ハイパー核の束縛エネルギー精密測定へ~ハイパートライトンパズルの解明に向けて~

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2021-09-14 理化学研究所,岐阜大学,東北大学,立教大学

理化学研究所(理研)開拓研究本部齋藤高エネルギー原子核研究室の齋藤武彦主任研究員、岐阜大学教育学部・工学研究科の仲澤和馬シニア教授、東北大学大学院理学研究科の吉田純也助教、立教大学大学院人工知能科学研究科の瀧雅人准教授らの国際共同研究グループは、大強度陽子加速器施設「J-PARC」[1]においてK中間子[2]ビームが照射された写真乾板データを、独自に開発した機械学習[3]モデルによって解析し、ハイパー核[4]の一種である「ハイパートライトン[4]」の生成と崩壊の事象を可視的に検出することに成功しました。

本研究成果は、写真乾板からハイパートライトンを大量に効率良く検出できることを示しており、その束縛エネルギー[5]を世界最高精度で決定することで「ハイパートライトンパズル」と呼ばれる謎の解決への貢献が期待できます。

ハイパートライトンは、重水素原子核[6]とラムダ粒子(Λ粒子)[7]から構成されており、それらの間に働く力による束縛エネルギーは1970年代までの測定結果が約50年にわたり信じられてきました。しかし、近年の実験でハイパートライトンの生成から崩壊に至るまでの寿命が束縛エネルギーから予測される値よりも有意に短い可能性が示されました。ハイパートライトンパズルと呼ばれるこの矛盾を解決するには、束縛エネルギーを精密に再測定することが重要です。

今回、国際共同研究グループは、物理シミュレーションと機械学習技術を組み合わせた解析手法を開発し、写真乾板データからハイパートライトンの生成と崩壊の事象を検出できることを実証しました。

本研究は、科学雑誌『Nature Reviews Physics』オンライン版(9月14日付)で掲載されます。

発見されたハイパートライトンの崩壊事象の図

発見されたハイパートライトンの崩壊事象

背景

私たちの身の回りの物質は、複数の原子が集まって形成されています。原子の基本となる原子核は、正の電荷を持つ陽子と電荷を持たない中性子が核力によって束縛(結合)することで構成されています。しかし、この核力の仕組みには未解決な部分が残されています。

核力の仕組みを解明する鍵として長年にわたって研究されているのが、「ハイパー核」と呼ばれる特殊な原子核です。ハイパー核には、通常の原子核を構成する陽子と中性子のほかに「ハイペロン[7]」という粒子が加わっています。陽子と中性子は、それぞれアップクォーク[8]とダウンクォーク[8]から構成されているのに対し、ハイペロンはストレンジクォーク[8]を含んでいます。ハイパー核では、陽子や中性子と異なる性質を持つ粒子が加わることで、原子核の性質がどのように変化するか調べることができ、核力をより拡張した枠組みから理解することにつながります。そのため、陽子・中性子・ハイペロンの数の組み合わせや、ハイペロンの種類が異なるさまざまなハイパー核が生成され、研究が進められています。

ハイパー核の中で最も軽いものは「ハイパートライトン」と呼ばれ、陽子と中性子からなる重水素原子核とハイペロンの一種であるラムダ粒子(Λ粒子)から構成されています。このハイパートライトンには、「ハイパートライトンパズル」と呼ばれる謎が存在することが知られています。このパズルは、ハイパートライトンが生成されてから崩壊するまでの寿命の測定値が、1970年までに測定された束縛エネルギーから予測される値よりも有意に短いとする実験結果があることに由来しています。さらに、世界各地で行われた実験間で寿命の測定値にばらつきがあるため、この謎の解明は困難を極めています。そこで、齋藤武彦主任研究員が主宰するWASA-FRS実験では、2022年2月にドイツの重イオン加速器実験施設において、ハイパートライトンの寿命を世界最高精度で測定する予定です。

一方、ハイパートライトンの束縛エネルギーについては、1970年までに行われた「写真乾板」を用いた実験による測定値が50年にわたって信じられてきました。しかし2020年、米国ブルックヘブン国立研究所のSTAR重イオン衝突実験において得られた束縛エネルギーの測定値が、50年前の値よりも数倍大きい可能性があるとする論文が発表されました注1)。ただしこの論文では、誤差が大きかったため最終的な結論を出すところまではいかず、ハイパートライトンの謎はより深まりました。従って、ハイパートライトンパズルを解くには、ハイパートライトンの寿命だけでなく束縛エネルギーも世界最高精度で再測定する必要があります。

注1)Nature Physics. 16, 409-412, DOI: 10.1038/s41567-020-0799-7 (2020).

