中性子の寿命の仕組みを垣間見る

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超高速計算による量子色力学方程式に基づいた中性子寿命計算

2018/05/31 理化学研究所

理化学研究所(理研)仁科加速器科学研究センター理研BNL研究センター計算物理研究グループのエンリコ・リナルディ理研BNLセンター研究員、数理創造プログラムのチアチェン・チャン研究員(ローレンス・バークレー国立研究所 研究員)らの国際共同研究グループは、世界最高性能のスーパーコンピュータを複数用いて、中性子の寿命[1]を決めている「軸性電荷gA[2]」の最も精密な計算を実現し、これまでの実験値とほとんど矛盾しないことを示しました。

今後、さらに計算の高精度化を進めることで、理論計算と実験結果に差異が生じれば、それは素粒子物理学の標準理論[3]を超える新しい物理学の兆候となるか、あるいは原子核内の世界に対する私たちの理解を根本的に変えることとなります。

中性子は原子核内では安定ですが、原子核外に取り出されると15分程度で陽子に転換してしまいます。「ベータ崩壊[4]」と呼ばれるこの転換は、中性子を構成する素粒子のクォーク[5]やグルーオン[5]と、標準理論における弱ゲージボソンの相互作用[6]によって引き起こされます。通常の電荷が光と物質の相互作用の強さを表すように、gAは弱ゲージボソンと物質の相互作用の強さを表します。近年、gAと中性子寿命は二つの実験手法で非常に精密に測定されていますが、両手法で得られた中性子寿命の間には約9秒の差があり、この差は私たちの知らない崩壊モードの存在の可能性を示しています。

今回、国際共同研究グループは、スーパーコンピュータと最新の計算アルゴリズムを用いて、中性子寿命を決めるgAに対して、「量子色力学[7]」に基づく精密な理論計算に成功し、実験値とほとんど矛盾しない結果を得ました。

本研究は、英国の科学雑誌『Nature』の掲載に先立ち、オンライン版(5月30日付け:日本時間5月31日)に掲載されます。

※国際共同研究グループ

理化学研究所
仁科加速器科学研究センター 理研BNL研究センター 計算物理研究グループ
理研BNLセンター研究員 エンリコ・リナルディ(Enrico Rinaldi)
数理創造プログラム
研究員 チアチェン・チャン(Chia Cheng Chang)
(ローレンス・バークレー国立研究所 研究員)

カリフォルニア大学バークレー校、ローレンス・リバモア国立研究所、ユーリッヒ総合研究機構、リバプール大学、ウィリアム・アンド・メアリー大学、ラトガース大学、ワシントン大学、グラスゴー大学、Nvidia コーポレーション、トーマス・ジェファーソン国立加速器施設

背景

宇宙誕生のビッグバンのとき、自由に飛び回っていたクォークとグルーオンは、その後合体し、陽子、中性子などのさまざまな複合粒子になりました。この合体の仕組みを決めるのは、「量子色力学」と呼ばれる理論式です。周期表に書かれている全ての元素は、さまざまな原子核からできていますが、原子核の構成要素は陽子と中性子です。ビッグバン直後にできる陽子や中性子といった軽い粒子が、多数集まって太陽のような恒星が生み出され、恒星内部で核融合反応が始まりました。太陽が地球上に生命の進化を起こすのに理想的な環境をもたらしたのは、幸運だったといえます。

2つの陽子が融合して、重水素となり陽電子とニュートリノが放出される核融合反応が起こる頻度は、陽子と中性子の間に働く引力と「中性子の寿命」という二つの要素で決まります。これらの要素の大小は、中性子の「軸性電荷gA」と呼ばれる量で決まります。通常の電荷が光と物質の相互作用の強さを表すように、gAは弱ゲージボソンと物質の相互作用の強さを表わします。量子色力学の理論が正しければ、gAを理論的に計算できるはずであり、gAの値は量子色力学理論の正しさの指標となります。

現在、中性子寿命は二つの実験手法で測定されています。一つは中性子を磁場中に閉じ込めて崩壊する頻度を測る手法で、寿命としてt(trap)=879.4±0.6秒が得られています。もう一つは、中性子をビームにしてパイプ中を飛行させ、その崩壊頻度を測る方法で、寿命としてt(beam)=888.0±2.0秒が得られています。これらの実験結果はどちらも精度が高いものの、約9秒の差があります。この食い違いは私たちの知らない崩壊モードの存在を示唆しています。

量子色力学によると、陽子や中性子の性質や相互作用は、それらを構成しているクォークとグルーオンがもたらす複雑な内部運動の結果で決まることはわかりますが、このような複雑な運動を記述するのは非常に困難です。一方、「格子量子色力学[7]」という計算手法ではgAを直接基本式から計算できるため、その答えを実験と比較できます。従って、この計算精度が十分高ければ、前述の実験結果の食い違いに審判を下すことができます。

