(9) タンパク質フォールディング
タンパク質が機能を発揮するために、タンパク質鎖が本来の立体構造に折りたたまれる現象をいう。
5.論文情報
掲載誌:Physical Chemistry Chemical Physics
論文タイトル:
”Mechanism of poly(N-isopropylacrylamide) cononsolvency in aqueous methanol solutions explored via oxygen K-edge X-ray absorption spectroscopy”
(「酸素K吸収端X線吸収分光計測によるメタノール水溶液中のポリイソプロピルアクリルアミドの共貧性溶媒効果の機構探索」)
著者:
Masanari Nagasaka, Fumitoshi Kumaki, Yifeng Yao, Jun-ichi Adachi and
Kenji Mochizuki
掲載日:2024年4月17日(オンライン公開)
DOI:https://doi.org/10.1039/D4CP00676C
6.研究グループ
自然科学研究機構 分子科学研究所
高エネルギー加速器研究機構 物質構造科学研究所
浙江大学 中国
7.研究サポート
本研究は、科研費(基盤研究(B) JP19H02680)とNational Natural Science Foundation of China(No. 22273083, 22250610195)の支援の下で実施されました。実験は高エネルギー加速器研究機構物質構造科学研究所放射光共同利用実験課題(課題番号:2021G047)により実施しました。計算の一部は自然科学研究機構岡崎共通研究施設・計算科学研究センターを用いました(課題番号:22-IMS-C187)。
8.研究に関するお問い合わせ先
長坂 将成(ながさか まさなり)
分子科学研究所/総合研究大学院大学、助教
9.報道担当
自然科学研究機構・分子科学研究所 研究力強化戦略室 広報担当
総合研究大学院大学 総合企画課 広報社会連携係
高エネルギー加速器研究機構 広報室