研究手法と成果

国際共同研究グループは、大強度陽子加速器施設「J-PARC」において、K中間子ビームが照射された写真乾板のデータを用いて、ハイパートライトンの生成と崩壊事象を調べることにしました。写真乾板とは、電荷を持った粒子が通った痕跡を飛跡として記録できる特殊な写真フィルムのことです。光学顕微鏡観察により粒子飛跡の3次元位置情報を1マイクロメートル(μm、1μmは1000分の1mm)以下のスケールで測定可能で、この空間分解能により、1事象ごとに束縛エネルギーを高精度で測定できます。この写真乾板にはハイパートライトンの生成と崩壊の事象が大量に記録されていると考えられており、これらの検出・解析によってハイパートライトンの束縛エネルギーを世界最高精度で決定できます。

しかし、写真乾板は時間情報を持たないため、粒子がいつそこを通ったのかは知ることができず、製造直後から現像するまでの間に写真乾板中を通った全ての粒子の飛跡が背景事象として記録されてしまいます(図1)。

実験で使用した写真乾板(左)と光学顕微鏡で撮影した写真乾板の画像(右)の図

図1 実験で使用した写真乾板(左)と光学顕微鏡で撮影した写真乾板の画像(右)

「J-PARC」での実験でK中間子ビームが照射された写真乾板(左)と、光学顕微鏡によって撮影した拡大画像(右)。黒い線は飛跡と呼ばれる荷電粒子が通った痕跡で、写真乾板1cm2あたり約100万本の飛跡が記録されている。

通常このような写真乾板を用いた実験では、写真乾板の周りに設置した検出器で荷電粒子が通った際の電気信号を取得し、その情報をヒントに探索範囲を絞り込む手法が用いられます。しかし、今回ハイパートライトンを探索する写真乾板は、元々別のハイパー核を検出するための実験で使用されたものだったことから、大量の背景事象の中から全くヒントがない状態で、ハイパートライトンを探す必要がありました。

そこで、国際共同研究グループは機械学習を用いた画像中の物体検出技術に着目しました。自動運転や医療画像診断に重要な物体検出技術の性能は、近年発展が著しいニューラルネットワーク[3]の導入により大きく向上しました。なかでもMask R-CNN[9]という物体検出ネットワークは、2017年に物体検出のコンペティションで優勝し、さまざまな分野で応用されています。そこで、Mask R-CNNを用いて、写真乾板に記録されているはずのハイパートライトンが崩壊した痕跡を検出する機械学習モデルを開発することにしました。

機械学習モデルの性能を左右するのは、学習に使用する教師データです。機械学習モデルを目的の物体検出に適したものにするには、数千から数万枚の画像と正解の情報が必要です。しかし、今回の検出対象であるハイパートライトン事象は非常にまれであり、教師データを大量に集めることは不可能です。それどころか、このJ-PARCの実験で使用した写真乾板からハイパートライトンを検出した例は一つもありませんでした。

この問題を解決するために、物理シミュレーションと画風変換技術によって教師データを作成しました。ハイパートライトンが写真乾板中を飛行し、運動エネルギーを失って静止した後、パイマイナス中間子[10]とヘリウム3原子核の二つの粒子に崩壊する事象をシミュレーションし、その飛跡情報を出力しました。この飛跡の線分情報を写真乾板の顕微鏡画像風の模擬画像とするため、敵対的生成ネットワーク(GAN)[11]という画像変換のためのニューラルネットワークを使用しました。GANでは、画像変換前後の対になった画像を教師データとして学習させ、簡単な線画を絵画風に変換したり、実在しない人の顔を作ったりすることができます。この画風変換技術により、物理シミュレーションで生成したハイパートライトン事象を含んだ画像を、写真乾板の模擬画像に変換しました(図2)。

物理シミュレーションと画風変換技術によって作成した模擬画像の図

図2 物理シミュレーションと画風変換技術によって作成した模擬画像

ハイパートライトン(3ΛH)は、寿命を迎えると複数の粒子を伴って崩壊する。その例の一つが、パイマイナス中間子(π)とヘリウム3原子核(3He)が放出される二体崩壊である(左)。物理シミュレーションにより放出される粒子飛跡の3次元位置情報を生成し、背景事象と合わせて画風変換を行い、ハイパートライトン事象の模擬画像を生成した(中、右)。この模擬画像を用いて、物体検出器が画像中からハイパートライトンの崩壊事象を正しく検出するよう学習させた。