研究手法と成果

格子量子色力学とはクォークとグルーオンを4次元格子の上に乗せ、量子色力学で与えられる相互作用を働かせることによって、実際に宇宙で起こっていることを観測する手法です。4次元格子は有限の数しかありませんが、空間的な大きさは中性子の大きさより10倍ほど大きく、中性子を閉じ込めるのに十分大きな「宇宙」です。

この仮想的「宇宙」の中で、量子色力学の方程式を解くためにはモンテカルロ法を用います。モンテカルロ法は統計的なばらつきを与えて真値を探す手法で、格子状に離散化した時空間上で作用経路積分[8](時空間的に可能な経路を全て足し合わす)が用いられます。このようにしてgAが計算されますが、手法上、「統計的なばらつき」や「系統的なエラー」が生じます。統計的なばらつきはスーパーコンピュータの性能を上げれば改善しますが、系統的なエラーの改善は難しいという問題があります。主に中性子の励起状態の存在により系統的エラーが発生し、これを小さくできないため、最終的なgAの値に不確定性をもたらしていました。

今回の手法では、中性子とその励起状態がどのくらい遠くまで格子上を運動するかに着目しました。遠くまで動かせば、励起状態の影響が小さくなり、測定したい中性子で存在する確率が上がりますが、統計的なばらつきが距離に対し指数関数的に増加します。今回の手法では、中性子が運動する距離が短くても励起状態の影響を取り除くことができるため、統計的なばらつきを抑えて中性子自体の状態を正確に数値計算することができました(図1)。

また、計算のために米国のNvidia コーポレーションと共同研究を行い、オークリッジ国立研究所のタイタンなど、グラフィカル・プロセッシング・ユニット(GPU)[9]を使ったスーパーコンピュータを利用しました。GPUはゲーム機によく使われていましたが、最近ではその能力に着目した研究者らがGPUに特化した高度並列化のコードを開発し、科学的な計算に利用しています。これらの努力により、格子量子色力学の計算が格段に進歩しています。

このように、国際共同研究グループは、強力な複数のスーパーコンピュータと最新の計算アルゴリズムを駆使することで、格子量子色力学計算の不確定性を少なくし、gA=1.271±0.013という値を得ることに成功しました(図1)。この値は実験値gA=1.27323±0.00023とほとんど矛盾しておらず、中性子の寿命に直すと、t(latt)=880±14秒が得られました。

今後の期待

今回の計算で得られたgA値は実験値と矛盾しませんが、計算の精度は実験の精度より5倍劣ります。計算精度の大半は統計的なばらつきからきており、今後、例えば理研のポスト「京」[10]や米国のコーラルなどの1秒間に100京回の計算ができるエクサスケールを目指した次世代スーパーコンピュータを用いれば更に精度を上げることができます。将来的には、中性子寿命について、トラップ実験t(trap)とビーム実験t(beam)のどちらが理論的に正しいのかを判定できるでしょう。

今回の手法は、核子[11]の他の性質を正確に計算することにも応用できます。陽子の荷電半径を電子で測った場合とミューオンで測った場合[12]で実験値間に不整合が生じており、研究者間で大きな問題となっています。様々な実験的追試が計画されていますが、今回の手法を用いた、格子量子色力学による高精度の理論計算が切望されています。

原論文情報
  • C. C. Chang, A. N. Nicholson, E. Rinaldi, E. Berkowitz, N. Garron, D. A. Brantley, H. Monge-Camacho, C. J. Monahan, C. Bouchard, M. A. Clark, B. Joó, T. Kurth, K. Orginos, P. Vranas & A. Walker-Loud, “A per-cent-level determination of the nucleon axial coupling from quantum chromodynamics”, Nature, 10.1038/s41586-018-0161-8
発表者

理化学研究所
仁科加速器科学研究センター 理研BNL研究センター 計算物理研究グループ
理研BNLセンター研究員 エンリコ・リナルディ (Enrico Rinaldi)

数理創造プログラム
研究員 チアチェン・チャン(Chia Cheng Chang)
(ローレンス・バークレー国立研究所)