通常の教師データは、画像に対してその中に映っている物体の情報を人間が手作業で付加して作成されます。しかし、今回作成した教師データはシミュレーションで生成しているため、検出する対象の位置や形を自動で取得することができ、大量の画像を手作業なしで作成できます。約1万枚の模擬画像を用いてMask R-CNNに学習させ、実際の写真乾板画像データを解析したところ、ハイパートライトンが写真乾板中で静止して、崩壊した痕跡を検出することに成功しました(図3)。

本研究で検出された最初のハイパートライトン事象の図

図3 本研究で検出された最初のハイパートライトン事象

写真乾板中のA点でハイパートライトン(3ΛH)が生成され、B点まで飛行した後、パイマイナス中間子(π)とヘリウム3原子核(3He)に崩壊する様子が観測された。B点で放出されたパイマイナス中間子が約29mm飛行した後、C点で静止したことを確認し、飛跡の長さから計算した運動エネルギーと運動学解析により、これがハイパートライトン事象であることを同定した。

今後の期待

今回、物理シミュレーションと機械学習技術を組み合わせることで、大量の背景事象を含む写真乾板の画像データから、生成のまれなハイパートライトン事象の検出に成功しました。論文を投稿した2021年3月までに解析したのは、実験で使用した全写真乾板データの約5,000分の1ですが、その時点で3例のハイパートライトンが一意に識別されています。

現在も大量のデータ解析は進行中であり、世界最高精度でハイパートライトンの束縛エネルギーを測定し、WASA-FRS実験における寿命の精密測定とともに「ハイパートライトンパズル」の解決を目指します。

また、本技術はハイパートライトンだけでなく、その他のまれなハイパー核事象の検出にも適用可能です。現在解析している写真乾板には、これまで発見されていないさまざまな種類のハイパー核や、これまでに観測されたことのない原子核の生成崩壊事象が記録されている可能性があります。さまざまなハイパー核の束縛エネルギーの精密測定、新たな事象の検出によりハイパー核、核力の理解を深めるために、今後、さらにこの技術の改善や拡張を進めます。

補足説明

1.大強度陽子加速器施設「J-PARC」
茨城県東海村に建設された、大強度陽子加速器と利用施設群の総称。Japan Proton Accelerator Research Complexの略。高エネルギー加速器研究機構(KEK)と日本原子力研究開発機構(JAEA)が共同で運営している。加速器で加速した陽子を原子核標的に衝突させることで発生する二次粒子を用いて、物質・生命科学、原子核・素粒子物理学などの研究や産業利用を行っている。

2.K中間子
中間子は、クォークと反クォークが一つずつ集まって構成される粒子。ストレンジクォークを含む中間子をK中間子と呼ぶ。

3.機械学習、ニューラルネットワーク
機械学習とは、コンピュータを用いたデータ処理手法のうち、人間があらかじめ処理方法をプログラムするのではなく、大量のデータと正解例(教師データ)によってコンピュータに処理方法を構築させる技術。ニューラルネットワークは、機械学習に用いられる数理的モデルの一つで、生物の脳の神経回路網の仕組みを模したもの。ニューラルネットワークを用いた画像処理は2010年代半ば頃から急速に性能が向上し、現在ではさまざまな場面で応用されている。

4.ハイパー核、ハイパートライトン
ハイパー核は、通常の原子核を構成する陽子と中性子のほかに、ハイペロンという粒子が加わった原子核のこと。ハイパートライトンは、ハイパー核の中で最も軽く、陽子、中性子、ラムダ粒子(ハイペロンの一種)から構成される。

5.束縛エネルギー
原子核とラムダ粒子が束縛(結合)してハイパー核を形成したとき、そのハイパー核の質量は、芯となった原子核の質量とラムダ粒子の質量の合計よりも軽くなる。この質量の差を束縛エネルギーと呼び、ハイパー核にとって基本的な物理量である。ハイパートライトンは陽子一つ、中性子一つからなる重水素原子核にラムダ粒子が束縛したものと見なすことができ、その束縛エネルギーはハイパートライトンの質量から重水素原子核とラムダ粒子の質量を引いた値として定義される。

6.重水素原子核
陽子一つと中性子一つから構成される重水素の原子核。原子は構成要素となる陽子の数によって原子番号が決まるため、陽子一つのみで構成される水素原子1Hに対して重水素は2Hと表記される。

7.ラムダ粒子(Λ粒子)、ハイペロン
通常の原子核を構成する陽子や中性子がアップクォークとダウンクォークのみで構成されているのに対して、次に重いストレンジクォークが含まれる粒子をハイペロンと呼ぶ。ハイペロンには、ストレンジクォークを一つ含むラムダ粒子(Λ)やシグマ粒子(Σ)、二つ含むグザイ粒子(Ξ)、三つ含むオメガ粒子(Ω)が存在する。

8.アップクォーク、ダウンクォーク、ストレンジクォーク
クォークは原子核を構成する基本粒子で、現在知られている物質の最小単位である。クォークには6種類あり、軽い方から、アップ、ダウン、ストレンジ、チャーム、ボトム、トップと名付けられている。それぞれのクォークには、質量がほぼ同じで、電荷の正負が逆になった反クォークが存在する。

9.Mask R-CNN
2017年に発表された機械学習を用いた画像中の物体検出器。畳み込みニューラルネットワークを物体検出に導入したR-CNN(Regions with Convolutional Neural Network features)を高速化し、検出対象の物体の形(Mask)まで推定できるように改良したもの。

10.パイマイナス中間子
パイ中間子は、原子核内で陽子と中性子を強く結び付ける力を媒介する粒子で電荷を持つパイプラス中間子、パイマイナス中間子、電荷を持たない中性パイ中間子の三つが存在する。

11.敵対的生成ネットワーク(GAN)
入力した画像を目的の画風へ変換するためのニューラルネットワークと、出力された画像が本物か偽物かを見分けるニューラルネットワークを同時に競い合わせて学習させることで、よりリアルな変換模擬画像を生成可能とする技術。GANはGenerative Adversarial Networksの略。

国際共同研究グループ

理化学研究所 開拓研究本部 齋藤高エネルギー原子核研究室
基礎科学特別研究員 江川 弘行(えかわ ひろゆき)
大学院生リサーチ・アソシエイト 笠置 歩(かさぎ あゆみ)
上級研究員(研究当時) 齋藤 奈美(さいとう なみ)
主任研究員 齋藤 武彦(さいとう たけひこ)
研究員 田中 良樹(たなか よしき)
研修生 ウェンボ・ドウ(Wenbo Dou)
特別研究員 中川 真菜美(なかがわ まなみ)
国際プログラム・アソシエイト アブドゥル・ムニーム(Abdul Muneem)
国際プログラム・アソシエイト エンチャン・リュウ(Enqiang Liu)
研究員 ヘ・ワン(He Wang)

岐阜大学 教育学部・工学研究科
シニア教授 仲澤 和馬(なかざわ かずま)
(理化学研究所 開拓研究本部 齋藤高エネルギー原子核研究室 客員研究員)
学振特別研究員(研究当時) 吉本 雅浩(よしもと まさひろ)

東北大学 大学院理学研究科
助教 吉田 純也(よしだ じゅんや)
(理化学研究所 開拓研究本部 齋藤高エネルギー原子核研究室 客員研究員)

立教大学 大学院人工知能科学研究科
准教授 瀧 雅人(たき まさと)

Instituto de Estructura de la Materia(IEM), CSIC, Spain
研究員 クリストフ・ラッポルド(Christophe Rappold)

研究支援

本研究は、日本学術振興会(JSPS)科学研究費補助金基盤研究(A)「ラムダ粒子間、グザイ-核子間相互作用の解明(研究代表者:仲澤和馬)」、同新学術領域研究(研究領域提案型)「ストレンジ・ハドロンクラスターで探る物質の階層構造(研究代表者:田村 裕和)」による支援を受けて行われました。

原論文情報

Takehiko R. Saito, Wenbou Dou, Vasyl Drozd, Hiroyuki Ekawa, Samuel Escrig, Yan He, Nasser Kalantar-Nayestanaki, Ayumi Kasagi, Myroslav Kavatsyuk, Enqiang Liu, Yue Ma, Shizu Minami, Abdul Muneem, Manami Nakagawa, Kazuma Nakazawa, Christophe Rappold, Nami Saito, Christoph Scheidenberger, Masato Taki, Yoshiki K. Tanaka, Junya Yoshida, Masahiro Yoshimoto, He Wang, Xiaohong Zhou, “New directions in hypernuclear physics”, Nature Reviews Physics, 10.1038/s42254-021-00371-w

発表者

理化学研究所
開拓研究本部 齋藤高エネルギー原子核研究室
主任研究員 齋藤 武彦(さいとう たけひこ)

岐阜大学 教育学部・工学研究科
シニア教授 仲澤 和馬(なかざわ かずま)

東北大学 大学院理学研究科
助教 吉田 純也(よしだ じゅんや)

立教大学 大学院人工知能科学研究科
准教授 瀧 雅人(たき まさと)

報道担当

理化学研究所 広報室 報道担当
岐阜大学 管理部総務課広報係
東北大学 大学院理学研究科・理学部 広報・アウトリーチ支援室
立教大学 広報課

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