報道担当

理化学研究所 広報室 報道担当

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理化学研究所 産業連携本部 連携推進部

補足説明
  1. 中性子の寿命
    単体で存在する中性子は、15分程度で陽子と電子とニュートリノに崩壊する。原子核内に存在する中性子は安定である。
  2. 軸性電荷gA
    中性子を構成する質量の小さなクォークは、スピンの自由度に対応して左巻き成分と右巻き成分に分けられる。通常の電荷(電磁気学的電荷、ベクトル電荷)は右巻き成分と左巻き成分それぞれの電荷の和で、軸性電荷は右巻きと左巻きの電荷の差である。電磁気学的電荷は保存するため、中性子の電荷は構成するクォークの電荷の単純な和となるのに対し、軸性電荷は強い相互作用の影響から保存しないため中性子の軸正電荷を計算するには強い相互作用の力学をスーパーコンピュータで解く必要がある。
  3. 素粒子物理学の標準理論
    重力を除く素粒子間の基本的な相互作用についての理論であり、現代物理学の根底に位置する。電磁相互作用以外に、中性子を崩壊させる弱い相互作用、原子核を構成する強い相互作用を記述する。
  4. ベータ崩壊
    中性子が、陽子と電子(ベータ線)と反ニュートリノになる崩壊のこと。原子核のベータ崩壊では、陽子が中性子と陽電子とニュートリノになる崩壊も起こる。
  5. クォーク、グルーオン
    物質を構成する最も基本的な素粒子。6種類のフレーバー(軽い方からアップ、ダウン、ストレンジ、チャーム、ボトム、トップ)と3種類のカラー(赤、青、緑)を持つ。また、6種類のクォークにはそれぞれ反クォークが存在する。反クォークを含めると、全部で36種類がある。中でもチャームクォークは、トップ、ボトムに次いで重く、陽子の約1.4倍(質量約1,300MeV)の質量を持つ。グルーオンはクォークを結びつける「のり」の役割をする素粒子のこと。
  6. 弱ゲージボソンの相互作用
    電磁気力は光子の交換で、強い相互作用はグルーオンの交換で生じる。弱い相互作用(ベータ崩壊を起こす相互作用)は弱ゲージボソンの交換で生じる。電荷を持った弱ゲージボソンをW粒子と、電荷を持たない弱ゲージボソンをZ粒子と呼んでいる。
  7. 量子色力学、格子量子色力学
    量子色力学(quantum chromodynamics、QCD)は素粒子の標準理論の一部であり、原子核を構成するクォークとその間に働く強い相互作用を媒介するグルーオンが従う物理法則である。2004年にノーベル物理学賞が授与された。量子色力学によれば、クォークは単体で存在できず、常に数個のクォークが集まって複合体(ハドロン)を作ると考えられている。格子量子色力学(Lattice QCD)は、格子状に分割した四次元時空(縦・横・高さに時間軸を加えた空間)上にクォークとグルーオンを導入して、量子色力学を表した理論。格子量子色力学を大規模数値計算で解くことにより、近似に依らない正しい計算が可能になる。この計算法は、過去約10年の間に飛躍的な進歩を遂げた。
  8. 作用経路積分
    リチャード・P・ファインマンが考案した量子力学の計算手法であり、量子系で素粒子の運動の様子を求める方法である。量子系では量子的な不確定さ(量子ゆらぎ)が存在するため、古典系のような一意的な経路の決定はできない。始点と終点を結ぶ経路は、無数にかつ大域的に分布している。それら無数の経路の合成(計算的な意味での合成)が求める終点の分布を与える。
  9. グラフィカル・プロセッシング・ユニット(GPU)
    もともとはコンピュータの画面表示映像を描画するための処理を行うICであった。三次元グラフィックス処理に必要な大量の演算を並列にパイプライン処理する性能に優れる。一部の高性能計算機では、GPUの並列演算性能に着目し、より一般的な計算に活用する並列計算機として構築している。そのために映像出力端子を省いた専用製品も多く存在している。
  10. ポスト「京」
    スーパーコンピュータ「京」の後継機として、2021年から2022年の運用開始を目標に、理化学研究所が主体となって開発を進めている次世代フラッグシップスーパーコンピュータ。
  11. 核子
    通常、陽子と中性子を指す。陽子や中性子には励起状態があり、gAをはじめとする相互作用の大きさを計算する際には、それらも考慮に入れる必要がある。陽子や中性子とそれらの励起状態を含め核子と呼ぶことがある。
  12. 陽子の荷電半径を電子で測った場合とミューオンで測った場合
    陽子の荷電半径を求めるにはいくつかの実験手法がある。電子やミューオンを陽子と散乱させて求める手法、陽子とミューオンの束縛状態のエネルギー準位から求める手法などがある。現在それらの測定値に食い違いがあることが報告されている。荷電半径は陽子内部の電荷分布に感度がある。

今回の軸性電荷gA の計算値と過去の計算値との比較の図

図1 今回の軸性電荷gAの計算値と過去の計算値との比較

過去の計算値に比べ、今回の計算値(this work)は、計算誤差が画期的に小さいことが分かる。PDG17はこれまでのさまざまな実験値の平均を取って誤差評価を行ったもの。

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